ごっこ遊び

 人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」
 −ヨハネの黙示録 第13章4節−

 空色を纏った筆先が、雪のように白い頬を滑っていく。器用に雫を型どると、その中を空色で塗りつぶす。慣れた動作を隣で眺めていれば、ヒソカがこちらを向いた。

「なんだい?」
「いや、ヒソカが泣いてるところなんて見たことないなって」

 私は自分の左頬をつついて、ヒソカの雫の位置を指し示す。彼が泣いているところを見たことがないというか、泣いている姿すら想像がつかない。私の前に訪れるヒソカは、いつだって薄らと笑みを浮かべていて、悲しみも怒りも表すことはない。薄っぺらい微笑みを剥がしたところで、そんな表情が隠れているとも思えなかった。

「ヒソカも泣いたことある?」
「泣いたことくらいあるさ ボクのことなんだと思ってるの?」
「化け物」

 八割本音で、二割は策略。わざと癪に障るような言い方をすれば、さすがのヒソカでも何か怒りの反応を見せるんじゃないか。だけど、この策は失敗に終わる。

「酷い言いようだね

 その言葉とは裏腹に、ヒソカは口元に笑みを浮かべている。そのまま視線を鏡へと戻し、自身の姿を覗き込む。空色を纏った筆を持ち替えて、今度は派手なパッションピンクを纏った筆を手に取った。そのまま、また器用に筆を滑らせて、右頬に星マークを書いていく。

「事実でしょ?」

 奇抜な色で星の中身を塗っていくヒソカは、私に視線すら寄越さない。頷くことも言葉を返すこともしない。けれど、否定をしないってことは肯定しているととってもいいんだろう。
 目の前の男を人間と形容するには、彼は些か本能に従順で残酷すぎる。かといって獣が適切かと言われれば、彼は獣よりも冷静な狩りをする。人間でも、獣でも、ない。腹の底すらしれない。型に嵌められない、未知の存在、そんな印象を纏めて、化け物と形容するのが一番私が納得出来る。

「最後に泣いたのはいつ?」
「さあ 覚えてないな

 ヒソカは筆を置く。今度はアイライナーを手に取り、漆黒の筆先を目元へと滑らせる。もともとの猫のような吊り目が、更に切れ長に変貌していく。
 覚えていないくらい泣いていないのなら、私は彼の泣き顔を見ることなんて適わないだろう。些細なことで泣くタイプではないし、きっと、私が死んだって彼は泣くことなんてしないから。
 
「それこそ、今日とか

 片目にさっとラインを引いてから、ヒソカは持っているアイラインを一度くるりと回す。
 今日? 携帯の中のカレンダーを見てみる。カレンダーには前から設定していた記念日が表示されていた。
 六月六日、不吉な日。今日は、ヒソカの誕生日だ。
 ヒソカの言葉の意味を考える。今日この日というか、誕生日に関係があるんだろう。誕生、ヒソカの生まれた日。人は皆、大声で泣いて産まれてくる。

「なるほど。今日はヒソカが初めて泣いた日でもあるんだね」

 納得して答えを出せば、ヒソカは軽く頷いてもう片方の目にラインを引き始める。
 さっき彼のことを化け物と言ったけれど、ヒソカはあくまで人間だ。ヒソカにだって、赤ん坊の頃があったんだ。その理屈はわかる。けれど、どれだけ想像力を働かせたって、ヒソカの赤ん坊姿がどうにも思い浮かばなかった。
 小さくて、丸っこくて、あどけない。赤ん坊のイメージは、今のヒソカとは正反対の性質ばかり。ヒソカは大きくて、筋肉質な体で、隅に置けない。そんな彼でも、赤ん坊だったんだ。
 彼にまつわる人間らしいことは不可思議に思えてくる。考えれば考えるほど好奇心をくすぐる、ヒソカのそんなところを私は気に入って、こんな危ない男と関係を続けている。
 ラインを引き終えたヒソカは鏡で自分の姿をしばし見つめた後、私の方を見てくる。褒めて、とでも言うように期待した眼差しを持って。いつもなら軽くあしらっているところだけど、今日の主役はヒソカだ。邪険にするものでもない。

