チョコレートと金平糖 もしもこの世界がシビュラに支配された世界じゃなかったら もしもこの世界がもっともっと人の想いを大切にできる世界だったら もしもこの世界が…百年前と変わらぬ世界だったら 「…渡すことも、許されたのかな」 征陸さんから聞いた、今はもう行われることのないバレンタインという行事。 元々はチョコレート会社の策略だったと言っていたけれど、好きな人に想いを伝えることが許される日。 なんて素敵な日なのだろうと思った。 今のこの世界には誰かを想い、恋をして、愛を抱くなんてことは無いに等しい。 人生をともにするパートナーでさえシビュラによって選ばれるし、そのことに疑問を抱く人だっていない。 いたとしても、それは何の意味も無くただただ自分が苦しむだけなのだから気づいていて気づかないふりをする人が多いのが現実だ。 そういう疑問に向き合えば向き合うだけ色相が濁る世界なのだから。 そのシビュラによって隔離され牢屋に閉じ込められてから十数年。もう潜在犯として生きている年数の方が長くなってしまった。そして執行官としての生活も、もうすっかり自分の身体になじんでいる。 自分の手のひらを見下ろせば、それはとても綺麗なものとは思えなくて、見えない血で汚れている気がした。 この手で私はいったい何人の命を奪ってきたのだろう。 間違ったことをしているとか、正しいことをしているとか、そんなことを考えるようになったのは最近のこと。 ただただ猟犬としてでも外の世界に出て、空気に触れて、いろんなものを見る。それだけが全てで、生きていくことに必死だった私。 こんな気持ち、知らなければよかった。執行官に引っ張り上げてくれた彼にどれだけ想いを募らせれば報われるのだろうか。 監視官と執行官。飼い主とその犬。決して交わることの無い関係。交わってはいけない関係。 それなのに、彼はいつだって気遣ってくれたし穏やかに優しく見守ってくれていた。 暗い世界で生きてきた私に光を教えてくれた彼。戦闘技術も、心理学も、ひとつひとつ教えてくれた彼。 そんな彼に特別な想いを抱くようになるまでに時間はかからなかった。 好きだと気づいたときには遅かった。好きになってはいけなかった人。それでもその想いを封じ込めることなんてできなくて、だからせめて彼に悟られまいと生きるしかなくて。 あの暗い世界が嫌いで嫌いで仕方なくて、だから外に出られたときは嬉しくて、それなのに今はあの頃よりずっとずっと苦しい。 「…名前?何してんだこんなとこで」 「うひゃあ!?」 「そんなに驚くことないだろ」 肩を揺らして小さく笑う噂の彼…狡噛さん。 「え、えっと…あの、」 ここは宿舎の廊下にある小さな休憩室のようなところ。普段、よほどのことがない限りここに狡噛さんが足を運ぶことはなくて、まさか会うなんて思ってもみなかった私は思わずびっくりして挙動不審。 なんでここに?という私の大きな疑問が通じたのか 「ああ、とっつぁんに用があってな。…で、お前は何してんだこんなとこで」 …狡噛さんのことを考えていましたとか、チョコレートを渡したかったとか、そんなこと言えるわけもなくて。 渡す勇気がなかったから、捨ててしまおうと思いながらもどうせなら弥生ちゃんあたりと一緒に食べたら少しは吹っ切れるだろうかなんてそれこそ口が裂けても言えない。 「ちょっと、いろいろ…野暮用と言いますか…ね、寝付けなくて、散歩?」 「…珍しいな。何かあったのか」 「な、何かあったわけじゃ、なくて」 あなたのせいで寝れないんです!なーんて言えたらどんなに楽になるだろう。ああ、でもその後待っているのは地獄のような日々だろうか。 挙動不審にそわそわする私に少し不思議そうな顔をしてそれでも心配までしてくれる彼にやっぱり胸がきゅっと締め付けられる。 苦しい。苦しいのに、彼が好きだと思えばそれだけたくさんたくさんほんわかした気持ちもじわじわと広がっていくからたちが悪い。 「…なんだその包み」 出来れば気づかないでほしいと願っていた私の想いは空しく彼の視線に捉えられてしまった紙袋。 …彼がこの日の意味を知らないことに賭けてみるのも、ありだろうか。 「…こうがみ、さん」 「ん?」 「…これ、あの…日頃のお礼っていうか…今日非番だったから、チョコレートブラウニー、作ってみたんですけど…えっと」 「なんだ、お前料理なんかするのか?」 少し意地悪そうに笑う彼に少しむっとして 「う、失礼な…」 それでも、どうやら彼は受け取ってくれる気らしい。 