至極面倒な話

 酔っ払いの介抱ほど面倒なものはない。

「ヒソカって美人さんだね」
「キミに褒められるなんて光栄だな
「なんかムカつく」

 突然華奢な手がヒソカの鼻を強く摘んだ。酔っているから力加減なんてものはない。容赦なく摘んでくる彼女の手首を掴めば、彼女はパッと手を離した。今の会話のどこにムカついたのか、ヒソカには検討もつかない。謙遜せずに素直に言葉を受け取ったのが気に入らなかったのか、それとも単純な妬みか。あるいはその両方だろう。
 けれど、酩酊した相手に筋の通った理屈など存在しないことも、ヒソカは彼女との付き合いで理解していた。

「え? もう閉まるの? そんな時間?」

 迷惑そうな愛想笑いを浮かべて店員が彼女のもとへとやってきた。どうやら店じまいのようだ。呂律の回らない早口で店員を駄々で捲し立てる前に、ヒソカは女の手を取り、店員に何枚かの紙切れを握らせた。

「ほら、帰るよ

 彼女は口の中で何かモゴモゴと言葉にならない声を噛み締めていたが、ヒソカは素知らぬ顔をして彼女の手を引いた。
 彼女と呑むのは、初めてではない。両手両足では事足りぬほどの仲だ。だから、彼女がこうやって酔い潰れる日の感情も大方予想が着く。大抵男にフラれたか、彼女からフッたか。そんな無意味な恋愛をして酒に溺れる彼女を介抱するのは、いつもヒソカの役目だった。
 いい加減素直になれば、その苦しみだって終わるのに。それでも彼女は強情にどこぞの馬の骨を捕まえることをやめなかった。寂しさなんて、紛らわせるはずもないのに。

「やだ」

 ふと、ヒソカは足を止める。か細い声だったが、ヒソカの耳にははっきりと届いた。人通りのない道のど真ん中、酔った二人を、街灯がスポットライトを当てている。

「やだ」

 今度ははっきりと聞こえた。さっき店の中で噛み締めていたのはこの二文字だったらしい。
 いつもは酔っ払った彼女をタクシーに乗せて家まで返すのがヒソカの常だった。だから、こうして駄々をこねられるのは初めてだった。

「嫌って言われてもね…… もうどこも閉まってると思うよ 大人しく帰ろう?」
「やだ」

 ヒソカの思いなど察する余裕もない酔っ払いは小さく屈み込む。手だけは離さず、しっかりと握ったまま。
 ああ、面倒だ。
 酔っているのが彼女でなければ、ヒソカはその手を適当に振り払い帰っていただろう。駄々をこねる女が一人夜道に捨てられているところで、貧相な男が食らいつくか、女が一人道端で夜を明かすくらいで終わる。一人の女の貞操が傷つこうが体が夜風に晒されようが、ヒソカにとってはどうでもいいこと。
 けれども、彼女のことを置いていくことは出来なかった。

「なら、どうしたい?」

 ヒソカは女に倣って屈み込む。下から表情を覗き込めば、女は今にも泣きそうな顔をしていた。笑わせようと思ってお得意の笑みを浮かべてみるも、彼女は笑うどころか、むしろ不満げな色が滲む。

「慰めて」
「……ボクも酔ってるから勃たないよ?」

 揶揄うような軽い口調。彼女がそういう意味で言ったわけがないと踏んでいたからだ。
 ヒソカと女は親しい仲ではあったが、決して身体を重ねたことはなかった。彼女に対してそんな欲を抱いてなかったわけではない。しかし、そんなことをすれば彼女が嫌がるのは目に見えて分かっていた。
 彼女はヒソカを友人として接しようと懸命に努力している。好きでもない男を掴まえて忘れようとしたり、必死に身体の関係を拒んだりするのがその証拠だ。いっそ絆されてしまえば、彼女も楽になれるのに。

