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 瞬間、青年の顔が見えなくなった。いや、正確には首が落ちた。
 ゴトリ。全てを察した瞬間に聴覚が現実を拾った。次に嗅覚。鉄の重苦しい匂いが鼻腔を埋めつくす。
 やっぱり勘は当たった。彼は生き残れなかった、そもそも同業なら彼のオーラに触れた時点で危機を察して備えるか逃げるかを選ぶ。青年はどちらもしなかった。今となってはどうでもいい話に過ぎないか。

「……ヒソカ」
「ん?」

 数時間ぶりに言葉を発した。彼の声はいつも通り落ち着いて、それでいてどこか楽しげだ。カウンターの下をゆっくりと汚染していく血溜まりを、どこか他人事のように私は眺める。掃除するのは私なのに。

「せめてもっと綺麗に殺してよ」
「瓶とその中身が散らばるよりは綺麗だと思うよ
「そっちの方が掃除は楽だったのに」

 大きくため息をつき、私は転がった体躯のもとに歩み寄る。切り口はとても綺麗だった。一寸のズレもない。コレの傷んだ茶髪を掴み、首を持ち上げる。ポタポタと残り少ない血液が黒い床を更に汚した。
 掃除するのめんどくさいな。乾くのを待って削るか、今水を撒いて洗ってしまうか。後者が早いんだろうな。

「ヒソカ、席替えて。水撒くから」

 私は一度首を体躯の上に起き、店の扉へと手をかける。鍵を閉め、他の客を入れさせないためだ。この体躯は裏でバラして業者に売る。引き渡す時には時間が経っているだろうから、値は安いだろうけど。
 ヒソカは私の言葉に倣い、テーブル席へと腰を下ろした。カウンター席よりも大きいテーブルの上にトランプを並べて遊び出す。そんな彼を横目に、私はカウンター内へと戻った。
 蛇口を捻り、バケツへと水を貯めていく。水が溜まる間に男を抱えて裏の部屋へと置いた。ここは別に汚れても構わないから、そのままにしておく。というか、もう汚れてしまっているし。
 表へ戻り、私はバケツを手に取る。思っていたより貯まってて、ちょっと重かった。

「キミって力持ちなんだね
「なにが」
「さっき男の死体を一人で担いでいったから、勇ましいなあって

 呑気なヤツ。ヒソカが殺したくせに。

「面倒ごとにしたのはヒソカでしょ」
「だって、うるさかったから 実際、キミも困ってただろ?」
「そこまで気を使えるなら後始末のことも考えて」

 床に水をぶちまける。お湯だと凝固してしまうから。固まりかけた血液がゆるんだところで拭き取っていく。何度かその作業をしていくと、表面上の血液は全て取り除けた。あとは撒いた水が乾くのを待つだけだ。

「今日はもう仕事する気分じゃないから、悪いけど帰ってくれない?」
「閉めるのかい? なら一緒に飲もうよ

 彼の誘いに私は乗った。手っ取り早く酔いたかった。というか、さっきの惨劇を忘れたかったという方が正しい。いきなり目の前で殺しが行われると、身構えていない私からしたら結構びっくりする。
 返り血で染まったシャツを着替えるべく、私は裏のスタッフルームへと一度戻った。このシャツは捨てよう。その辺の安物だし、クリーニングに出すより新しいのを買った方が手っ取り早い。ゴミ箱に捨てて、私は今日着ていた私服に着替えた。
 そして、片隅に置いてある冷蔵庫を開ける。予備用に、と買った小さな冷蔵庫は、最近まで用済みで、ここの片隅に荷物として置いていた。けれど、最近冷やしておいたものが一つある。本当は一人でゆっくり飲みたかったけれど、今はこれが飲みたい気分なんだから仕方ない。
 表へ戻り、ヒソカの対面に座ろうとしたところで、軽く腕を握られ引き止められる。そのまま引っ張られて、思わず腰掛けたのは彼の隣。

「窮屈じゃない?」
「全く

 ヒソカは上機嫌な笑みを浮かべそのまま私の腰に腕を回す。私は彼の行動を気にとめず、ワイングラスへとワインを注いだ。真っ赤なワイン。たまたま仕入先に限定品として入っていて、勢いのまま仕入れたものだ。
 少量入れ、軽くステアして香りを確かめる。華やかな香り、結構好みだ。口に入れた時の想像をして思わず口角が上がる。
 そのままグラスに口を付けて、ゆっくりと嚥下すれば口内に広がるのは先程嗅いだものよりも深い華やかな香り。柔らかい口当たりに、主張しすぎないアルコール。そして後味は品の良い甘さが余韻として残った。
 当たりだ。限定品にしておくのは惜しいほどに。いや、美味しいから限定品にして価値を高めているのか。