「美味しいかは分からないですけど…良かったら、」 「ははっ、悪い、冗談だ。ありがとな」 紙袋を受け取ってくれた彼は、ふわりと笑って私の頭を数回撫でた。 その優しい手のひらには何の想いもないんだろうなあなんて、うっかり鼻の奥がツンとしてしまう。 「じゃあ、私はこれで!おやすみなさい狡噛さん」 「ああ、暖かくして寝ろよ」 手を振りながら遠ざかる背中を見送って部屋に戻った。極度の緊張から解放されてどっと疲労感に襲われる。 それでも、寝れるわけなんてなくて、翌日征陸さんにずいぶんひでえ顔だなあなんて笑いながら心配されたりもした。 あれから1ヶ月。 特に彼との間に変化はない。当たり前のこと。 彼はバレンタインデーなんて知らないし、あれも日頃のお礼としか言ってない。 彼からしてみたら作ったついでに渡されたようなもので、それが切なくもありそれでいいと安心でもある。 私の気持ちが彼に伝わってしまえば、きっと関係が壊れてしまう。下手したら私は牢屋に逆戻り。 だから、今のままでいい。 彼と同じ空間で仕事ができる今が、潜在犯である私のいちばんのしあわせ。 いっそ彼への想いさえ消えてしまえばいいのにと心の底に蓋をして苦笑いしながら私は今日もドミネーターを構え、同じ潜在犯の命を奪い取っていく。これが私の生きる日常。普通なんて、存在しないのだ。 「…執行完了」 3月と言えどまだまだ暖かいとは言えず、夜が更ければ冷え込みは厳しくて、吐き出す息が白く染まっていく。 ふと横を見れば宜野座さんに報告する狡噛さんと、血溜まりを観察する征陸さんの吐き出す息も白く、消えていった。 「さあて、帰って報告書か。こりゃあテッペン越えちまうなあ」 やれやれと肩をすくめて笑う征陸さんに諦めるんだな、と軽く笑う狡噛さんはなんだか楽しそう。 「帰ったらまず暖かいもの飲みましょうよー」 「お、じゃあ熱燗でも飲むかい」 「いいですね、暖まるかも」 「おい仕事が先だぞ。ついでにとっつぁん、名前を酒に巻き込むな」 「ったく煩い監視官だこった」 3人で笑いながら宜野座さんとドローンの到着を待ち、現場検証やら捜査やらが一段落したところで護送車に戻る途中、すっかり冷えきってしまった身体に思わず力んでコートの前を掴めば後ろを歩いていた狡噛さんが隣に並び 「うわっ」 後ろからぐい、とコートのフードをかぶせられた。 「な、何するんですか」 「少しはマシだろ。それと、仕事終わったら話がある。後で付き合え」 なんだか神妙な顔をして言うものだから、また何かやってしまったのだろうかと不安になる。 「えー、お説教ですか?私今日頑張ったのにー」 彼にがっかりされるのは、嫌なのだ。 そんな不安をひた隠しにして笑いながら言えば、説教じゃないと言い残してさっさと前を歩いて行ってしまう。 まさか、私の気持ちが彼に伝わってしまったのか。思わず青ざめる。だめなのだ、そんなこと。 彼と同じ空間にいることすら許されない世界になんて戻りたくない。 「…どうして」 悪いことなんてしてないのに。ただ、子どもの頃から人より少し犯罪係数が高かっただけなのに。少し、色相が濁っていただけなのに。 神様は意地悪だ。 「宜野座さん、確認お願いします」 「ああ…」 報告書ファイルを転送して声をかければ一通り目を通して問題ないな、となんとも感情のこもってない一言を頂戴した。 この人もエリートではあるけれどシビュラに苦しめられ続けている一人。いつだって刻まれている眉間の皺に少しだけ不憫になって、苦労人だなあと思いながらお先に失礼します、と声をかければちらりと目を見てご苦労だった、の一言…の、はずが 「苗字少し待ってろ」 「…え?」 「狡噛がもうすぐ戻ってくる。なんでもお前を引き止めておけとのことだ」 「あー…」 やっぱり、待ってないとだめか。あんまり良い話ではないような気がして胸のざわつきがおさまらない。 この関係が進展したらどんなに幸せだろうと思う反面、この関係が変わってしまうことがたまらなく怖くて仕方が無い。 そして、その変化は私と彼が二度と会うことのない世界になることを表している。 仕事の話であってほしい。出来ることなら死ぬまで犬としてでいい、道具としてでも彼のそばにいたかった。彼の役に立ちたかった。 そんな願いさえかなえてはくれない神様を、恨むなという方が無理じゃないだろうか。 なんて、こんなことばかり考えているから私の色相はお世辞にも綺麗だなんて言えない色に変わって、濁りを増していくのだけれど。 「宜野座さん、私…あの牢屋に戻されるんでしょうか」 「は?」 