「勃たせてよ。男でしょ?」

 返ってきた言葉は意外なものだった。まさか、本当にそういう意味で言ったとは。

「そうは言ってもね こんな道端でスるわけにもいかないだろ?」
「どこならいいの」
「ホテルとか
「じゃあ行こ」

 すっくと女は立ち上がり、ヒソカの手を引き歩き出す。歩みに迷いはない。ずんずんと歩いていく小さな背をヒソカはただ追いかける。

「待ってよ キミ、本当にボクとスる気?」
「黙って」

 振り返らずに声だけをかける彼女。身勝手だと言いたくなったが、ヒソカは大人しく彼女に身を託した。

*

 それなりな広さを持つダブルベッドの真ん中で、自暴自棄の女が眠そうな目をこちらに向けている。ムードもへったくれもあったもんじゃない。

「寝る?」
「起きてる」

 そうは言っても微睡む視線は焦点が合いにくそうだ。ヒソカは枕元に腰掛けて、彼女の頭をひと撫でしてみる。彼女を喜ばせるためにとった行動だったが、彼女は不満げに寝返りを打った。
 ヒソカはめげずにシーツの上に散らばった髪を一束すくい上げ唇を落とす。しかし、彼女の反応は芳しくない。ヒソカなりに慰めているつもりだったが、やはり彼女が望むのはちゃちな子供だましではないようだ。
 ヒソカはベッドの上に横たえる。少し悩んでから、そのまま彼女のことを後ろから抱きしめてやった。

「本当にスるの?」

 首元に額を押しつけて囁いてみる。返答はない。
 まだ残る強いアルコールの匂いが、ヒソカの鼻腔をくすぐる。

「寝ちゃった?」
「起きてるよ」

 今度はぶっきらぼうな答えが返ってくる。
 ヒソカは回した手を彼女の口元へやる。小さな唇を、親指でそっと撫でる。すると、くすぐったそうに彼女は小さく身を捩った。
 ヒソカの指は彼女の身体を滑っていく。唇から下、首を通り鎖骨をするりと撫であげ、ブラウスのボタンへと手をかけて一つ外してみる。しかし、彼女はなんの抵抗も見せなかった。悪ふざけだったと白状するなら、このタイミングがベストなのに。まだ強情を張るつもりらしい。
 彼女の望み通り、この小さい身体を、喰らい、貪り、噛み付いて、彼女が泣くまでそれをやめなかったとしたら。きっと彼女は二度とヒソカを頼ることはないだろう。面倒ごとにだって、もう合わなくて済む。
 だが、ヒソカ以外に頼る術を持たない彼女を虐めて孤独にさせるのは、些か可哀想だ。

「やーめた

 ヒソカはそう言って起き上がる。もう一度ベッドの淵へ座り、長く持て余した下肢を組む。しばらくすると、微かに布の擦れる音が聞こえた。振り返ってみると、彼女の体はヒソカの方を向いている。さっきの音は彼女が寝返りを打った音らしい。
 未だ眠そうな彼女の頭にヒソカは手を添える。彼女の頭は小さい。ヒソカの手のひらにすっぽりと収まってしまうほどだ。それからわしゃわしゃと髪型を崩すようにして乱暴に撫でてみる。また嫌がるかと思ったが、案外彼女は抵抗を見せない。むしろ目を細めて心地良さそうに受け止めている。やはり彼女への慰めは、子供だましの行動くらいで十分だ。

「ねえ、もうやめなよあんなこと 虚しいのは自分でも分かってるんだろ?」
「あんなことって、何?」
「他の男と恋人になって、ボクに隠している気持ちを誤魔化すことさ

 ヒソカの手が止まる。彼女の目が、ゆっくりとヒソカを見上げた。ヒソカはいつものように笑みを浮かべておらず、いたって真剣なものだった。それを認識して、彼女はゆっくりと目を逸らす。
 そんなこと、彼女自身が一番分かっていた。他の男に口説かれても、抱かれても、優しくされても、透かして重ねる姿はヒソカのこと。

「ボクの見当違いだったかな?」

 そんなこと、思ってもないくせに。

「どうだろうね」

 女はまだ白を切る。自身の頭に添えられたヒソカの手に触れれば、大きな手のひらが絡みついてくる。恋人繋ぎの形になり、女が握る力を込めればヒソカも同じように力を返す。それが心地よくて、女はまた目を細めた。

