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1.言葉にならなかったからで、


もう随分前の記憶、俺がまだ学生だった頃。それは本当に些細な出来事だった。


高等学校も4年目を迎え、視野に入るのは就職のことばかり。父親が潜在犯になり母親が亡くなってからというもの周りの人間と無闇に接することもなく過ごして来た。
家族と呼べるのは幼い頃からずっと共に過ごしている愛犬のダイムだけ。

その現実を哀しいと思ったことも寂しいと感じたこともない。それが俺にとっての当たり前で日常だった。


その日常に、この年変化が訪れた。


「あの、」


図書室に向かうため教室を出て、廊下を歩いてる時だった。
背後から随分と小さなか細い声が聞こえて、周りを見渡しても誰もいないことから俺のことかと振り向けばそこには声と似てとても小柄な女子生徒が立っていた。


「す、すみません、図書室、どこですか…?」


何度も小さく頭を下げながら、校舎で迷子になったらしいそいつは今にも泣き出しそうな顔をして首を傾げる。
両手に抱えられているのは随分と古い本に見えた。


「…ついて来い」


思ったよりも低い声が出て、何とも無愛想な返事だったと思う。それでもそのときは、他人から声をかけられるということ自体が随分と久しぶりなものだったからそれなりに緊張していたのだ。


なんだか萎縮してしまった彼女に目をやり、まるで自分が悪いことでもしてしまったかのような感覚に陥った後慌てて自分も向かうところだと付け足したような気がする。


その女子生徒が、名前だった。


幸い彼女は俺の父親のことを知らなかったから、両親は事故で亡くなったと嘘をついた。
そんな嘘に彼女は、まるで自分のことであるかのような悲しそうな顔をしたものだから驚かされたのを覚えている。


知れば知るほど、彼女は優しく暖かい人間らしい人間だった。シビュラに支配されている俺とは、まるで別世界にいる人間のようで純粋で綺麗な瞳は光で溢れていて俺には少し眩しく思えた。


それでも、彼女はクラスでは随分と浮いてるようで友人と呼べる人間はいないと言う。

だからだろうか。まるで違う人間のように思える反面、どこか親近感が湧いて気づけば彼女と過ごす時間が増えて


「先輩、」


「今日は何だ?」


「数学です!」


放課後は図書室や図書館、とにかく静かなところへ寄り道しては勉強をする日々。
所謂就活生である俺に気を遣う彼女を言いくるめて、テスト前にはよく勉強を見てやった。
無論誰かに教えるという行動がどれほど自分の勉強に効果をもたらすかを俺も彼女も知った上での行動ではあったが、そんなことよりも何故か彼女の喜ぶ顔が見たいと思う自分がいたのが本当のところ。


外が薄暗くなるまで続く二人だけの勉強会。俺の授業。稀に彼女がリアルタイムで受けている授業の内容を聞かせてもらったりノートを見せてもらうこともあった。
分かりやすくまとめられたノートは、良い復習の手助けになり随分と救われたものだ。


「そろそろ帰るか」


「そうですね」


二人並んで帰路に着く。分かれ道の交差点。何度か彼女の家まで送ると言ったことがあるがいつだって彼女は大丈夫だと笑うからここで分かれるのが当たり前になっている。


また明日、そう紡ぐ彼女に何とも言えない感情を抱くようになったのはいつからだろう。


俺たちはただの先輩と後輩でしかなかった。その関係にいつからか、もどかしさを感じるようになった。
彼女がどう過ごしているのか、何を思っているのか、何を考えているのか、彼女の瞳に映る世界がうらやましく感じた。
この感情の名を当時の俺はまだ知らず、ただただ戸惑いながら彼女との時間を過ごすだけ。


そんな彼女と過ごす日々はあっという間で、季節は春に差し掛かっている。
風は冷たく、空気もひんやりとしているが日差しはどこか暖かく、小さな梅の花が木々を飾り桜のつぼみも見られるようになった頃。


「…本当に?」


「ああ、公安局にな」


「おめでとうございます!わ、よかった…!すごいです先輩!」


俺の就職を、誰よりも、この俺よりも喜んでくれた彼女。
顔をふにゃりと緩めて、うっすら涙を溜めた彼女は見たことないくらいにテンションが高くて思わずつられて笑ってしまったのを覚えている。