「ヒソカも飲む?」
「キミが言うなら、遠慮なく

 新しいグラスを持って来ようと腰を上げるが、彼の腕が腰に回っているのを忘れていた。退けようと彼の手を掴むビクともしない。諦めてもう一度腰を下ろすと、ヒソカはまた上機嫌に笑った。
 私の口付けたグラスにヒソカはワインを注ぎ、私と同じようにステアする。同じ行動をしているのに、なんだかヒソカの方が様になっているような気がしてちょっと悔しかった。

「うん、美味しいね
「でしょ? 残ってたら同じの仕入れようかな」

 私はワイングラスにもう一度ワインを注いだ。さっきは味見用に少量だけ注いだけれど、今度は半分くらい。ヒソカは残っていた少量のウイスキーを一気に飲み干した。

「さっきから思ってたんだけど
「なに」
「キミって、ボクが触れても怒らないんだね

 確かに。言われてみてはたと気付く。さっきの男は手のひらに少し触れられるだけで嫌悪感でどうにかなりそうだったのに、ヒソカはどうも思わない。
 見下ろすと、鋭い爪を携えた細い指は私の腰をしっかりと掴んでいる。ここまで触れているのに、全く嫌な気はしなかった。

「ヒソカに下心が感じられないからかな」
「どうしてそう思うんだい
「どうしてって、言われても」

 ヒソカに以前向けられた情欲の瞳を思い出す。私が思うに、彼は典型的なサディストというか、俗に言うサイコパスの特徴と近い。自身が対象に危害を加える、又はそれを想像して快楽を貪る奴らは多くはないがそれなりの数は存在している。
 ヒソカもその一人なんだろう。彼の下心は性ではなく戦闘への興奮が身体に現れるもの。だから、殺気も戦闘へのお誘いも口にしていない今、別に彼にそんな下品な思考はないと考えられる。

「ヒソカはそういうことに興味なさそうだから」

 彼にとっての解消方法は、自慰ではなくて命懸けのタイマンなんだろう。
 口寂しさを紛らわすために、私は胸ポケットから煙草を取り出す。箱を握り軽く下へ振れば、何本か煙草が飛び出してくる。

「吸ってもいい?」

 そう聞くと、ヒソカは頷く代わりにジッポを差し出す。キン、という音と共に蓋を開け、赤い炎がゆらゆらと揺れている。ジッポなんて持ってるんだ。彼が煙草を吸っているところなんて一回も見たことなかったから、ちょっと意外。
 燃えないように横髪を耳にかけて煙草の先端を火に近づける。すぐに火がついて、私は息を吸い込んだ。

「キミは何か勘違いをしている
「勘違い?」

 燻る煙を見つめながら、私は問い返す。ヒソカの手は、未だ私の腰に添えられたままだ。

「ヒントをあげよう どうしてボクが熱心にここへ通ってると思う?」
「静かにお酒が飲めるから」
「じゃあ、ボクがさっき男を殺した理由は?」
「うるさくて静かに酒が飲めなかったから」

 灰皿に灰を落とし、もう一度咥える。隣に座るヒソカは苦笑しながら悩ましい声をあげていた。

「なに、違うの?」

 どっちも合っていると思うんだけど。というか、これを言ったのはヒソカからだ。まあ、気まぐれな彼のことだから、過去に言った発言に意味なんてないのかもしれないけど。

「確かにキミの言うことは半分正解 ボクの言ったことを覚えてくれているなんて光栄だ
「じゃあ、」
「でも、ボクは理由をもう一つずつ言ってるはず それは何か、覚えているかい

 今度はこっちが唸る番になった。短くなった煙草を灰皿に押し付けて、私は腕を組む。
 理由、ね。彼の言うもう一つの理由は分かっている。私は情報屋、何気ない会話の一言でも洩らさず覚えておくのはこの業界で常識のこと。だから覚えてはいるけど、にわかに信じられなかった。

「ヒソカが店に来る理由は私がいるから。さっき男を殺した理由は私が困っていた、というより不快になっていたのが原因?」
「正解
「……ヒソカにまともな下心があるなんてね」