「ヒソカさ、言ってたよね。愛と憎悪は表裏一体って」

 ヒソカにそんな記憶はなかった。過去の言動を覚えているタイプではなかったし、彼女とそんな話をするのは決まって呑んでいる時だ。でないとそんな小っ恥ずかしい話題が彼女との会話で出るはずがない。
 だが、彼女が言うならそう発言したのだろう。ヒソカが今愛について考えてみても、過去の己と同じ意見だ。

「そう言った気もするね
 
 適当に頷けば、彼女はずるずるとシーツを張ってヒソカの元へやってくる。そして組んでいた足にコツンと頭頂部を軽く当ててきた。察したヒソカが組んだ足を解けば、かのはヒソカの足の上に頭を置く。
 今日の彼女は、やはり随分酔っている。いつもはこんなに引き止めたり、甘えたり、ましてや本心を言おうとすることなんてなかったのに。それほど今回は特別な男だったのか。それとも彼女に限界が来たのか。どちらにせよ、好都合だ。

「それがどうかした?」

 ほら、言いなよ。そうすれば、楽になれるよ。
 愛についての何気ない言葉を覚えている。それだけでもう、彼女がヒソカへと抱く想いは明確であった。だが、彼女が言葉を伝えてくれない以上、ヒソカとしても大胆に動くことは出来ない。
 ヒソカにとって彼女との関係性が進展するのはあまり重要ではない。後退する、あるいは崩れるのは御免だった。ヒソカが彼女の面倒に付き合う理由はただ一つだけ。彼女との命懸けの戦い、その甘美な一時を迎えるため。
 彼女との関係が友人であろうが恋人であろうが、ヒソカにとっては同じことだ。ただ付き合い方が少し変わると言うだけ。終わりは同じ。彼女の最期は、ヒソカと出会った時から決まっている。それが彼女の運命なのだ。
 だがヒソカも、我慢することは得意だが焦らされるのは苦手だった。かといってヒソカから動いて彼女に逃げられるのはもっと厄介だ。逃げられて彼女の最期を見届けられないくらいなら、こうして彼女のいじらしさを眺めている方がマシ。そんな考えから、ヒソカはこれまでずっと彼女の面倒に付き合ってやっていた。けれどもう、それも潮時かもしれない。
 彼女は黙ったままだ。整った横顔を見せて、瞳は物思いにふけるように遠くを見つめている。ヒソカは、膝上に散らばった彼女の髪を優しく撫でてみた。細く長い毛は、絡まることなく指の間を通り抜ける。

「私ね、もう傷つきたくないの」

 ぽつり。彼女が呟く。
 じわじわと、彼女の瞳に水が溜まっていく。薄暗い部屋の光をめいっぱい吸収して、それはぽたりと流れ落ちた。それを皮切りに、ぽろぽろと大粒の涙を流し始める。

「もう、傷つきたくない」

 震える声で、もう一度彼女は告げる。ヒソカは彼女の顎に手を添えて、上を向かせた。彼女は目が合うと一瞬目を見開かせたが、すぐにくしゃりと顔を歪める。
 彼女はもうやめたかった。気持ちを拭えやしない無意味な行為を。けれど、やめられなかった。ヒソカへの恋心をどうしても忘れてしまいたかった。
 この恋心が憎しみに変わるのが嫌だった。始まってしまえば、彼の手によって終わる関係。そうなることを、ヒソカとの付き合いで彼女はよく理解していた。だからこそ、ヒソカから逃れたかった。逃れるためだけに他の男と関係を持った。けれど、いつだって本心はヒソカだけを求めている。
 たった二文字。それを告げてしまえば、楽になれる。けれど、言えなかった。言いたくはなかった。
 
「私は、ヒソカに憎まれたくないし、私もヒソカを、憎みたくはないんだよ」

 浅い呼吸で、途切れ途切れに彼女は伝える。愚かで、哀れで、それでいて愛おしい。そんな彼女から流れ出る涙を、ヒソカは指を丸めて拭ってやる。鋭い爪が当たらぬよう、誤って彼女の目を抉りとってしまわぬよう、努めて優しく。

