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 気付いた時には彼の胸の中で目覚めた。知らないホテルの一室で。カーテンから差す眩しい日差しが、私とヒソカが一夜をこの部屋で共にしたのだと知らしめている。
 もぞもぞと顔を上げればおはよう、の声と共に未だ見慣れない風貌の彼が私の額にキスを落とす。その言動と今自分が置かれている状況で、昨日の朧気な記憶の全貌は安易に察することができた。
 なんで私は今ここにいるんだろう。曖昧な関係は嫌いだし、彼にとって都合のいいイエスマンになるつもりもなかったのに。お酒に酔った勢いだろうけど、どっちから誘ったのかは見当もつかない。

「帰る」
「どうして?」

 ベッドから抜け出そうとすればヒソカの腕が私を捕らえた。大きな手のひらが背に回り、尖った爪先が悪戯に首筋をなぞる。なんともいえないくすぐったさに身を震わせると、彼は可笑しそうに喉を鳴らして笑った。

「私、ヒソカとこういう関係を築くのは嫌」

 笑うヒソカを睨みつけてそう言った。彼は未だ余裕の笑みを崩さずに、背をなぞる手を私の頭に添える。

「こういう関係って?」
「一夜限りの関係っていうか、……体だけの関係」

 語尾は自分にも聞こえないほどの小さな声だった。そこまで言って、昨夜は彼と体を重ねてしまったのだという現実に改めて恥ずかしさが込み上げてくる。
 いや、でも、だって、覚えてない。覚えていないけれど、体に重く溜まる疲労感と、この部屋の惨状がそれを物語っている。彼とする気はなかったなんて言い訳しようが、終わってしまったことを覆すことは不可能だ。
 ずるずると布団の中に潜り込めば、彼も倣って潜りこんできた。顔を見られたくなかったし、今は彼の顔を上手く見れない。逃げようと身を捩らせるけれど、彼に抱きすくめられてしまう。彼の力に敵うわけがなかったし、せめてもの抵抗で胸元を押すがびくともしなかった。

「キミ、昨日は本当に酔ってたんだね

 ヒソカは胸元を押していた私の腕を掴むと、自身の首に回した。自然と距離が近付いて、鼻先がくっつくほどの距離に彼の顔が迫る。マズいと顔を逸らす間もなく、彼は触れるだけのキスを落とした。
 慣れた手つきに彼の交友関係を察してしまえて、複雑な感情が心の中を渦巻く。今なら、まだ間に合う。引き返せる。そう思うのに、私は彼の言葉を遮ることすら出来なかった。

「キミから言ったんだろう? 恋人になりたいって

 額を擦り寄せて、低く甘い声で私に囁く。今、なんて言った? 私から言った? それも、恋人になりたいって、そんな、縋るような言葉……。

「そんな嘘、信じるわけっ」
「本当だよ ボクがそんなくだらない嘘をつくように見える?」
「見える」

 酷いなあ、なんて軽口を叩いて彼は昨夜の顛末を話し始めた。バーで彼に泣き顔を見せてしまったあと、どうやら急に飲むペースが上がったらしい。
 ああ、そう言われて見れば、長年の悩みからの解放感で調子よく飲んだ記憶がある。確かにそこからはあまり覚えていない。

「そうしたらキミがボクのこと口説いてくるから、ここに来たってわけなんだけど
「……私、ヒソカになんて言ってたの」

 本当はそんなこと聞きたくもなかった。聞いてしまえば恥ずかしさで爆発してしまいそうだった。けれど聞いておかなければ、それにすら後悔を覚えてしまいそうだった。

「ボクの言葉で本当に安心できた、付き合うならこうやって優しい言葉をくれる人がいいって
「それで?」
「それならボクと恋人になるかい? って聞いたら、キミがなりたいって答えてくれたんだよ

 ヒソカに抱かれていなければ、今頃頭を抱えていただろう。なんて失態を犯してしまったんだろう。そんな軽薄な誘いに頷いてしまうなんて。
 そんな私をよそに彼は私の首筋に指を這わせる。つうっと下から上へとなぞるしなやかな指先がくすぐったくて、思わず口の端から声が漏れでた。その声を聞くと同時に、ヒソカの口元は弧を描く。