それから卒業式までの間はほんの少し過ごし方が変わった。
俺はほとんど授業が無く、彼女も年度末テストが終わり随分とゆったりしていたから、たまに学校を休んで二人で出かけたりもした。

映画を観に行くこともあれば、本を読みに図書館へ足を運ぶこともあった。
彼女の好きな本を借り感想を語り合ったり、音楽を聴いたり、食事をしに行くことだってあった。


勿論基本は相変わらず図書室での勉強会だったのだが。



俺の人生の中で今までにない程の穏やかな時間。そんな時間を過ごしながら、つぼみだった桜が咲き誇る頃。


「卒業、おめでとうございます」


「ああ」


卒業式。大した思い入れもないはずだった学生生活は彼女のおかげで随分と名残惜しいものに変わり、こうして図書室で話をするのも最後かと思うとなんだか胸が締め付けられる気分だ。


お昼前に終わったそれ、校舎の生徒も校庭の生徒ももうまばらになりつつある。
生徒同士で写真を撮るもの、アルバムにメッセージを書きあうもの、教師に礼を言うもの、色々な人間の間をすり抜けて、俺は何を伝えに来たのだろう。


何かを彼女に伝えたかった。彼女と過ごした穏やかな時間が大切なものに思えて、これを愛おしいと言うのだろうか。


「…帰り、ましょうか」


いつも俺から切り出すそれを切り出したのは彼女。そうだな、と小さく頷いて彼女の隣を歩く。
ふわりと頬を撫でるあたたかな風と、その風に乗って空を舞う桜の花びら。分かれ道の交差点の手前にある公園が桜の木で溢れているのを見て気づけば寄り道しないかと紡いでた自分の口。

小さく頷く彼女と公園に入りベンチに座れば、視界に広がるのはどこまでも澄み切った青空と桜の木々。


「…わたし、嬉しかったです」


「ん?」


「先輩が、一緒に、過ごしてくれて。勉強見てくれたり、いろんな話、してくれたり」


空を見上げている俺たちはきっとお互いの表情を知らない。彼女は一体、どんな顔をしているのだろう。


「わたしずっと一人ぼっちだったから」


彼女が小さく笑う気配がして視線を下ろせば、ふわりと笑いながらどこか遠くを見ている彼女がいて、だけどなんだかその顔には違和感があった。


ありがとうございました、とこぼした彼女。そこではっとした。笑っている彼女の頬が、濡れているのだ。


「、名前」


「ごめんなさい、わたし…笑ってようと、思ったのに…」


やっぱり、寂しくて…そう言ってやっぱり笑顔を作りながら必死で目を擦る彼女になんだかたまらなくなって


「あんまり擦るな」


その小さな手を掴む。


「…また、会えますか?」


「当然だ」


それからはただ二人で黙って何をするでもなく並んで座って桜を眺めていた。
頭の中を巡る彼女と過ごした時間。嬉しそうに笑う彼女、数式に苦戦する彼女、からかえば少し怒ったような顔をした彼女。
この気持ちを表す言葉が見つからなくて、どうしたものかと小さく彼女に隠れて苦笑する。


こんなにも暖かく、どこか胸を締め付ける感情を俺はまだ知らない。




日が傾き始め、伝えられない想いを探すように送って行くと言えば彼女は初めて頷いた。


あれが楽しかった、こんなこともあった、と話し始める彼女に返事をしていれば彼女の足がぴたりととまる。


「…ここです。ここの、3階」


角部屋なんですよ、なんて少し自慢げに言うものだから笑ってしまう。


「お仕事…大変そうだし…身体に気をつけてくださいね」


「そうだな」


伏し目がちにかけられる声にどうしてか堪らなくなり、自分でも分からないうちに彼女の手に自分の手を重ねていた。


一瞬驚いたような顔をした彼女は、頬を染め、それでも嬉しそうな顔をしてきゅっと俺の手を小さな手で握るから俺は尚更その手に力を込める。


俺の手で包めてしまうその小さな手を、離したくないと思うこの気持ちは…



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