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 それから彼は不定期に顔を出すようになった。彼の気まぐれは随分と長期間なものらしい。仕事は依頼しない。ただ飲みに来るだけ。私を殺したいだなんて恐ろしい口説き文句も、驚くことにあれ以降言われたことがない。
 彼がここを訪れるごとに、段々私と話すことにもこの空間にいることにも慣れてきたのか、彼から話しかけてくることが増えていった。ヒソカとの話題には困っていたから、彼から話しかけてくれる方が助かる。
 話題はどれも取るに足らない無駄話ばかり。たまに彼のお得意のトランプマジックも披露してくれた。そんなこともあってか、彼と話すのは以前より楽になった。きっと私もヒソカに慣れてきたのだろう。
 私の中で彼の印象は、何を考えているか分からない不気味で無口な人間から変わった。腹の底では何を考えているのかは未だに分かったものではない。けれど、少なくとも無口ではないと思い直した。
 多分彼は、人見知りの質がある。もしくは興味のない人間とはあまり話したくないか。私と二人きりの店内ではよく回る口で話すのに、他の客がいると借りてきた猫みたいに静かになる。
 いつも堂々と真ん中の席に座るのに、その時ばかりは居心地の悪そうな表情で端の席に座るのだ。まあ、滅多に彼が他の客と出くわすことなんてないのだけど。
 そんなレアケースが今日起こった。先に来たのは別の客。割と新規の客で、まだ若そうな青年。何度か依頼をしてくれたから店を教えたのが確か先週のこと。教えても来ない客の方が多いから珍しかった。
 青年は私に会釈をすると真ん中の席に座った。ヒソカ以外にそこへ座る客は更に珍しい。大抵皆端の席に座るから。

「何飲む?」
「じゃあ、ハートランドを」

 彼の注文を聞き、私はグラスを冷凍庫から取り出す。棚から緑色の瓶を取り出して、冷えたグラスにハートランドを注いでいく。
 多分、彼は念能力者じゃない。駆けだしの殺し屋と言ったところ。殺しは誰にも出来るけど、殺しをして生き残っていくのは誰にでも出来ることじゃない。彼はきっと、生き残れない。勘だけど分かる。その才がきっとないことくらい。
 彼の前にグラスを置いた時だった。呼び鈴が鳴る。二人も客が来るなんて珍しい。グラスへと落としていた視線を扉へと向けた。なんとなくそんな予感はしていたけれど、来たのはヒソカだった。
 店へ入った直後の少しご機嫌そうな表情が、自分の特等席に座る男に気付いた途端無に変わる。なんともつまらなさそうな顔で、左端の席に着いた。
 いつもの? と聞けば簡易的な相槌を返される。どうにも他の客がいるのは、彼にとって面白くないんだろう。いつもより冷たいけれど慣れたことだから気にしない。ロックグラスへとウイスキーを注ぎ入れ、彼の前に置いた。
 他の客がいるとヒソカは静かだ。さっきみたいに私が話しかけても、更にそこから話を深めたり、他の話題を話すこともない。他人に聞かれたくない話題を話しているつもりはないのだけど、彼にとっては些細なことでも聞かれたくないのだろう。
 しばらく私は青年と話していた。私との仕事に関係する話はヒソカがいるから出来ないけれど、別の仕事の成果だったり、それこそなんでもない話題を口にしたりもした。
 大抵こういう時、ヒソカは一杯だけ飲んで帰っていく。他に来ている客がすぐに帰りそうだったら、彼はその客が帰るまでいるが、今回はそうじゃなさそうだ。
 だからヒソカのグラスが空いた時、私は会計だと思い準備をした。だがヒソカはその様子の私を止め、同じものを、とだけ発した。珍しい、まだ居るのか。
 彼の言う通り私は同じウイスキーを彼に渡した。長居する用事ってことか。仕事の話か? 最近彼からの依頼はなかったけれど、また新しい標的でも見つけたのか。
 今日話したいなら、急ぎの用事だろう。要件を電話で言うのは足が付きやすいし、この空間で話すのが一番外部に情報が漏れにくい。その時に限って他の客がいるのだから、ヒソカにとってはタイミングが悪すぎる。さっきの表情にも納得がいった。
 けれど客を帰らせるわけにもいかない。いつもよりゆっくりしたペースで減っていくウイスキーを横目に、私は青年と談笑していた。