「昨日は楽しかったのにね 本当に覚えてないんだ

 ヒソカはわざとらしく眉尻を下げる。覚えていたらたまったものじゃない。それこそ、本当に恥ずかしさでどうにかなってしまうだろう。
 けれど、ヒソカの言葉に安心感を持ったことも事実。安心したから泣いたのだし、心のどこかで私はヒソカが言ってくれたような言葉をかけてくれる人を探していた。まあ、出会った男が生粋の戦闘狂である点を除いても、その言葉は私に残り続ける。

「ヒソカは良かったの?」
「何が
「私と恋人になったこと。捨てるなら今のうちだよ」

 散々弄ばれて捨てられるなんて都合のいい女になり下がるのは些か癪に障る。告白と言っても所詮は酔っ払いの軽薄な口約束。遊びのつもりなら、今すぐ捨ててほしい。そうしてくれたら、悲しくならないもの。

「そんなもったいないことしないよ やっと手に入れられたのに

 ヒソカの言葉は私の予想を裏切るものだった。てっきり遊びのつもりだと思ってたのに。ヒソカの手のひらが頭から移動して優しい手つきで頬を撫でる。爪が当たらないように、するりと添えられた手のひらは温かくて、私に安心感を抱かせる。

「じゃあ、これからよろしく?」

 そう観念すれば、待っていたとばかりに顎を捕まれキスを落とされる。唇を少し食む淫らなキス。徐々に深まるキスで理性を溶かされるが早いか、彼が上に乗るが早いか、また私は彼に快楽の波へと誘われるのだった。

 それから私とヒソカの関係は本格的に始まった。要は恋人になったのだ。それも、本気の。始めはどうせすぐ捨てられると思った。だってあの日再開するまで、私たちはハンター試験でしか顔を合わせなかったし、思っていたのと違うと捨てられる予感はあった。むしろ、捨てると伝えてくれた方がヒソカの場合優しい対応である。黙って見捨てる可能性の方が彼の場合通常運転だろうし。
 彼は気まぐれで、そのうえ嘘つき。昨日まで大切に可愛がっていた玩具も、彼の気まぐれ次第でゴミに変わる。私だった例外ではない。
 そう思っていた。だけど私の想像とは裏腹に、ヒソカはよく尽くしてくれる男だった。そりゃ、最初は勝手に合鍵を作り私の部屋で食事を用意して待ってくれていた時は驚いた。けれど、慣れとは恐ろしいもので、だんだん彼に絆されていき、突然の訪問にも驚かなくなっていった。
 恋人らしくデートだってした。いつも誘うのは彼からで、しかもタイミングも唐突だった。朝一番に起こされて遊園地に行ったこともあったし、夕食をとったあと夜の散歩にでも行こうと誘われて海へ行ったこともあった。
 眠れない夜には彼の嘘か本当か分からない無駄話を、仕事をミスした日には温かいココアと本心かも分からない優しい言葉を、私に与えてくれた。彼と過ごす内に疑心感は薄れていき、最後は優しい側面ばかりに目が向いた。優しい人、なんて昔だったら思いもしない感情が胸に芽生えていることすら、愛おしかった。
 私にとってヒソカという男は猫のように気まぐれで、犬のように従順な人。欲に素直な点は子供っぽくて、美麗な見た目に反して可愛い印象を抱かせる。付き合ってから、そんな印象をヒソカに抱くようになった。
 はっきり言っておくけれど、本当に彼との日々は楽しかった。過ごす一日一日がかけがえのないほどに愛しかった。
 だから、私は、いつの間にか彼に溺れていた。彼という沼に足を踏み入れ、まんまと外へ出られないほどに深く、藻掻くことも忘れて。
 そんな感情に気付いてから、出会った時のことを時折思い出す。

「ボクね、気に入った子は生かしておくんだ。今殺しちゃもったいないから」

 いくら嘘つきな彼といっても、この言葉は嘘じゃないんだろう。そして、今もその意思は揺らいでいない。そう確固たる自信を持てるのは、彼が生粋の戦闘狂だということを実感しているから。