2.誰にも渡したくなかったからで、 就職し、キャリア研修所で過ごす日々はそれなりに忙しかった。彼女との関係は未だ、変わらず。 たまに端末でのやり取りをする程度になってしまったものの、近況報告を交えて最近読んだ本や勉強の話もする。 少しばかりもどかしい不安定な距離感での生活が続き、季節は巡る。彼女と出会ってからもう3度目の春がそこまで迫っている。 それでもまだ外の空気は随分と冷たく、乾燥した風が吹き抜ける。刑事課に配属されてから監視官の仕事にも随分と慣れたものの、端末でのやりとりさえままならない程多忙な日々を送っていた。 その日も徹夜で捜査していた一つの事件が終わり、報告書をあげて帰路につこうかと言う時に警報音が鳴り響き、相棒である狡噛と目を合わせ仕方なく車に乗り込んだ。 夜通しの捜査が一段落したというのに、今度は真っ昼間から何の騒ぎだとうんざりしていれば横にいる狡噛が察して苦笑いを零す。 「そう機嫌を悪くするな、ギノ」 「…さっさと片付けて帰るぞ」 「ああ、そうだな」 警報音の理由はエリアストレスの上昇。大したことではない、事件には発展しそうにないレベルのものだがそれでも処理しなければならない。実際、些細なきっかけで人は変わるものだ。 どれだけ真面目に働いていたとしても、色相が濁ることはある。何でも無い日常を繰り返してたはずが気がつけば潜在犯だったなんて、別段珍しい話ではない。 俺にとっては尚更、嫌ってくらいその可能性を知っているのだから。 佐々山を連れて行った狡噛を見送り、征陸と共に周辺調査を進める。仕方なしに、だ。ホロコスチュームでコミッサちゃんになりきり動き回ることにももう随分と慣れてしまった。ああ、相変わらず視界が狭い。 1時間程歩いても見つからずイライラを募らせていた時、狡噛から対象を保護したと連絡が入り征陸と共に合流すればそこにいたのは 「…せ、んぱい?」 俺の頭の片隅にいつも居た彼女。 「名前、お前何して」 「なになにー、ギノせんせーのお知り合いー?」 佐々山を無視して狡噛を見れば珍しく目を丸くしていたが、どうやら不穏な空気ではないから彼女が何かしたわけでもなさそうだ。それでも彼女がエリアストレスの上昇をもたらしたのだとすれば彼女のサイコパスは、と嫌な汗が背中を伝う。 頭の中を巡る、最悪の事態。頭の片隅にちらつく父親の背中。純粋で綺麗な瞳をした彼女に何があったのかと、自分でも驚く程に焦っていた。 俺のその焦りと真っ暗な思考を止めたのは他の誰でもない彼女自信。 先輩、と先ほどよりもはっきりとした声に彼女に視線を戻そうとすれば、それより先に握られた俺の上着。必死で掴むその小さな手は震えていて彼女の目からはぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。 「狡噛、どういうことだ」 震える背にそっと腕を回し撫でてやりながら状況を聞けば、返ってきた言葉は 「対象はもう車ん中だ。彼女は被害者。佐々山が見つけたんだ」 俺の思考を良い意味で裏切ってくれたものだった。その一言にほっとする。原因は彼女ではない。それだけで肩の力が抜けたように感じる。 狡噛の言葉に佐々山を見ればへらりと笑い、俺が見つけた時は腕掴まれて危うく連れてかれるとこだったんすよーと言うからどうやら彼女は襲われかけていたらしい。 それでも後ほど彼女から話を聞かなければならないことに変わりはないし、何よりこのまま彼女を放っておけるわけもない。 久しぶりに見た彼女の顔が泣き顔なんて、あんまりだ。何よりこの一件で彼女が受けたストレスは相当なものだろう。 ケアを受けさせねばなるまい。だとしたら、多少の私情は混じってはいるかもしれないが監視官としての正しい判断は一つだけだ。 「名前、公安局まで一緒に来い。