君との唯一の思い出

 それから二週間後の夜、私は駅前に向かっていた。身に着けたのはTシャツに短パン。あと足元はスニーカー。なんとも素っ気なく女らしさの欠けらなんて微塵も無い格好だけれど、彼だからいいかと割り切った。
 手持ち花火とバケツを手にぶら下げて目的地へと足を進める。なんだかソワソワと気が逸ってしまって待ち合わせ時間より早めに出てきてしまったけれど、駅にはもう彼がいた。

「おまたせ。早いね」
「そうですか?」

 他愛も無い会話をしながら切符を買って改札を通る。学生二人だけで夜電車に乗るなんて、少しワルになったような、いつもとは違う感覚に陥る。乗車した電車の中、私達の間に特に会話は無く窓の向こう側で移り変わっていく景色をただ見つめていた。
 しばらくそのまま揺られていると、目的地の駅に着く。近くのコンビニに入ってライターを手に取りつつ、飲み物を買おうと売り場の前で悩みながら口を開く。

「そうだ。誕生日だから一杯奢るよ」
「それじゃあ、遠慮なく」

 はい。と持たせた小さなペットボトルの水。ジュースとかじゃないのがなんとも彼らしい。ちなみに、今日は彼の誕生日では無いらしく、本当の誕生日を教えてくれそうな気配もない。会計を済ませて二人でしばらく歩きながら他愛も無い会話をする。

「夏生まれっていいよね。アイスクリームケーキが食べられるから」

 ペットボトルのキャップを捻ればプシッと炭酸が弾ける音がする。甘い甘味料の匂いを感じながら喉へと流し込んだ。

「僕は食べたことないですけどね」
「もったいない!夏生まれの特権なのに」

 本当にしょうもない。お互いの記憶の断片に刻みつけられることの無い会話。夏の妙に生温い風を感じながら数分歩いて真の目的地につく。
 真っ黒な夜空に、それをそのまま映したような真っ黒い海。遠くの方はどこからが夜空で、どこからが海なのか境目の検討もつかない。ただ闇が広がっているだけだ。
 花火の大きい袋が二つ。袋の中から手持ち花火を取り出していると彼が私に問いかける。

「買いすぎじゃあないですか? かなりの量ありますよ?」
「いいんだよ。楽しいから」

 だってなるべく長く君といたかったから。なんて正直に言ったら、君はまた嫌そうな顔をするんだろうな。
 ライターを取り出してさっそく始めようとしたけれど少しベタつく潮風のせいでなかなか火がつかない。花京院くんは相変わらずの無関心な表情のまま、私に花火を差し出して待っている。
 カチカチとしばらくの間格闘していると、痺れを切らしたのか彼は私の手からそれを奪って代わりに火をつけた。シュッと勢いよく噴き出した火花は色とりどりに光り砂上に散っていく。

「綺麗ですね」

 そう花火の色と同じ紫色の瞳を細める彼。絵になる風景に見惚れたいところだけれど、花火が終わってしまう前に火を移さないといけない。私は急いで手持ち花火を近付ける。
 赤や緑に紫。オレンジに黄色にピンク。いろんな色の光が砂浜を照らし出す。遠くの方で若い男女が騒いでいる声と波の音を聞きながら、私達は会話もなく静かに花火を眺めていた。たまに彼の横顔を見るけれど、特徴的な前髪のせいで表情は上手く見えなかった。

「いっぱい持っちゃおう」

 二本同時に花火を着けると先程よりも強い光が闇夜に散る。

「いいですね」

 そう言うと彼は四本持ち始めた。欲張りだなあ。なんて思いながら一本ずつ彼の花火に火を移す。強い光と煙が私達を包みそして呆気なく散っていく。そうして何本も同時に付けていけば大量にあった花火もあっという間に無くなってしまった。
 残っているのは線香花火。華やかな手持ち花火も好きだけれどどこか儚さを持った線香花火も私は好き。ライターの小さな火に燃やされて静かに弾ける火花を見ながら私は口を開いた。

「線香花火が最後まで落ちなかったら、願いごと叶うらしいよ」
「君は願い事が好きですね。いつか言いましたけど、僕の願っているものは叶いませんよ」

 彼は寂しそうに、でもどこか他人事のように呟いて、火種の落ちた線香花火をバケツの中に入れる。その一本の余韻を楽しむことなく、彼はすぐにまた新しい線香花火に火をつけた。