「…狡噛さんが、仕事終わってからわざわざ話があるなんて珍しいので…仕事のお話じゃないなら、そういう話かと」 「それは直接狡噛から聞けばいいことだ」 「…そうですけど、これが最後なら宜野座さんにもご挨拶くらいちゃんとしたいじゃないですか」 何とも素っ気ない一言にむっとして宜野座さんを見れば大きなため息がひとつ。 「安心しろ。お前の仕事ぶりは知っている。大体、そんな話俺も聞いてない。狡噛の独断で出来ることでもないからな、無駄な心配だ」 ったくあいつは…と小さなつぶやきが聞こえた気がしたけれど、なんだか宜野座さんが気遣ってくれるのは珍しいことでちょっとだけ救われたから聞こえないふり。 「ん、ありがとうございます」 「ほら、迎えが来たぞ。狡噛、さっさと連れて帰れ。ここでうろうろされてたら邪魔でかなわん」 「なっ、宜野座さんひどいです!」 前言撤回、 「苗字、悪い話じゃない。俺が保証してやる」 「おいギノ、何の話だ」 …は、やめておこう。きっと分かりにくい宜野座さんの思いやり。 上着着ろ、外に出ると言って歩いて行く彼の背中についていけば、連れてこられたのは宿舎の屋上。 背の高い建物が並び、きらきらと光る街の電飾。その光からは生活感なんて微塵も感じられなかったけど、綺麗なものは綺麗だなあとフェンスまで寄って遠くを眺めれば狡噛さんもすぐ隣に立った。 屋上を抜けて行く少し強い風は冷たかったけれど、正直彼と二人きりという時点で私はそれどころではない。 心臓の音がうるさくって、彼にまで聞こえてしまったらどうしようとか、自然と顔に熱が集まって暗くて見えてないといいなとか、そんな心配ばかりが頭を巡っているとき、沈黙を破った彼の声。 「ブラウニー、美味かった」 「…は、」 予想もしなかった一言に思わず思考が停止してきょとんと彼を見上げれば、彼の視線は私ではなく夜景に向けられたまま。 「ありがとう、ございます…?」 「ああ…お礼っつーほどのものじゃないが、まあなんだ、お前にだ」 彼の顔は依然夜景の方を向いていたけれど、目の前に差し出されたのは小さな袋。 そんな、気にしてくれてるなんて思ってなくてびっくりして、同時になんだか気を遣わせてしまったことに申し訳なさを感じながら受け取れば、彼の手はそのまま宙を彷徨った後フェンスにかけられた。 「…中、見てもいいですか?」 「ああ」 かさり、と袋を覗けばそこには10cmくらいのガラス瓶。取り出してみればそこには色とりどりの 「…お星様?」 思ったことをそのまま口に出せば横にいた彼は小さく吹き出して 「金平糖」 聞いたこともない言葉を紡いだ。 「こんぺいとう?」 「今は滅多に見ないが、昔はよく食べられていた日本の砂糖菓子だ」 「…綺麗、ですね」 自分の手の中の瓶できらきらと輝くかわいいお星様のようなもの。外にはまだまだ知らないことがいっぱいあるんだなあとしみじみしながらかわいすぎて食べれないとつぶやけば彼はまた笑う。 「今日、何の日か知ってるか」 「今日?」 「…1ヶ月前の今日は何の日か知ってるんだろう?」 その一言に、しあわせでいっぱいだった胸がざわつき始める。どくん、どくん、と大きな音を立てる私の心臓。息苦しい。 彼は、知ってた…? 「ホワイトデー、バレンタインにチョコをもらった男がお返しをする日だ」 そんな日があることなんて知らなかった。征陸さんが教えてくれたのはバレンタインの話だけ。 だから今日、1ヶ月前のお礼なんて言ってこんぺいとうをくれたのか。 バレンタインの意味を知っている彼が、わざわざお返しをくれて、そこで出す決断なんて、怖くて聞けるわけがない。 彼は優しい人だから、きっと、そんな優しさだけで用意してくれた。 紡がれる言葉は 「名前、俺は」 「あのっ、本当に、日頃のお礼で…別に深い意味なんて、なくて」 優しい嘘か、はたまた厳しい現実か。 「だからっ、あんまり、気にしないでくださいね。あ、こんぺいとうは嬉しいからありがたく頂きますけど…!」 覚悟なんて出来るわけがなかった。自由のない世界で私のたった一つの望みは彼だけなのだから。 彼がいればそれでよかった。彼のいる空間で時間を過ごせればなんでもよかった。 別に、執行官じゃなくたって、どんな関係だって、視界の隅でもいい。何なら姿は見えなくてもいい。 彼が生きていることが分かる世界だったらなんだっていいのに、この願いはそんなにも難しくわがままな願いだったのだろうか。 