そこで話を聞く」 この後の予定を訪ねれば大した用事はないと小さく頷く彼女の手を引き、先ほどから茶々をいれる佐々山を黙らせて公安局に戻る。 大して催促はしないがある程度察したであろう狡噛は自ら運転を引き受けてくれたから俺は彼女とともに後部座席に乗り、震える背中をそっと撫でていた。 こういうとき、狡噛ならばもっと上手いこと声をかけるんだろうかと思えばちくりと痛む胸の奥。 「落ち着いたか?」 「ありがと、ございます」 会議室を借りて二人きり、彼女から話を聞けばあの男とは初対面であったし買い物にきていただけだったという。 恐らくはただそこにいただけ、巻き込まれただけだということだろう。 ゆっくりと紡がれる言葉に、事実に、募るのはその男への怒りだけだった。何故彼女がこんなにも、その想いだけでいっぱいだ。 「帰りも送っていく。少し待ってろ」 端末で狡噛に彼女の話を要約して伝えれば、後でしっかり説明しろと条件付きで後処理を任されてくれたことに感謝しながら今度は彼女を自分の車に乗せる。 家は変わってないという。勿論俺も引っ越したわけではないから、何故今までばったり会わなかったのか不思議なくらいだ。 と言っても、学生の彼女と違い俺の生活リズムがあまりにも朝も夜もないものだからなのだろうが。 すっかり落ち着き、助手席で久しぶりにいろんな話をする彼女に少し安心する。サイコパスにも異常は見られなかったし、このまま暫くすれば数値もすぐに戻るだろう。 何より彼女の笑顔がまた見れたことに少なからず嬉しさを感じているのが事実。 「先輩、ありがとうございました」 車を止めればふわりと笑う彼女。無理をするなとか、あんまり一人で出歩くなとか、何かあったら連絡しろだとか、言いたいことは色々溢れてきたのに、俺の口から出た言葉はそのどれとも似つかないもの。 「あんな男に、触らせてたまるか」 小さく掠れたその声がどこまで彼女に届いていたかは分からない。ただただきょとんと首を傾げる彼女に、俺は内心頭を抱えたくなった。 「先輩?」 「…どんな些細なことでもいい。何かあったら連絡しろ」 公私混同もいいところだ。それでも、俺以外の男に触れてほしくないと思った。用意していた言葉で誤摩化しても俺の胸の中はもやもやを広げるだけ。 どうしてあのとき見つけたのが佐々山だったのか。俺じゃなかったのか、俺が見つけてやりたかったとさえ思った。心の底から。 こんなにも濁ったようなはっきりしない感情を抱いたのは初めてのことで、正直どうしていいのか分からず持て余す。 彼女に出会ってからの俺はこういうことばっかりで自分という人間が全く分からなくなってしまいそうだ。 助けてやれなくてすまなかった、と本当に思ったことを声にする。勿論そんな綺麗な感情ばかりではないけれど彼女に伝えられる俺の本音なんてこんなものだ。 後ろめたいような感情を抱いてる分、目が見れなかった。ただただハンドルを握ったてのひらは汗ばみ、妙な緊張感に支配される。 少しの沈黙が続いた後、ふと力の籠っていた手に触れた小さく冷たい手。 「私、びっくりして…佐々山さんって人が助けてくれたけど、一緒にいたの男の人ばっかりだし…怖くて」 だから、先輩が来てくれた時すごくすごく安心したんです。 そう続ける彼女に、じわりじわりと浸食される心。重ねられた小さな手を握り返し、そっと引いて抱き寄せ背中を撫でる。 分からない。自分が、どうしたいのか。それでも、この小さな身体がどれだけの恐怖に侵されたのだろうと思えば堪らなくなった。 少し驚いたように抵抗したものの、ゆっくり背中を撫で続ければその手は弱まる。 「それに、久しぶりに先輩に会えたから…ちょっとだけ、巻き込まれてよかったかなって」 思っちゃったんです、と腕の中で小さく笑う彼女になんだか疲れまでも溶かされたように感じた。 俺と彼女の関係は変わらない。だけど、以前よりも明確に彼女を守りたいという想いだけが強くなっていく気がした。 |