5.きみが愛しいと気付いたから。 彼女と恋人という、言葉にするとどこかむず痒いような関係になった頃はそれでも荒れていたと思う。悪化を続けるサイコパスに少し神経質になりすぎていたような気もする。余裕なんて皆無だった。 それでも、新米の執行官が一人増えた頃には少しだけ気持ち程度ではあるが仕事に余裕も出来て来て、彼女との時間もそれなりに確保出来るようになりつつある。 当直明けやその前、仕事帰りが主になるデートなんて呼ぶにはあまりにも彼女に申し訳ないようなもの。それでも彼女は何一つ文句も言わずに付き合ってくれている今。 丸一日一緒に過ごせることなんて、滅多に無い。お互いに不定休の仕事なのだから仕方が無い部分もあるが時間の縛りがありいつだってつぶしてしまうのは俺のほうで、少しぐらい嫌な顔してもいいだろうにと思うのに彼女はいつも笑うのだ。 少しばかり不可解な事件に積まれる書類。仕事は尽きる事なく、今日だけでなく明日も明後日も片付けなければならないもので溢れかえってそろそろ嫌になりそうだ、と思わず目頭に手をやる。ふと視界に入れた時計は短針がもうすぐ10を越えるところ。残っているのは当直の狡噛だけになりオフィスはすっかり静寂に包まれカタカタとキーボードを叩く音だけが響き吸い込まれていく。 そんな時、端末に着信。ふと名前を見れば表示されているのは彼女で、こんな時間に珍しいと思いながらも出るわけにもいくまい。零すのはため息一つ。今やっている書類が一段落したらかけ直すかと端末を切ろうとした時 「出なくていいのか」 珍しくデスクに向かっていた狡噛が視線を外しこちらを見る。 「お前には関係ないだろう。仕事中だ」 「どうせ残業だろ、急ぎだったらどうするんだ?」 一瞬柄にも無く心配でもされてるのかと思えばすぐにお前に仕事以外の電話なんて珍しいだろ、と余計な一言。顔を見れば何とも楽しそうな顔をしたヤツが居て、何故か少しイラッとした。 「別にお前がいない間に逃げ出そうなんて思っちゃいないさ」 「…少し席を外す」 小さく笑った狡噛の声を聞いてやはりどこか悶々としながらも席を立ち廊下に出れば途切れてしまったコール音。それでもそのまま引き返すのもなんだか勿体ないような気がして、どうせならとすぐに折り返す。 人気のない廊下に響くコール音が数回。鳴り止んだ端末から少しして戸惑ったような焦ったような彼女の声に思わず自分から電話したんだろうと突っ込めば「あー」だか「うー」だかよくわからない返事。 「こんな時間にどうした?」 煮え切らない返事に小さく笑みが零れ、壁に凭れたまま問いかければ遠慮がちに口を開く彼女。 「まだ、仕事中…?」 その彼女の声の向こうに車が通るような音が聞こえ、端々に入るノイズがまるで外にいるようで 「…今どこにいる?」 こんなくそ寒い日にまだ外にいるのか、仕事帰りにしては遅い時間。しかし今日は特に約束もしていなかったはずで、どこかに出掛けていたのだろうか。夜出歩くタイプではないのに珍しいな、とそこまで考えている間も彼女から返事が返ってくることはない。 ただ、彼女の小さな呼吸と、風の抜けるノイズ音が続く。 「名前?」 「あ、あのね…今日、」 会えない、かな。 切なげに絞り出されたその声は、もう何年も一緒にいるというのに初めて聴く声で、あまりにも頼りなくふらふらと夜に吸い込まれてしまいそうな今にも消えてしまいそうな、俺の足を動かすには充分過ぎるものだった。 エレベーターホールに向かいながらもう一度居場所を訊ねれば暫く渋った後ぽつりと下にいると言った彼女に尚更俺は言葉を失う。そこにいろ、それだけ言って狡噛には遅くなるとだけメールをいれる。 何とも軽やかな音をたてて開いたエレベーターに乗り込めばなんでこのビルはこんなにも地上が遠いのかとうんざりする。一階に着くまでが酷く長く感じ、また軽やかな音をたてて扉が開かれるその箱に悪態をつきたくなる。 馬鹿にしてるのか、なんて無意味にも程があるな、本当に俺は事彼女に関してはどうも調子が狂いっぱなしだ。 ロビーを出れば冷たい風が突き刺さり思わず顔をしかめる。上着を持って出て来るべきだった。それでも、まさか外にいるなんて思わないだろ、普通、こんな時間に。 警備ドローンの横をすり抜けたところで見覚えのある人影に、声をかける前に気付いた彼女は頭を下げる、そのまま頭が落ちるんじゃないかというほどに大げさに。 「ごっ、ごめんなさい」 「何かあったのか?」 俺が吐き出す息が白く消えていくのに対し彼女の息が白くなることはない。冷たい風にとりあえずロビーに入れと腕を引けば思わずその冷たさに手が引っ込みそうになる。 