「おい、」 彼の言葉が怖くて、怖くて怖くて、彼の言葉を遮って自分の口からこぼれるのは嘘で塗り固められた決して綺麗なんて言えない薄っぺらい言葉たち。 「なんか、気を遣わせてしまって、すみませんでした」 俯いて思っても無いことを吐き続ける私に、目の前の彼が動く気配がして…掴まれたのは肩。 「顔あげろ」 少し苛つきを含んだ彼の声にびくりと肩を揺らしあげるもんかと更に俯けばそれを掴んでいた彼の手が離れ、私の顎を無理矢理持ち上げる。 目が合った彼はなんだか酷く険しい顔をしていて、もう何に怒ってるのかもわからない。 「…ったく、なんて顔してんだお前は」 「普通の顔です」 「ああそうかよ。大体人の話は最後まで聞け」 「…嫌」 「名前」 「嫌です!」 「監視官命令だ」 「…っ、ずるい」 ぺし、と手を払いのければ今度は手首を掴まれる。だけど、先ほどまでの荒々しさはそこにはなくて、なんだかやけに優しく、掴まれるより包まれると言った方が近いような、感覚。 「聞きたく…ありません」 そうやって、優しくするから…私は、いつまでたっても吹っ切れないのだ。 どうしたらいい? 「お前はバレンタインを知っていた、あの日のチョコレートはそういうことじゃなかったのか」 どうしたら 「だから、」 どうしたら 「俺はてっきり、」 どうしたら 「…いいですか」 「…?」 「無かったことにしたらいいですか。忘れたらいいですか」 「誰もそんなこと言ってないだろ」 どうしたら、私はあなたのそばにいられますか。 「何の意味もなかった!征陸さんにバレンタインの話を聞いて、でもそれ以上何もないです。たまたま作って、弥生ちゃんと食べようと思ってたところに狡噛さんがいたからっ、だから」 「渡しただけってか?」 嘘で塗り固める私は…なんて無様で、なんて滑稽。これじゃあ、結局彼との関係はぶち壊し。 なんてしょうもない人生。こぼれた涙と、壊れた心の蓋の音。 「…く、ない」 「名前?」 「…やめたく、ないですっ…もう、あそこに戻るのは、嫌」 だから、忘れて…お願いだから、もうその一言が精一杯で、最後の方は声になんてならなかった。 彼がくれた世界を何よりも大切にしたかった。それなのに、それを壊したのは私。馬鹿げてる。 そっと離された手首。ああ、もうだめだと自嘲気味に笑った瞬間、私の視界はまっくらになってぬくもりに包まれた。 「…な、に」 「馬鹿かお前は!」 話を聞けと言ってるだろ!と怒鳴る彼の声が近い。抱きしめ、られてる…? 耳元で響く彼の声に、脳が浸食されていく。 背中にまわされた手は優しく私の背中を撫でて、もう片方の手は私の後頭部に添えられ彼の胸に押し付けられる。 「誰がお前をあそこに戻すって言った!」 「だ、だって」 「わざわざご丁寧にバレンタインにチョコレートブラウニーなんか寄越すから期待してればけろっとしやがって」 「…は、え?」 「…、好きだ」 いつもよりずっと低く掠れた声で耳にささやかれた言葉は、幾度となく夢見た言葉。 「…う、そだ」 「お前な、もう少しまともな返事出来ないのか?」 精一杯しぼりだした言葉に、力が抜けたように笑う彼。それでも腕から解放されることはなくて、もうどうにでもなれと彼の胸に額を押し付ければくすりと笑った気配。 小さなため息とともに、背中を優しくさすられれば私の涙腺は完全に崩壊だ。 止めどなく溢れてくる涙。彼のコートを掴んでどれだけ泣いただろう。 涙が止まった頃、そっと頬を撫でられ見上げると 「はっ、酷い顔だな」 綺麗な顔を崩して笑う彼がいて、なんだかまた泣いてしまいそうになる。 「…好き、」 「ああ」 「好きで、好きで…だいすきで、だから…離れたく、なかった」 「馬鹿だな」 「…だって、私は、潜在犯で」 「そんなところで線引きをしていたつもりはなかったんだがな」 ギノの言うことをあまり真に受けるなと頭を撫でられたけれど、そういうことじゃなくて、きっとこれは自分で引いていた境界線なのだ。 彼に触れる資格などないと、結局シビュラに支配され続けているのは私もなのかもしれない。 何より、この世界には厄介なサイコハザードというものがある。 怖かった。私のサイコパスが、彼に伝染してしまうことが。 私のせいで、彼の色相を濁らせてしまったらどうしようと思ったらもう何も出来なかったと言えば 「…俺はお前のためならどこまでだって堕ちてやるさ」 「〜っ、」 ああもう、どこまでも彼に溺れて行く。 翌日、宜野座さんにこっそり悪い話じゃなかっただろうと言われこの人もあなどれないことを知ったのだった。 |