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 どれだけ歩いただろう。恥ずかしさを紛らわせるまま歩を進めていたらいつの間にかシャワールームへと辿り着いていた。後ろを振り返ってみても、ヒソカはおろか私達が座っていた窓辺も見えなくなっている。
 どうやらヒソカは着いてきていないみたい。本当に彼にとっても時間潰しの行為だったようだ。
 安心してシャワールームの扉を開けようとした時、ふと一枚の紙が挟んでいることに気が付いた。紙、というよりカードのようだ。 首を傾けて見てみると、濃い赤のアーガイル柄があしらわれている。
 見覚えがあった。ヒソカのトランプだ。恐る恐るカードを手に取り、扉の間から引き抜こうと力を入れる。するりと抵抗もなく取れたカード。なんの意図があって挟まれたのかは分からないけれど、このトランプがヒソカのもので、私に宛てられたものだということは間違いないだろう。
 恐怖か、緊張か、ゴクリと無意識に唾を飲み込む。震える手でトランプをひっくり返してみると、そこには十一桁の数字が書かれていた。ボールペンで書かれたのか、細い字だ。
 何かの暗号? なんで暗号なんかで残す必要があった? 他の誰かに悟らせないため? 生憎、暗号を読解する優秀な頭は持ち合わせていないのだけれど、どうしたものか。
 ふと、カードを挟んでいる親指に目がいく。なにか文字の端が見えたから。指で隠れていて見えていなかったけれど、もしかしたら謎を解くヒントかもしれない。恐る恐る親指をズラし、字の正体を見る。
 ……単純なことだった。焦っていた。考えすぎていた。あいつの謎めいた底知れぬ雰囲気に飲まれてしまっていた。
 安堵か呆れか、肺の中の空気を全て吐き出すかのごとく私は大きく息を吐いた。

『電話して

 文字の横には手書きの絵文字が書かれてあった。線で目をと口を表し、その両端には星と雫のマーク。器用な人、顔文字で自分自身を表すなんて。そこら辺の男が考えたヘタなサインよりも、よっぽど洒落ている。
 こんな回りくどいことしなくても、さっき直接渡せば良かったのに。そこまで考えて、ふと気付く。なんでこんなところにカードを忍ばせておいたんだろう。もしかして誰でもよかったのか。いや、それはない。頭を軽く振って考えを消す。彼がコミュニケーションを取ろうと素振りを見せたのは私だけ。
 なら、最初から私がシャワールームに向かっていたことは分かっていたのか。確かに、さ迷っている時トランプタワーを作るヒソカとすれ違ったかもしれない。関わりたくなさすぎて、特に気にもせず通り過ぎたのだけど。ある程度の行動から相手の動きを予測するのは可能といえば可能だけど、ここまで見抜かれていると少し怖いものがある。
 恐らく、ヒソカは私より先回りしてシャワールームに移動。そして電話番号を書いたトランプを扉に挟む。受験者に女は少数だったし、夜も深けていたから私以外がシャワールームに来る確率はかなり低い。だけど誤算が生じてしまった。それは私が迷子になっていたこと。カードを設置した直後、あるいはなくなっているか確認しにシャワールームへ向かった帰り際に私と出会ったんだろう。そして、話の終わりにシャワールームへ誘導。
 うーん、ここまで読まれているとますます気味が悪い。無意識に落としたヒントなんか自覚できるはずもないし、ヒソカが私のどこを見て予測をたてたのかも分からない。謎が多い男だ。
 それにしてもこれ、どうしよ。手間をかけて渡されたものだと分かるとなんだか捨てるのも申し訳ない。街中のナンパのように軽く渡してくれたら、こちらも手軽に捨てられたのに。まあ、このことは後でじっくり考えよう。今はシャワーをさっと浴びて、明日に備えて寝てしまいたい。
 カードをピスポケットへとねじ込んで、シャワーを浴びるために私は扉を開けた。ああでも、電話はしないかな。彼にそんな用が出来るとは思えないし、ね。
 