 心外だ、とでも言うようにヒソカは肩をすくめた。ヒソカは客観的に自分を見られないのか。まだ見ぬ敵と戦うことを、壊すことを生きがいとして毎日生きているような男がまともな奴と同じ考えをしているとは一見思えない。
 良くも悪くも、彼も一人の人間ということなんだろう。

「というか、ボクのこと褒めてくれてもいいんじゃない? キミが困っていたところを助けてあげたんだから
「血しぶき流すような派手な殺しやっといてよく言うよ。片付け面倒なんだから、もっと静かな殺しは出来ないの?」
「ボクは暗殺者じゃないからね そういったやり方は専門外

 専門外でも考えれば分かるだろう。首を跳ね飛ばす以外の殺し方なんて。頭を思いきり殴るなり心臓を深く刺すなり、殺しをメインでやっていない私でも考えつくんだから。
 それに、仕事中に見た殺しではどんな芸当か血しぶき一つ上がっていなかった。同じ方法で殺してくれれば良かったのに。けれど見せしめのように、派手な殺り方をヒソカは敢えて選んだ。

「助けてくれなくても自分でなんとかしたよ」
「そうだね でもキミが手を下すのは、あの男にとって贅沢すぎる

 彼の言葉を聞き流しながらワイングラスのステムを摘み、持ち上げて口付ける。少し乾いた喉にアルコールが染み渡った。
 ヒソカに下心があると分かった今も、彼に対してイラつかないのが自分でも不思議だった。これまで店に通ってくれていたことに関しては、素直に嬉しいし私も彼と話すのは楽しかった。彼の人となりと、彼なりの魅力を知るには十分すぎる時間ヒソカはここに訪れていた。
 さっき男を殺したことに関しても、本当は内心助かったと思っている。まあ、やり方は気に食わないけどね。

「それで、キミの回答は?」
「前も言ったけど戦わないよ。まだ死にたくないからね」
「……揶揄ってる?」

 彼が私の手からグラスを取り、一口飲んでから机の上に置いた。酔ってると思われたんだろうか。私は酔っていないし、さっきの発言は真面目に言っている。
 でも、気分は良かった。いつも揶揄ってくるのはヒソカの方。私からヒソカに一杯食わせられるのはあまりにも高揚感が湧き上がる。

「直接な言葉を頂戴よ。酔わないと言えないなら、それまで付き合ってあげるから」

 奪われたグラスを取り返し、彼のロックグラスとかち合わせ音を鳴らす。溶けていたのか衝撃からか、ロックグラスの氷が割れてカラリと音が響いた。
 ヒソカは金色の瞳を細める。すると、カウンターの方をいきなり指さした。何事かと思って後ろを見てみるけれど別に何もない。あるのは見慣れたカウンター席と、並べられた酒瓶のみ。
 瞬間、一本の瓶がこちらに向かって凄いスピードで飛んで来た。避けるのは無理だと判断した私は、咄嗟に反射的に頭を流で守った。けれど、その瓶は私の横髪をギリギリ掠め、ヒソカの手の中へと収まる。

「殺す気?」
「まさか

 ヒソカなりの仕返しのつもりなんだろうけど、さすがに心臓が縮み上がった。いや、凝を怠った私も悪いけど。完全に、気が抜けていた。警戒が緩んでいた。
 それほど彼に慣れてしまっていたことに、心を許していたことに、たった今気が付いてしまった。

「キミが酔ったら、もちろんキミから素直な言葉を聞かせてくれるんだよね
「私と勝負するつもり? 受けて立つよ」

 私は彼のロックグラスに琥珀を。彼は私のワイングラスに紅を。お互いに注ぎ合い、適量になったところでほぼ同時に酒瓶を置いた。それが試合開始のゴングとでも言うように。

 それからお互い溺れるほど飲み合った。あの限定ワインは一本丸々飲みきってしまって、そこからいつも飲んでいるビールにシフトチェンジしたところから記憶が曖昧。
 翌朝、目が覚めるとヒソカの胸の中にいたのだから、きっとそういうことなんだろう。どっちから素直な言葉を伝えたのかは、未来永劫分からない。お互い酔って記憶がないのだ。間抜けなことにね。
 でもきっと、私の負け。最後の記憶の彼の表情は、いつものしたり顔だったから。