ZZZ | ナノ




浮かれるのも程々に、

頭上で聞こえる盛大なため息に思わず息を詰める。盗み見た彼の顔はすっかり呆れきっていて、やっちゃったなあと布団の中で小さく反省。珍しく重なった非番に、浮かれていたのは事実。どこに行くわけでもないけれど彼と仕事以外で一緒に過ごせるなんて嬉しくて楽しみで仕方が無かったのだ。


早々に報告書をあげて、ご飯を食べて、お風呂に入って、そこまではよかった。それなのに、すっかり舞い上がっていた私はあろうことか子どものようにわくわくとした気持ちに支配され寝れなくなった挙げ句、よく乾かしもしない髪を放置しテレビをつけたままソファでぐっすり。
背中を走る寒気で目が覚めた時にはもう遅く、身体はだるいし頭には鉛が入ってるような鈍い痛みがじわじわと広がっていた。…要するに、こんな大切な日に限って風邪をひいたのです。


「…ごめん、なさい」


一人暮らしが長いからか、意外にも手際良く適当に部屋を片付けタオルを絞り、スポーツドリンクを片手に椅子を引き摺ってきた彼にぽつり。
ふと視線が絡んだけれどそれも一瞬で、すっと逸らされたそれは彼の手元へ。出掛ける予定こそなかったものの台無しにしてしまったことに変わりはなくて、申し訳なさで胸が痛む。


これでも何でも無いふりを決め込んでいたのだ。それなのに、朝顔を合わせるなり彼は驚いた顔をしてそのまま私は彼に首根っこを掴まれベッドにぽい。
大人しく寝てろとぴしゃりと言い放たれてそれはもう小さくなって布団に潜るしかなかった。愛しい彼は怒らせると誰よりも怖いのだ。実家のお母さんよりよっぽど怖くてちっとも頭があがらない。


「あの、」


「朝飯は」


「た、食べてないです」


「食欲は」


「え、っと…あんまり」


「これぐらいなら食えるか」


拒否権さえろくに与えられず差し出されたゼリーをとりあえず受け取り、黙々と食べ進める。どうしよう、なんだか今まで見たことないくらい彼の空気がぴりぴりしていて眉間の皺が深く刻まれている。

おっかない。とてつもなく。正直休まるものも休まらないし下がるものも下がらないくらいにはこの妙な緊張感やら彼の纏う雰囲気やらに押しつぶされそうである。


ちらちらと彼を気にしながら食べ進めるゼリーもようやく無くなり、どうしようかと一瞬悩んだ私の手を彼は見ていたのだろうか。伸びてきた私より一回り大きなその手は空になったカップとスプーンを取りローテーブルへ乗せられる。
そしてその手は迷うことなく彼の持って来た袋の中から小さなカプセルを取り出し私の手に乗せるのだ。思わず冷や汗。彼を伺い見れば何か文句あるかとでも言いたげな顔。


「…の、飲まなきゃ、だめ?」


「当然だ。さっさと飲んでしっかり寝ろ」


この歳になっても未だ薬はどうにも苦手で、それを知っている彼はいつもならば恐らくもう少し優しくしてくれたであろうにとてもじゃないけれどそんなこと言えない程に、飲めと言ってくる。その目つきの悪…いえ、鋭く涼やかな瞳で。


更に明日仕事だろと言われてしまえば私はなんだかますます落ち込んでしまって、仕方なく渡されたカプセルを口に放り込んでは飲み込むのだ。ごくり、喉を水と一緒に通り下っていくそのなんとも言えない異物感に思わず眉間に力が入るけれどその頃にはもう彼は先ほど私の手から取ったカップたちを持ってキッチンに消えていた。


小さな物音をたてながら片付ける音だけを聞きながら、今の気分と一緒に布団に落ちていく意識。風邪を引くと弱ると聞くけれどあながち間違いじゃないのかもしれない。だってほら、今こんなにも寂しくて切なくてしょうがないのだから。





ふと目が覚めた頃にはもうすっかり夜で、保安灯がつけられた部屋は薄暗くそれでもどこか暖かく感じる。幾分か軽くなった頭と寒気のひいた身体を起こして足にスリッパを引っ掛ける。
彼は、帰ってしまっただろうか。戻って来た食欲に明日は問題なく働けそうだなあと嬉しいような少し残念なような複雑な想いを抱えて廊下に出ようと手をかけたドアノブが、触れる直前でかちゃりと下に沈む。