 しかしこの青年、話しても話しても帰ろうとしない。話すこともさしてない。というか先程から、彼の自慢話になってきている。自身が人殺しというのを鼻にかけている、つまらない野郎。青年と一時間ほど話した印象がこれだった。
 しかもこの青年、ペースが早い。いつもこのぐらいの速さで飲むんだったら、別に良いんだけど。明らかに頬が染まってきていた。
 酔い始めている。確実に。

「水にする?」
「なんで? 俺酔ってないよ」

 空いたグラスを下げようとして手を伸ばすと、するりと青年の手が絡みついてきた。下心込みの触れ方に思わず鳥肌がたつ。

「なに、この手」
「ずっと思ってたんすよ。お姉さん綺麗だなって」
「そういう店じゃないから」

 軽く振り払えば私よりも些か大きな手は簡単に振り払うことが出来た。向こうも本気で掴んできたわけではないみたい。でも、そこがムカつく。舐められているような感覚。
 私はそんな青年を無視してコップを手に取り、蛇口を捻る。こんな男に清涼水なんてもったいない。水道水で十分だ。テーブルにグラスを置いて乱暴に少し滑らせ青年の前に出した。

「次やったら見過ごさないから」

 声が低くなってしまった。怒気を孕んでいる。青年は肩をすくめて、はいはい。と私の言葉を軽くあしらった。
 虫の居所が悪い。なんだか目の前の青年が鼻につく。そんな私の様子に気が付いたのか、ヒソカはちらりとこちらを見ていた。まるで珍しいものを観察するような、好奇心の満ちた目で。
 なにがそんなに面白いんだろう。そういえば、ヒソカの私に放ってくる殺気には不思議と悪い気はしない。多分、私のことを舐めているか舐めていないかの問題だろうな。
 目の前の青年は明らかに私のことを舐めている。男と女という性差からも、その体格差からも。情報屋と暗殺者という立場の違いも含めて、彼は私を下に見ている。
 一方、ヒソカは……。いや、ヒソカも私を下に見ている。でもそれは私が女だから、だとか非力だから、とかそんなくだらない理由じゃない。彼は自分が一番だと思い込んでいる。いや、それが彼の世界にとっての事実で常識なんだ。
 だから、ヒソカに怒りは湧かない。湧くといえば、この男からどう逃れることが出来るか、なんていう自分の寿命の伸ばし方だけだ。

「ねぇ、お姉さん」

 カウンターに肘を付き、上目遣いでこちらを見上げる青年。グラスの中の水はこれっぽっちも減っていなかった。

「なに」
「お姉さんって彼氏いるの?」
「あんたさ、」
「触ってないよ」

 青年はおどけたように両手を上げる。拳銃で脅された犯罪者のように。その様子も、表情も、釈明も全てが勘に触る。虫唾が走る。

「そういう質問もなし」
「はは、こえー」

 睨みつけてもあまり効果はない。そりゃそうか、睨みつけるのって弱虫がすることだから。それなりの痛みは必要か。
 口の中で舌打ちをした。誰にも聞こえず私の口内でのみ響く苛立ち。
 目の前の男は笑っている。また私の左手に触れようと、あるいはちょっかいでもかけようと手を伸ばした。いても経ってもいられなくて、私は一番手元から近い酒瓶のネックを引っ掴んだ。
 頭でも冷やせと、それで青年の頭をぶっ叩いてやるつもりだった。