「願ってみないと分かんないかもよ」
「分かりますよ。それくらい叶わないものなんです」

 線香花火を見つめたまま彼は答える。袋の中に残る花火は最後の一本だった。私はそれを手に取り地べたに置かれていたライターで火をつける。

「私はお願いするよ。叶うかもしれないから」
「ご自由にどうぞ」

 火種が落ちたそれにもう興味が無くなったのか、彼は私の線香花火に目を移す。紫色の瞳に火花が映り込んで、なんだか朝焼けみたい。一際波が大きく揺れた時、私は意を決して口に出す。

「来年も、花京院くんと花火が出来ま…、」

 私の決意とは裏腹に、願いを言い終える前に地面に吸い込まれるように火種が落ちてしまった。
 今日の最短記録。最後の最後で落ちるだなんてさっきまでの雰囲気が台無しじゃあない。

「……え?」

 間の抜けた私の声が口から思わず漏れたと同時に突然彼は笑い出した。あまりにも長く笑い続けるものだから肩を軽くひじで小突く。そんなに笑わなくてもいいじゃあないか! こちらを向く彼をこれでもかと言うほど睨むと彼は笑いながら謝罪をした。

「すみませんっ。つい、おかしくてっ……。あははっ」
「う、うるさい!もう帰る!片付けるよ!」

 クスクスと笑い続ける彼を横目に水道場で汚れた水を流す。先程までの綺麗さなんて微塵も残っていない燃えカスを、持ってきた袋に突っ込んで口を縛った。
 振り返り彼の方を見るが、口元を抑えてまだ笑い続けている。なんなんだ、とどこかイラついている反面、初めて屈託の無い笑みを見せてくれたことが嬉しくもあった。彼に喜怒哀楽が備わっていることに、どこか安心している自分がいる。

「ねえ、いつまで笑ってるつもり?」
「ふふっ。あー、おかしかった」

 ひとしきり笑った後、眼の端に溜まった涙を人差し指で拭うと彼は私に視線を移した。いつもの淡白で無機質で、何にも興味が無さそうなからっぽな瞳では無い。さっきまでの線香花火みたいな温かさを持った瞳に、不覚にも胸が高鳴ってしまった。
 ときめいたとかそんなんじゃなくて、それが初めて見る優しい表情だった。表面上じゃない。本当に心の底からの笑み。

「君のそのお願い、善処はしてあげますよ」
「ほんと?」

 私の問いかけに彼はただ微笑むだけで明確な答えは出してくれなかった。返答の代わりに「もう遅いから」と自宅まで送ってくれる約束を結んでくれる。彼は小さなペットボトルの中、わずかに残っていた飲料水を飲み干した。

「帰りましょうか」

 彼のその問いかけに私は頷いて、暗く冷たい海に背を向け彼の右隣を歩く。彼と私はかなり身長差があるから、歩幅だって違うはずなのに彼は気を使っているのか、私に歩幅を合わせて歩いてくれていた。
 なんだかそれが私には特別に思えて、とても嬉しかった。あの終業式の帰り道もこうやって二人で歩いていたな、とたかだか数週間前の出来事を思い出す。どこか懐かしいような感覚がまた背中に走った。



 私は、あの時本当に来年も彼と花火が出来るんだと思っていた。今日みたいな二人きりの日がまた来るんだと。信じて疑わなかった。クラスが離れてしまって話すことが少なくなっても、私は信じていた。
 それに、今年も終業式で約束したんだ。今日の夜に駅前で待ち合わせって。

まさか来ないとは思わないじゃあないか。

 エジプトに行くとかなんとか言っていたけれど、そこから帰れていないとか? もしかして約束の日を私か彼のどちらかが間違えた?確認しようにも、彼の家の場所はおろか、電話番号さえも私は知らない。
 三十分、一時間、一時間半、待てど暮らせど彼が来る気配は無く私と同じく待ち合わせをしていた人々は友人や恋人と改札を通っていく。私だけが取り残されているようで、惨めで寂しい気持ちが心を染めていく。結局その日は帰って念の為翌日も、翌週も駅前で私は待っていたけれど彼が来ることは無かった。