「始まってもないことを憂いても仕方がないと思うけど?」
「始まる前に、終わらせたいの」
「終わらせたいって、ボクと縁を切りたいの?」
「そうじゃないっ」

 いじわる、と一言洩らして彼女は鼻をすする。ずびっと不細工な音が部屋に響いた。

「キミがどう思っていようと勝手だけど、ボクはキミのこと結構気に入ってるんだよ

 その証拠に、こんな面倒なことに付き合ってあげている。興味のない人間に、こんな時間を割く必要はないしする気も起きない。彼女だからこそ、お気に入りの玩具だからこそこの面倒に振り回されてあげているのだ。
 今はまだ、主導権は彼女にある。彼女が動かなくなるその日まで。
 だから、言ってくれれば、ボクはキミに従うよ。それが今は楽しいから。

「ヒソカが気に入ってるのは私自身じゃなくて私の強さでしょ」
「分かってないなあ 強さだけじゃなくて、キミの全てを評価してあげてるのに

 枯れ始めた涙を、もう一度ヒソカは拭ってやる。

「キミはボクのお気に入りなんだ じゃないと、こんなに優しくしないよ

 数刻間が空いて、彼女は曖昧に頷いた。ヒソカが本当に興味のない人間に優しさはおろか興味すら示さないのを彼女は分かっていたから。ヒソカは彼女の頭を優しく撫でてやる。泣き疲れた彼女は瞼が重そうだ。

「もう寝なよ 続きは明日にしよう

 ヒソカは彼女の手を引いてベッドの中へと誘う。彼女は大人しくヒソカの手に従った。ベッドの中に潜り込んだ二人は、向かい合うようにして横たえた。ヒソカの手が彼女の両頬を包み込む。先程まで泣いていたからか、まだアルコールが残っているのか、触れた頬は熱かった。
 ヒソカにとって、彼女との関係の名前はどうでもいいものだ。友人だろうと、利害の一致した都合のいい関係だろうと。けれど、名前も付かない曖昧な関係のまま、焦らされるのは勘弁だ。

「ねえ、ボクのこと好きなんだろ?」

 導線は引いてやった。あとは彼女が火をつけるだけ。
 ヒソカの問いに、彼女は口を噤んだ。様子を伺うようにヒソカを見上げてみるが、視界に映るのは先程のような真剣な顔。いつものように薄ら笑いを浮かべていてくれれば、上手く誤魔化せたんだろう。けど、この表情はズルい。
 月にも似た金色の瞳から逃げたくて、獣のような狙いを定めた視線から逃れたくて、羞恥なんて忘れて彼女はヒソカの胸へと顔を埋めた。心地よい心臓の音が伝わる。それはもう、眠ってしまいそうなほど、心地いい。
 ヒソカは驚くことなく、彼女の腰に腕を回す。初めて抱きしめた彼女の体は小さい。力を込めれば簡単に折れてしまいそうだ。無論、今はそんなことするつもりはないけれど。
 しばらく回答を待っていたが、彼女からの言葉は得られなかった。
 
「言いなよ

 急かすように、誘うように、ヒソカは告げる。しかし、返答はない。名前を呼んでみても、同様だった。不思議に思ったヒソカは自身の胸元へと視線を下げる。少し身体をズラせば、彼女のあどけない寝顔が見えた。
 なんだ、残念。
 酔いが回っていたところに、派手に泣いたから疲れたのだろう。部屋に入った直後も、彼女は眠そうだった。抱き締められたことの安堵と、彼から伝わる心音で眠ってしまったのだ。眠った彼女を起こすのは、さすがに酷だろう。
 ヒソカも諦めて眠る姿勢を取る。腕を伸ばし照明のスイッチを押せば、辺りは暗闇に包まれた。手探りで布団を引っ張り、彼女の肩が埋まるくらいまで掛けてやる。耳をすませば、無防備な寝息が聞こえた。
 
 眠る前に、気まぐれを一つ。
 キミが早く素直になって、ボク以外で傷つかないように。もう、泣かないように。
 願いを込めて、額に口付けた。