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 連れてこられたのは洒落たバーだった。カウンター席の一番端に、今度は二人並んで座った。さっきと違って距離が格段に近い。どれくらい近いかというと、彼が身に付けているコロンの匂いが届くほど。外で歩いている時は、行き先がどこかという考えが先行して、香りにまで意識が向かなかった。
 甘くて、濃くて、気を抜けば絆されてしまいそう。そんな危険な香りが鼻腔を掠めた。
 バーテンダーから渡されたカクテルグラスに口付けながら、私はずっと不思議に感じていたことをヒソカに聞いた。

「ヒソカってなんで私のこと生かしたの?」

 聞けばグラスに落とされていた視線がこちらに向いた。

「会うまで自分なりに考えてみたんだけど、やっぱり分からなかったから」

 ヒソカはグラスを軽く揺らしながら、少し考える素振りを見せた。店内に流れるジャズミュージックに耳を傾けながら、私は彼の回答を待つ。
 だって、本当に不思議だったから。聞ける時に聞いておかないと、彼は気まぐれに私の元を去ってしまうだろう。その時、やっぱり聞いておけばよかったと後悔しても遅いのだ。

「ボクは、キミがどうしてそう自分に自信がないのか気になるけどね

 返ってきたのは答えじゃなくて問いだった。ヒソカの中で回答が出なかったか、私が納得するような答えじゃなかったか。どちらにしても、はぐらかされてしまった以上追求することも出来なかった。
 次は私が考える番になった。ヒソカは私を急かすこともせず、ただ黙って私の解答を待っている。少しくらいなら、話してもいいか。そう思ってしまうくらいには、私は酒に酔っていた。

「放出系だからって理由でさ、親に見放されたから」

 口にするだけでも、泣きそうだ。私の苦い苦い思い出。もう随分前のことのように思えるのに、それでも私の胸に深く突き刺さって抜けない。一生纏わりついてくる記憶。
 ヒソカに話を促されているわけでもないのに、私は話を進めていく。

「私の家、道場やってるの。心源流拳法を教えていてね、私も将来そこを継ぐんだって思ってた」

 ヒソカの顔は見れなかった。小さなカクテルグラスに入ったカクテルに反射する自分を見つめ、ぽつりぽつりと話を進める。
 話した通り、私の家は道場をやっていた。父が師範代で、母がそこへ嫁入りしてきた形。私の他に弟がもう一人いて、家族は全員で四人だった。父は強化系で、母は分からない。念能力は父だけが持っていたのか、母には才能がなかったのか。今となってはどうでもいいことだけれど。
 
「十七歳の頃かな。念能力の修行に入るからって、鍛錬で精孔を開いて、修行に励んだ。一定の力量がついたところで念系統を調べたんだけど、結果が放出系って出てさ。その時の、親の反応が、ね」

 酷いものだった。それまで期待を込めて育ててきたのに、念系統が放出系では……。なんて、聞きたくもない言葉をたくさん言われた。
 私自身もショックだった。念能力に遺伝性があるのかは分からないけれど、父が強化系だから私も強化系なんだと自負していた。父からもそうして育てられた。その父の期待を裏切ってしまった。
 けれど、それよりショックだったのは父親が母親の不貞を疑ったことだ。そのことがきっかけで私は母に強く恨まれるようになったし、何より父が私を実子と思ってくれなかったこともショックだった。
 放出系は頭打ちな念系統だと、自分でも思う。だがそれは自身のオーラ量や戦闘経験で変わってくる。他の系統を組み合わせることによって念系統の弱点を補えることだって出来る。大なり小なり経験を積んだ私には、もうとっくにそんなことは分かりきっていた。
 けれど、どうしても両親から貼られた欠落のレッテルは自分では剥がせなかった。それまで道場を継ぐ人間として大切に育てられ、愛情深く接してくれていたのに。私は、期待に答えられなかった。それが未だに傷となり、胸中に蔓延っている。

「だから、未だに自信が持てないんだよ。どれだけ修行しても念系統は、変えられないし」

 だから、親からの愛情も戻ってこない。どれだけ努力したところで。
 言い切った瞬間、途端に物悲しくなって、寂しくなって、泣きそうな気持ちに苛まれる。ここで泣いたら迷惑なのも分かるし、人前で泣くのも気が引ける。ましてや、ヒソカの前で涙なんて見せる勇気もなかった。
 涙を飲み込むように、私はグラスに入ったカクテルを一気に煽った。ジンの独特な香りが喉元を通り過ぎた。