全く、いつから居たんだ。 「あの、私入ってもいいの?」 「職権乱用だな」 「えっ」 「人もまばらだし気にするな。少し待ってろ」 以前は被害者として案内するのは裏口からだったし、正面から入るのは初めてのことだったか。物珍しそうに天井を見上げていたところに少しだけ冗談を挟めば弾かれたようにこちらを向いた彼女をソファに座らせ、さっさと自販機でホットココアをひとつ。戻って彼女に渡せばその顔はすぐに緩んだ。 ありがとう、何とも素直な一言で一口、二口と飲む彼女の鼻や頬は随分と赤くなっている。「あったまるなあ」とまるでくらげのようにふにゃふにゃと情けなく笑う彼女の頭にひとつ、てのひらを乗せれば彼女はその顔を更にふにゃりと崩すのだ。 なんでこんな時間に、なんで急に、なんで、疑問はちっとも無くなりやしない。ココアを飲み終えた彼女に聞こうと口を開く前に彼女は立ち上がりまた笑う。 「ごめんなさい、顔、見たかっただけだから…かえり、ます」 こくん。重たそうに、意気込むように頷くその顔が酷く寂しそうに見えて、そして恐らくその寂しそうな顔がまるでいつかの自分を見ているようであったから、今すぐにでも、一分でも一秒でも早く彼女と帰ろうと思った。 電子音と共に玄関が開く。そのまま部屋に入れれば慣れた足取りでソファに座る彼女。 少しばかり罰が悪そうに座るその姿がまるで、耳と尻尾を垂らせた落ち込んでる犬のようで、尚かつそんな彼女に纏わり付いて様子を伺うダイムを見てしまえば駄目だった。 「…っくく」 堪えきれない笑いに顔を上げてぽかん、とする彼女にますます笑ってしまう。微笑ましい以外の何ものでもない。 彼女の顔からも先ほどまでの不安な様子はもう伺えない。きっと、酷く寂しい想いをさせていたのだろうと思うと胸が痛むがそれでも、こうして一緒に居れば彼女は分かりやすい程に嬉しそうな顔をすることが柄にもなく堪らなく幸せに感じた。 久しぶりに彼女と潜り込むベッドにぽつり、寂しかったんですと少し拗ねたように零した彼女を撫で、すまないだか悪かっただか俺もそれなりにどうだとか、なんともはっきりしない会話を続けながら意識を投げる。 そんな記憶は比較的新しい方に分類されるのだろう。 「…あれ以来すっごく甘くなった気がする」 「何の話だ」 嘘だ。何の話かなんて分かっている。それなりに予想はしていたがそれでもまさかそんなところまで思い出話を広げられるとは思っていなくて、罰が悪いのはむしろ俺の方だ。 「私ね、あの頃変な事件続いてたからちょっと心配になっちゃって。その前の大きな事件から伸元どんどんやつれるしピリピリするし」 「だから何の話だ」 「それでも私が会いに行った日から雰囲気柔らかくなってすごく気にしてくれて、私嬉しかったのですよ」 春の柔くあたたかな風に目を細める彼女と、その前にある墓石。もう幾度となく訪れた場所。初めて訪れた時とは違う、優しい彼女の声に耳を傾けていたはずなのに、気がつけばその声にはからかいの色が見え隠れしている。 「相手が公安局の人だなんて笑っちゃうでしょう、お母さん」 「…悪かったな」 彼女にしては随分と意地悪を言うものだ。呆れてため息まじりに投げた言葉は彼女の笑いを誘うことしか出来なかったがそれでも、彼女の横顔はどこまでも嬉しそうに見える。 「もらってくれて、ありがとう」 だから、そんな顔をしてそんなことを言うなんてずるいだろう。彼女になかなか伝えきれない想いばかりが溢れる日々。俺はこいつが大事で仕方がないというのに。愛しいなんていう感情を自分が誰かに抱くだなんて思ったこともなかった。 「…お互い様だろ」 好きだとか愛してるだとか、そんな事をさらりと言えるような性格はしていない。それは彼女も似たようなものである。勿論彼女の方が随分と自分の想いを伝えることには長けているが。 だけど、もう何年も彼女と過ごしているのだ。陽の光を反射し控えめにきらりと光る俺と彼女の薬指にあるそれに嘘はない。愛しているだなんてそんな台詞俺はきっと一生言えることはないのだろうけれど、どこまでだって大事にしたいと思う。彼女がいれば何もいらないとさえ思うのだから。 「次は伸元のお母さんのところだね」 「名前」 名前を呼べば当たり前のように振り向く彼女に、キスをひとつ。 「ありがとな」 驚いたように固まる彼女に精一杯の、愛もひとつ。 瞬きひとつ挟んで嬉しそうに頬を緩め、自然と俺の手を握りにくる彼女のちいさな手をそっと握り返し、春風の中を歩いていく。 一歩、二歩、踏み出す度に彼女と過ごす春をあと何回重ねられるだろうかと思い描きながら。 |