 学校が始まったらワケを聞こう。そう思っていたけれど始業式に彼は登校せず、彼が来ない日が何日も続いた。毎日毎日彼のクラスの教室へと出向いたけれど彼が来ている様子は無かった。
 日が段々と短くなり季節の変わり目を感じる頃、彼が東京の学校へと転校したらしいというニュースが学年内で取り上げられた。顔の良さから隠れた恋心を抱く女子生徒もいたせいか、しばらくの間噂話は絶えなかった。
 結局コトの真相も彼の口からは聞けぬまま、私は大切な友人とお別れしてしまった。最後の思い出も作らせてはもらえないなんて。寂しいな。私の部屋には今も湿気って使い物にならなくなったあの日の花火が置いてある。
 さよならくらい、言いたかったな。



 口にくわえたかき氷のスプーンストローを揺らしながら私は海に沈んでいく夕日を見つめていた。一緒に来た友人たちはジュースと花火を買いに行き、私は荷物を見張るために残っていた。噛んだところで味もしなければ、噛み砕けないスプーンをしばらく口で弄ぶ。
 思い出すのは彼のことばかり。夏は君の誕生月だったから、君のことを思い出すのかな。帰ってきた友人達から飲み物を受け取りあの日と同じ赤いラベルの甘い炭酸飲料を喉に流した。
 やがて日も暮れて、青春のページを染める色とりどりの火花が散り始める。夏特有の湿度が集まる夜空の中で、夏の大三角形が私達を羨ましそうに見つめていた。キャーキャーと騒ぐ友人達、それに混じって笑う私。
 彼と共にした花火とは全然違う。花京院くんはあまり何も喋ってくれなかったけれど、あの日の花火は楽しかった?
 君の想いすら聞けていないまま、新しい夏が来てしまったよ。君は今私の知らないどこかで花火をしているのかもしれない。私の知らない誰かと笑いあって、私の知らない話をしていてくれたら、ちょっと寂しいけどそれでもいいのかも。

 楽しい時間もあっという間。線香花火の袋を開けると、あの日の私の言葉がチラつく。線香花火が最後まで落ちなかったら願いごとが叶うらしい。あの日は途中で落ちてしまったから叶わなかったのかもしれないけれど、今日こそはこの火種を落とさずに叶えたい願いがある。
 後片付けを始める彼女達を横目に私は最後の一本に火を付けた。私の知らない所でもいい。もうこの先関わることが無くたっていい。だけどどうか、どうか彼が。

「幸せに生きていますように」

 誰にも聞こえないように、波に飲まれてしまいそうなほどの小声で想いを込める。火種は落ちず、ぱちぱちと火花が散り落ちる気配はさらさら無い。
 ああ、彼は幸せに過ごしているんだろう。生を全うするんだろう。安心感が心を埋めようとしていたその瞬間だった。途端に強い潮風が吹いて、呆気なく地面に落ちていってしまった。消えてしまった想いを私は見つめて失笑した。

「私、花火下手なのかな」
「ねえ、終わった?そろそろ帰ろーよ」

 飽きてしまったのか帰宅を急ぐ彼女達に手を振って「今行く」と声をかける。
 手に握られた線香花火。あの日と一緒のしょうもないオチ。落ちた火種は、二度と灯ることは無い。所詮は迷信だから深くは気にしていないけれど。君の笑い声がどこかで聞こえる気がする。
 けれどここにはもう、君はいない。海で繋がっているどこかの土地で君が笑っていたらどれだけいいだろう。薄くて大きな口を恥じらいもなく開き、笑う彼の顔を思い出すとなんだかとてつもなく彼に会いたくなった。
 先生に聞けば彼の転校先は分かるかもしれない。どこの遠い地であっても今は夏休み。一日会うくらい他愛もないこと。君の誕生日じゃない日に誕生日パーティーを開きたいとアイスクリームケーキでも持って押しかけたい。
 きっと「君が食べたいだけだろ」っていつもの呆れた顔をして笑ってくれるでしょ? それで花火もしてさ、君がなんと言おうと私はまた線香花火に願いを込めるよ。馬鹿にしたように笑うんだろうけど。それでもいいでしょ?
 答えのない問いかけを繰り返しながら改札を通り抜けた。

 彼は本当に最期までいじわるだった。
 たまに見つめる空虚に何があるのかも。
 彼の誕生日も。彼があの日来られなかった理由も。
 大事なことを何も教えてくれないまま。
 彼は寒空の下、私の知らない異国の地で、亡くなったそうだ。