「それで?」

 グラスを置くと、ヒソカの声が降ってきた。なんだかヒソカの顔が見れていなかったけれど、そこでようやく私は顔を上げた。
 ヒソカの表情は至って平然。いや、少し退屈そうな表情をしていた。初めて会った、飛行船の夜のように。

「それでって、終わりだけど」
「へえ、キミも案外くだらないことで悩むんだね」

 その言葉が神経に触れた。長い年月思い悩んでいることをくだらないと言われたからだ。ムカつく、言い返してやる、と口を開こうとしたところでヒソカが言葉で制した。

「別に、放出系だからと言って強さが決まるわけじゃない 念は奥が深いからね
「知ってるよ、そんなことくらい」

 同じ念系統でも、強いやつはいる。戦ったこともある。その上で私が勝ったことも、負けたこともあった。念能力の相性で負けることはあっても、系統だけで負けるということはなかった。
 カラン、氷がグラスにぶつかる音で、かろうじて今ヒソカがグラスに口を付けたことだけが分かる。私は空いたグラスを前にして、なんでこんなことをヒソカに話したのかという後悔に苛まれていた。
 言うんじゃ、なかった。アルコールで火照っていた頭が段々と冷静になっていく。もう帰ろうかな、ヒソカにもこんな話して、迷惑かけたし。やっぱり私ってどこに行ってもダメな奴。

「でもね、」

 自責の念に駆られ始めた時、ヒソカは微笑んでこちらを見た。
 
「キミと戦うところを想像すると、ワクワクするんだ きっとキミとの闘いは楽しいものになる そう確信しているから、ボクはキミのことを生かしているんだよ

 ワクワク? 驚いて思わず声に出すと、ヒソカは頷いてみせる。私との闘いを、楽しみにしている? ヒソカの言葉が上手く言葉が繋がらなくて、私は何度も頭の中で唱える。
 そんなこと、初めて言われた。いや、ヒソカしか言い得ないのだ。

「周りの評価なんて無視しなよ それとも、ボクからの評価じゃ不満かい?」

 そう言って、悪戯っ子のように私の頬をつついた。
 認められた、ただそう思った。ヒソカという強者に。私よりも、私の両親よりも強い、目の前の男に。
 その感情が回りに回って、ポロッと、一粒の涙が頬を伝った。その瞬間、ヒソカは余裕の表情から一転してギョッと表情を歪めた。
 一度溢れた感情は止まることを知らずにボロボロと私から流れ落ち、私の膝を濡らしていく。なんだろ、もう、分かんないなあ。

「なに、どうしたの

 焦ったような声色で、慌てふためくヒソカ。その様子はなんとも見ものだった。普段は余裕のある雰囲気を纏っているのに、今のヒソカは真逆だったから。

「泣くなよ

 困ったような声色で呟いて、口調とは裏腹に優しく指先で私の涙を拭ってくれる。ファンデーションが縒れてしまうとか、今は気にならなかった。単純に嬉しかった。
 ヒソカという強者に特別扱いされている、という優越感。もちろん、"生かされている"と言われてしまった口惜しさもあるけれど。
 依然困惑した表情を向けるヒソカが可笑しくて、ふっ、と笑みがこぼれる。ふふふ、と笑い声をあげるとヒソカは益々不思議そうな顔をした。急に泣き出したかと思えば今度は笑いだしたんだから、無理もない。

「キミ、泣くか笑うかどっちかにしなよ
「ふふっ、ごめんごめん」

 ヒソカの指が離れていく。名残惜しかったけれど、引き止める理由もなかった。持っていたハンカチで涙を拭きながら、なんだか肩の荷がどっと降りたなと感じた。
 思えば、こうやって他人に私の家庭事情を話したのは初めてだったかもしれない。修行に集中していて、学業も疎かになっていた私には友人なんてのはいなかったから、話す機会にも恵まれていなかった。
 もう何年も前のこと。傷を忘れるために、私はハンター試験を受けたのに。結局、彼に言われるまできっと呪縛は解けなかった。

「ありがとう、ヒソカからの評価で十分自信が持てるよ」
 
 彼なりの殺害予告に救われるなんて、なんとも皮肉なことだけど。そう心の中で嘲笑したけれど、私はそれで満足した。今の私には、それだけで良かった。