見えたものは 暖かくて柔らかいものに頬をぬぐわれる感覚に目が覚めた。起きたか、と聞こえるのは優しい彼の声。頬に当てられてるのは暖かいおしぼり…? 「こうがみさん…が、いる…?」 「随分無茶したな。ほとんどが返り血みたいだが、掠り傷が目立つ」 「あれ、」 ここ、どこですかと紡ぐはずだった言葉は、口の中の痺れに声になることはなかったけれど、彼には伝わったようで 「俺の部屋だ。立てるか?先に風呂入っちまえ、気持ち悪いだろ」 話はそれからだ、と少し怒ってるような声色にきっとあとでお説教かなあと思いながら彼に連れられて浴室に入る。 着替え置いとくぞ、と扉の外から聞こえた声に返事をしてふと目に入った鏡に移る自分の身体。 シャツを通して身体中についた血の跡と、髪にも血がべったり。おまけに擦り傷に痣と目で追えば追うほど脳内に広がるのはあの男の荒い息とか、身体をまさぐる汗ばんだてのひら、そして身体に降り注ぐ血液。 あのとき、一瞬でも脅威判定の更新が遅れたら私は、落ちてきた女の子のように好き勝手触られて殺されていたのだろうか…そこまで考えると競り上がってくるのは吐き気。 それに混じってシャワーによって落とされるこびりついた血液が排水溝に飲まれていく様さえ、気持ちが悪くて仕方がなくて、吐くものがなくなり喉が切れ血が出るまで私は吐き続けるしかなかった。 キュ、と蛇口を捻り脱衣所に出て彼が出してくれた服を着る。日頃彼が着ているスウェットだろうそれからは彼のにおいがしてなんだか鼻の奥がツンとした。 肩からタオルをかけて髪を適当に拭きながら彼の元に戻ればそっと水の入ったコップを差し出してくれたのだけれど、今は何も胃にいれたくなくて受け取るだけ受け取ってソファに座れば追いかけるように後ろを歩く彼が口を開き 「少しは落ち着いたか」 空気だけでも伝わってくる、気遣われているのだと。 「…ん」 「何があったかは大体分かってる。被害者の身元も割れて遺族に連絡も取れた」 その一言にどっと肩の力が抜けてしまった。良かった、の一言に尽きる。 遺体がちゃんと家族の元へ帰れるなら一安心。せめて最期の最期くらいは、彼女を愛していた人たちの元で、と思うのは果たして偽善か綺麗事か。 「事件自体は解決だ。ただな、お前はあいつに何をされた」 私の隣に腰を下ろした彼の手が髪を拭いている私の手に伸びてタオルをとって髪を拭いてくれるその動きが優しいから、あんまり怒ってはないのかな。 特別何かされたわけじゃないけど、と一通り話し終わる頃には私の髪の水分は丁寧に拭き取られて、彼の手はただただ私の頭を撫でるためだけに動かされていて少し目を細めた。 「…大丈夫ですよ、何もされてません」 「人の顔見た瞬間ぶっ倒れた奴がよく言うな」 「あはは…狡噛さんの顔見たら、安心しちゃって。でも本当に」 「何が大丈夫なんだ?吐くものがなくなるまで吐いて、青白い顔して」 襲われて怖かっただろう、素直になれと掴まれた手に思わず先ほどあの男に掴まれた感覚を呼び戻してしまって、ほら見ろと困ったように笑われてしまえば私にはもうどうすることもできなかった。 怖かった。彼以外の男に触られることが、ドミネーターが応えてくれないことが、死んでしまうかもしれないことが、目の前が一気に赤く染まって、熱いくらいの血液が顔に降りかかってきたことが、なにより彼に会えなくなってしまうことが、たまらなく 「こわ、かった」 怖くて、気持ち悪くて、自分の無力さとか、全部突きつけられた気がして、ここでやっていけなかったら私はまたあの檻の中に逆戻りなのかとか、そんなところまで考えたりして、 「…返り血で染まるお前を見て、俺は心臓が止まるかと思った」 自分の胸に閉じ込めるように抱き寄せてくれる彼の腕とか、優しく背中を擦ってくれる彼のおおきな手のひらとか、耳元で囁かれる彼の少し切羽詰まったような声とか、何もかもに心底安心して、色んな気持ちが入り交じって溢れ出てくる涙。 「明日は俺もお前も非番だろ、好きなだけ泣けばいい」 ただただ受け止めてくれる彼に大いに甘えて、彼のシャツを濡らす。 どれくらい経っただろう、私が落ち着いたのを見計らって何か食えるかと降ってきた声に頷けば冷蔵庫に向かう彼。 戻ってきた彼の片手には何故かカップのバニラアイス。こんなものを日頃から常備しているような人ではないものだから思わずきょとんとすれば、彼は少し罰の悪そうな顔をしてとっつぁんからだと教えてくれた。 征陸さんからだとしても、それはそれでなんだかちょっと可笑しくて、笑ってしまうのだけれど。 恐らく私を抱えて征陸さんのところまで行ったのだから、征陸さんにも随分心配をかけてしまったんだろうなあと少しばかり申し訳なくなりつつもその心遣いに感謝してアイスを受け取る。 口の中は切れてて痛いし、冷たいものはありがたい。 「…いただきます」 「ああ」 ぺり、と蓋をめくってぱくりと口に運べば冷たくて甘いアイスがさらりと溶けていってその甘さにも癒され、緊張感はどこへやら。 恐怖も吐き気も何もかも、彼に溶かされておいしいなあなんてぼんやり考えられるくらいに彼の優しさで頭も胸もいっぱいになる。 「ありがとうございます、狡噛さん」 「…あんまり俺の見えないところで無茶してくれるな」 今日はこのまま泊まっていけと、甘やかしてくれる気満々な彼にこくりと頷けば彼はふわりと笑う。 その後、消毒するぞという宣言と共に傷に押し当てられた消毒液に今度は違った涙が出るのだった。 . |