私の手はそのまま空をきりあれ?と思ってるうちに手をつこうとしたドアまでもが無くなりうわっ、と焦ったような彼の声とともにとすんと鼻に小さな衝撃。ちょっと痛い。


「あ、れ…伸元…?」


「なんだ、起きてたのか」


鼻をさすりながらレンズ越しに見た彼の瞳は一瞬驚いたように開かれたけれどすぐに戻り、そして少し穏やかに細められて私を映す。


「顔色、良くなったな」


ぺたりと額にあてられた彼の手のひらはひんやりとしていてなんだか少し気持ちいい。耳に落ちてくる先ほどよりも随分と丸みを帯びた彼の声がなんだか心地よくて…


あ、いや、心地いいのだけれど…


「リビング行くか?」


額から離れた彼の手がそっと私の手を包み込むから、その手を握り返してなんでいるの。そんな可愛くない言葉を投げる私。

帰ってると思っていた。冷たいとは言わない、優しさだって感じていたけれど、それでもなんだか怒っていることに変わりはないようだったし申し訳なさを感じていたのも事実で、そんな想いがなんだか良くない方向へと私を落とすのだ。
どうでもいいなんて言わないけれど、でも何よりも仕事命の彼だから、置いてけぼりだろうなんて少し卑屈になりすぎかな。


「俺がいて困ることでもあるのか」


「困るのは伸元じゃん」


手に力を込めて、いじけたような声。そばにいて、なんて可愛く言えたらどれだけいいだろうと思う。素直になれない私はただただ彼に上手く気持ちを伝えられず、彼の気持ちも計りきれずにいる。


「…名前、何か勘違いしてないか?」


そして彼はそんな私の気持ちをいつだってなんだかんだ言いながら掬ってくれるのだ。どうしてだろう、私の方が彼のこときっとずっと好きなはずなのに、普段は私なんかよりよっぽど人の想いに鈍感で不器用なくせに、まるで私のことなんてお見通しのようで少しだけ、悔しい。


「俺が好きでやっている。それに心配して何が悪い。文句があるならその熱下げてから言うんだな」


握り返していた手を引かれ、口角をあげる彼はやっぱり余裕でなんだかそのままてきぱきとおかゆを出され何故かうっかり食べてしまった私はもう何も言えまい。

随分楽になったなあとソファに座ってぼんやりシビュラとはなんぞやとアナウンサーだかなんだかのお姉さんの声が流れてくるテレビを眺め、ふと我に返る。


「…伸元、明日仕事」


「お前に言われなくても分かってる。というよりお前も仕事だろ」


「そ、そうじゃなくて…あの、帰らないと」


って、私のせいか。


「…ごめん」


「それは何に対する謝罪だ?」


きょとんと首を傾げる彼にぽつり。


「今日のこと、ぜんぶ」


情けなくなる。楽しみだったのに、嬉しかったのに、次いつゆっくり出来るかなんてわからないのに、その大切な一日を自分のその気持ちのせいで台無しにしてしまった挙げ句彼にここまでやらせている。時計の短針は9を越えたあたり。これから彼が自宅へ帰っても、持ち帰りの仕事がなくたって床に就くのは日付が変わる手前だろうか。


ごめんね、小さく繰り返した私に何を言うでも無く彼はそっと目の前にしゃがむ。そしてぽふん、と頭に乗せられる大きなてのひら。
少しだけ力をいれられたそれに首を折れば彼は小さく笑うから私は思わずまばたきひとつ。


「伸元…?」


「馬鹿だな」


そのままそのてのひらはするりと私の頬に降りて来て、親指で優しくなぞられる目元に少し瞳を細めれば彼は更に優しくその綺麗な顔を緩めて


「そんなに気にすることじゃないだろ」


「でも…怒って、た」


「しんどいなら大人しく寝てればいいものを無茶しようとするからだ」


別に一緒に過ごせるのが今日だけなわけではないと彼は笑って続ける。彼にしては珍しく言葉を選ぶそぶりもなく口数が多いように感じるのは、私の不安を彼がとても敏感に感じ取ってくれているからだろうか。


「…率直に言えば俺が心配で傍にいたいと思ったからこうしている。俺が好きでやってることだ、あまり気にするな。それでも気になるなら明日俺の書類を分けてやってもいいが?」


「そ、それはご遠慮願いたいです」


「ああ、そうだろうな。無い頭無理に使うな」


なんだか今日はいつにも増して言われ放題である。それでも、そのまま彼の腕に抱き寄せられあやされるように背中を優しく撫でられればそんな一言だって愛しくなってしまうのです。


「…ありがと、伸元」


「さっさと治せ」


翌日、あれだけ散々人を馬鹿にしていた彼が随分と青い顔をして私のデスクにどん、と書類をお裾分けに来た挙げ句嫌味をひとつ置いて早退していったのはまた別の話であり、征陸さんに愚痴ってやったのも彼には内緒の話である。






- ナノ -