「今日も素敵だよ。色男」

 揶揄うように言ってやれば、ヒソカは満足気に微笑んだ。やっと彼の支度が終わって、化粧も何もかも終えた私は小さく息を吐く。ヒソカの誕生日だからと色々計画して、新しい服も下ろして、化粧だってしたのに。私が化粧を終えた頃にのろのろとドレッサーへとやって来て、化粧を始めたのだからため息も出る。主役のやる気がないのであれば、今日という日はなんの意味もないただの六月六日となってしまう。
 が、本人の気分がどうであれ、私にとっては重要なイベントに他ならない。

「支度できた? 出来たならもう出よう。ヒソカの準備が遅いから、スケジュールが狂ってきてくるんだけど」
「そうかい? なら行こうか

 ドレッサーから立ち上がれば、ヒソカも倣って腰をあげる。忘れ物がないか確認しつつ、二人並んで玄関へと向かった。
 ああ、もう三十分も遅れてる。午前中の予定は一つ行えそうにないな。

「キミって存外優しいんだね
「どこが?」
「ボクの誕生日を祝ってくれるところ かなり計画も立ててくれているみたいだし

 目を細め、心底嬉しそうに微笑むヒソカ。その腹の底は、やっぱり読めそうにない。深く読もうとすると、足元をすくわれるのは私の方だろう。
 
「当然でしょ。私もヒソカに誕生日祝ってもらいたいからね」

 正直にそう答えれば、ヒソカは少し驚いたように瞬きをした。それがちょっと見慣れない表情で、こんな顔も出来るんだとこちらも驚く。見せるきっかけがないだけで、意外と感情はちゃんと持ち合わせているらしい。

「キミってそんなに現金な性格してた?」
「人への優しさには全部下心があるんだよ」

 ヒソカもそうでしょ? とは、さすがに言えなかった。
 ヒソカの人間性は、出会った時から察している。深くは探らないし、探れば探るほど帰ってこれないような気がしてならないから、探ることもない。
 ヒソカの優しさは、演技のようであり、本心のようにも見える。私の優しさに下心があるように、ヒソカがこうして私に接してくれていることにも下心がある。ヒソカの下心、それは下賎なものではなくって、私と戦うことにある。まあ、自らの欲望に従っている点では、下賎と言えるかもしれないけれど。
 私の今日の下心。さっき彼に言った「私の誕生日を祝ってもらうこと」は事実。これはヒソカがそれを守ってくれるかは分からないけれど、予防線を張っておいて損はない。約束を守ってくれるなら、私の命は少なくともあと数ヶ月は伸びるのだ。
 今日この日のためにたてた計画は、一種の延命措置に近い。もちろん、私のための。それが私の下心。
 靴箱の上に置いている卓上カレンダー。六月六日の所には赤い丸が付けられている。本当に不吉で、そんな日に生まれたヒソカがこんな性を持っていることは、なんとなく頷ける。
 つま先が反り上がっている奇抜な靴を履くヒソカの横で、私は赤色のハイヒールを選んで足を通す。

「ねえ、最初のプレゼントを渡してもいい?」

 ヒソカがドアノブを捻ったタイミングで、私は声をかける。私を見下ろす金色と目が合う。海から上ってきた獣が付けていた王冠は、同じような金色をしていたんだろうか。
 ヒールのおかげで、いつもよりヒソカとの距離が近い。彼の肩に手を置いて、頑張って背伸びをして、更に距離を縮める。
 さあ、今日の日を始めよう。彼にとっても、私にとっても大切な日。プロローグは、やはりこの言葉から始めるのが相応しい。

「お誕生日おめでとう、ヒソカ」

 そこに、祝福の意図などなくても。