本当の終わり

 幼なじみの承太郎が結婚するらしい。

 承太郎のお母さん、ホリィさんが少し気まずそうに話してくれた。なぜ気まづそうに告げられたのかと言うと、私と承太郎は付き合っていたのだ。高校一年生から大学の……。えっと、あれは二回生の時だったかな。その頃まで付き合っていた。
 高校時代はよかった。恋人同士の甘い会話や時間を過ごしていたし、若気の至りで悪いことにだって手を出した。
 私の青春にはいつも彼がいたのだ。

 状況が変わってしまったのは大学に入ってからだった。頭のいい彼はそれはそれは名門の賢い大学へ。頭の悪い私はそれなりの大学へと進学した。
 それからが良くなかった。彼は日々レポートや研究に明け暮れ、私に会う時間も無いほどに忙しない日々を送っていた。元々言葉にも態度にも出さず、連絡だって彼からすることは非常に稀だ。彼の気持ちがわからなくて一方的に不安が募っていくばかりの日々が続く。忙しい彼に連絡なんて気安く出来るはずもなく、彼の気持ちを定期的に感じることが出来なかった。
 そんなことが重なったからかもしれない。ある日会おうと約束した日のこと。彼が酷い隈を付けて家にやってきた時、何かが私の中でプツンと切れてしまった。気付いていたこと、否、気付いていたのに気付かないふりをしていた感情。

「別れよう」

 玄関口で彼にそう告げた。告げてしまった。
 本当は彼のことがまだ好きだったし、別れたくなんてないと思っていた。けれどそれが最善だと思った。その考えは今でも変わらない。もうこれ以上承太郎の負担にはなりたくなかったし、これ以上私自身も辛い日々を過ごしたくはなかった。彼は少し間を置いたあと、眉間に皺を寄せて「分かった」と低く唸るような声を発して出て行った。バタンと重く閉められたドアをしばらく呆然と見つめ、その場にしゃがみ込んで泣いた。
 ありがたいことに彼は「恋人」としての関係が終わってからも、「幼なじみ」としての付き合いをしてくれた。今までよりも疎遠にはなったものの、縁が切れなかったことが嬉しかった。

 なんてことを思い出しながら二本目の缶チューハイを空ける。こんな日には酒でも飲んでいないとやっていられない。
 大学院に行くために彼がアメリカへ行ってから、彼とは長い間会っていない。向こうでも相変わらず忙しいらしく、長期休みにも彼は帰ってこなかった。彼女とはそこで出会ったのか、お相手はアメリカ人の女性ということだ。
 日本の女が好みと言っていたのに、人生は何が起こるか分からないものだ。国際結婚は手続きが色々と大変だと聞いたことがあるが大丈夫だろうかと考えが浮かんだが、彼の両親も同じ境遇だなと出かけた独り言をチューハイと一緒に喉に流し込んだ。
 喉になにか詰まったような違和感は炭酸のせいだと思うことにする。



 突然の結婚報告から数日が経過したある日。いつものように、帰路の途中である承太郎の家を通り過ぎようと角を曲がった時だった。
 学生時代を思わせるような風貌だが、あの頃のような黒を基調とはしておらず、真っ白な衣服を身にまとった承太郎がいた。なんとなく彼はタキシードも似合うのだろうなと嫌な考えが浮かぶ。久々の再会に声をかけようかかけまいか悩んでいると、彼が私に気付いてバッチリ目が合ってしまった。気付いておいて声をかけない訳にもいかないと思った私は彼の名を呼ぼうと口を開く。
 その時だった。彼の分厚い体から顔を覗かせるブロンドの髪の女性。ああ、彼女が彼の奥さんになる人なんだろう。
 直感で分かった。青く澄んだ瞳に少し気の強そうな風貌。美人であることは確かで、でも何処か可愛らしさも持ちあわせていて……。一目で私にはとても敵わない女性だと分かった。
 どうして現実はいつも唐突で、それでいて残酷なんだろう。

「よお、久しぶりだな」
「あ、久しぶり……」

 私が何も言えないうちに、彼がそう話しかけてきた。その顔には特に何の感情もなくそれに対して胸が疼いた。私が言い出したことなのに。私が別れを切り出したのに。

「Hi」

 ブロンドの髪の女性は私にニコリと微笑んで短く私に声をかける。私は今上手く笑えているだろうか。口角が自然に上がっている自信が無い。
 やっとの思いで喉から彼女と同じ言葉を吐き出した。分かりきっていた事だけれど、彼女と承太郎の会話は英語で、簡単な単語しか聞き取れない私は二人の談話に置いてきぼりだった。
 ただ彼の口から「friend」という単語が出てきたのだけが聞き取れて、それが心につっかえる。元恋人って英語でどう表すのか分からないけれど、似たような単語が出てくることも無ければ彼女が敵意を込めた視線を私に向けることも無い。
 彼はもう私との愛を忘れて彼女にさえそれを伝える意思は無いらしい。私はまだ図々しく貴方が好きなのに。彼が私とのあの日々を、私の青春を、無くしてしまったのだと思うとどうしても辛かった。これが最善だと思ったのは私なのに。これを望んだのは私なのに。
 早く立ち去りたかった。この場から。一刻も早く。みっともなく二人の前で泣き喚くような、癇癪を起こした子供のような事はしたくなかった。
 しかし私はその場からピクリとも動けない。足はおろか、指でさえ動かせない。冷えきった頭で呼吸が浅くなっていくのを感じる。

「あら、奇遇ね!」

 ただただ二人の会話の輪の中に入れず、一人呆然とする私に声をかけたのはホリィさんだった。先程のようにスラリと言葉は出ず、「あぁ……」と気の抜けた音が出る。見慣れたホリィさんの顔は私を安心させた。
 承太郎の家から出てきたホリィさんは私に微笑みかけたあと、彼女を紹介してくれた。案の定彼女は承太郎の婚約者らしく、改めて突き付けられる現実にまた胸を抉られる。

「そうなんですね」

 乾いた笑みを零すことが今の私の精一杯。
 どうやらこれから三人で出かける所だったらしく、私は彼ら三人の背中を見送る。楽しそうに話す三人。彼女もホリィさんも笑っていて、承太郎も心做しか彼女達を見つめる視線は柔らかく温かい。
 私の知らない言語で、私の知らない世界が三人の中にはあって。数年前まで私があそこにいたのに。そこが私の世界だったのに。もうこれ以上関われない。近付けない。踏み込めない。私があの世界に立ち入る隙なんてもう微塵も無かった。