*
 
 その後しばらくヒソカと話すことはなかった。二日目の試験会場でも時々目が合うことはあってもお互い話さなかったし、距離も空いていた。あの日のように隣同士で座って呑気に話す時間も余裕もなかった。
 それに、彼は途中で試験に落ちてしまった。試験官を半殺しにしてしまったのだ。見るも無残なほど。受験者を一方的に、私欲的に殺していた行為には目を瞑っていたハンター協会も試験官への危害は見逃してくれなかった。
 ヒソカは案外素直だった。処分を言い渡されても平静としていた。同様なんて微塵も感じられなかったし、彼自身もそんな感情は抱いてなかったのだろう。
 試験官の顔は裂け、血だらけで倒れていて表情は見えない。しかし、ソレに向けるヒソカの視線は冷徹そのものだった。退屈さと少量の怒りが滲む視線を注いでいた。

「また来年来るよ

 それだけ言い残して彼は試験官に背を向ける。試験会場を後にしようと歩みを進めるヒソカ。私とすれ違う時、ふと視線がかち合った。あの日のように対等な位置ではなく、私を見下ろすようにして。
 何か言われるのか、身が強ばる。圧倒的な強者を前にして、怯む弱者の気持ち。惨めだが仕方がない。そう自分に言い聞かせる。だって、彼が強いことなど明白な事実なのだから。
 構える私をよそに彼は何も言わなかった。ただ、下がっていた口角が上がった。目を僅かに細めて、気に入った玩具を見つめるかのような、満足気な表情だった。しかしすぐに視線は逸らされ、彼の表情も元に戻る。見間違いかと疑うほど、彼が私に向けた微笑みは一瞬のものだった。
 ヒソカが去ったハンター試験で、私は唯一の合格者となった。ヒソカがいたら、きっと私は試験に落ちていた。あるいは命さえ落としていたかもしれない。それを考えるとあの時ヒソカが去って行ったのは私にとって幸いだった。
 ハンターライセンスの簡単なセミナーを受け終わったあと、ふと右ポケットに違和感を感じた。何か入っている。すぐに何を入れていたか思い出せなかった。というか、試験に合格して気持ちに余裕が出来たからこそ今気づいたんだ。
 何を入れていたっけな、とポケットの中へ手を入れる。小銭ではない。それにしては大きい。しかし紙幣でもない。それにしては少し硬い。まるで、カードのような質感。
 ハッとした。トランプだ。ヒソカのトランプ。完全に失念していた。ポケットからトランプを引き抜いてみると、幸いにも文字は掠れていなかった。十一桁の数字、文面、彼自身を表した顔文字、全て鮮明に読み取れる。
 電話、ね。試験官もいなくなった一室で、未だ席を立てずに私はカードを見つめていた。電話などしても用件がない。関わるだけ自分の寿命を縮めるだけ。
 そう分かっているのに、トランプを握り捨てることも、破り捨てることも出来なかった。理性的な考えなど捨てて、今はただ彼の声が聞きたかった。
 テーブルの上に置いていた携帯電話に手を伸ばす。半ば震える指で彼の番号を打った。あとは着信ボタンを押すだけ。それだけなのに、あと一歩が踏み出せない。
 やっぱりこんなことは間違っていると、抑え込んだ理性が耳元で囁く。今なら未遂で終われると。深く関わることなく終えられると。
 私の震える指は、着信ボタンのスレスレを掠めていた。一体どれほどの時間そうしていたんだろう。少し力を入れるだけで済む話なのに、私はしばらく一寸も動けずにいた。
 これだけ迷って実行できていないのなら、やめた方が良いのだろう。ようやくそう決意して携帯電話を仕舞おうとした、その時だった。携帯が震えた。着信を知らせるランプが着く。登録されていない番号、しかし、見覚えのある番号だった。
 反射的に電話をとってしまった。この電話をとらなければ、今みたいな運命を辿っていなかったのかったのだろうに。