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 眠らない街ヨークシン。常に明かりの灯るビル街を抜け、光を避けるように路地裏へと入る。誰もがさっさと通り過ぎてしまいそうな道の途中に、この店はある。
 看板も窓もない。あるのは扉だけ。それも闇夜に紛れるよう黒く塗りつぶされていて、一目では分からない。
そんな一見客も入らないような場所に店を構える酔狂な物好きは、他でもないこの私だ。
 昔流行ったキャラクターのストラップが付いた鍵をピスポケットから取り出して、扉を開ける。重厚なドアを押し、店内の電気を付ければ見慣れた光景が広がっていた。
 四人がけのテーブル席が二つ、それとカウンターが五席。店内は赤と黒を基調としたシックな雰囲気で、私はそこが気に入っている。
 以前までは私もこの店に通う客の一人だった。いつものように呑みに来ていたある日、マスターが店を退き、場所も売り払うと私に伝えて来た。まあ、場所も悪いし、そのせいで常連客も私一人しかいないような状態だったたから、仕方がなかったんだろう。
 けれど、ずっと通っていた場所がなくなるのは寂しい。そう思い、私はマスターからこの店を譲り受けた。
 場所だけ残しておいて、自室のように使っても良かったのだけれど、折角だからバーを経営することにした。バーと言っても、私はカクテルなんて作れないし知識もないからそのまま酒を出すだけ。酒場と言った方が適切かもしれない。
 仕事の都合上一般客を入れるわけにはいかないから、私が誘った奴だけ店に案内する仕組みを採用した。だから看板もないし、中が酒場だとバレないように窓もない。おかげで儲けはほとんどないけど、どうせ副業だからとあまり見ないふりをしている。
 一度鍵を閉めて、私は奥のスタッフルームへと足を向ける。荷物の中から着替えを取り出し、それに着替えていく。
 白いシャツに黒のジレを羽織りボタンを留めた。ネクタイはしない。結ぶと絶対に歪んでしまうから。
鏡の前でさっと前髪を整えて、リップを塗り直す。口紅で赤く染まる唇を馴染ませ、他に直すところがないかチェックする。うん、今日は大丈夫そう。
 身だしなみのチェックは毎日するけれど、正直来る客はあまり外見に頓着するような奴らじゃない。それに客が来ない日なんてざらにある。けれどまあ、習慣的にやっている。
 ダイアル式のロッカーに荷物を入れて、代わりにレジ用のお金を持ち出せばもう開店の準備は完了。時計を見ると二十二時ぴったりだった。今日も完璧、時間通り。
 扉の鍵を開けて、あとはお客が来るまでひたすら待つ。グラスを拭いたり、ボトルのチェックをしながら。
 静寂を紛らわせるために、私はカウンターに置いている小さなラジオのスイッチを押した。チューニングを適当なチャンネルに合わせると、ニュースが流れ出す。いつもは音楽チャンネルに合わせているのだけど、今日はまだお客もいないし、チャンネルはそのままに音量を上げる。

「本日は低気圧や湿った空気の影響により、夜から広い地域で雨が降ります。特に西の地方では大雨に警戒してください」

 ガラスにクロスを滑らせていると、そんな予報が耳に入る。今日は雨、か。本当に客は来なさそうだ。早めに閉めて家に帰った方が得策だろう。嫌でも、こういう荒れた天気の時に来る物好きもいるかもなあ。
 ため息をつきながら、私は作業を再開した。

 二十三時。雨音が扉を叩き出した。やることも終わってしまい、暇を持て余した私は自前の煙草に火をつける。煙がすうっと糸を描き天井に向かっていく様子をなんとなく見つめながら、私は息を吐き出した。
 雨音ってどうしてこんなに眠くなるんだろう。落ちそうな瞼を大袈裟に開いたりしてみるけれど、効果は薄いみたい。
 眠気覚ましに、と私はラジオの音量を少し上げた。今日は誰が殺されたの、政治家がどんな発言をしただの、明日には忘れ去られてしまいそうな陳腐でくだらない話題ばかりが流れてくる。
 退屈すぎる。チャンネルを変えよう、とツマミに手を伸ばした時だった。扉が開き、来客を知らせる呼び鈴が軽い音を奏でる。咥えていた短い煙草を灰皿に押し付けて、私はそっちに視線を向ける。
 目に入ったのは意外な来客だった。いや、こういう荒れた天気の中で来る物好き、といえばあまり意外じゃないかな。

「いらっしゃい、ヒソカ」
「やあ

 いつもの白を基調として、胸元と背中にトランプのスートをあしらった服装に身を包んでいるが、肩口は雨のせいで灰色に染まっている。よく見れば目の下に施しているメイクもよれていて、髪型も少し崩れている。
 急いでスタッフルームからタオルを持ち出し、ヒソカに渡す。ありがとう、と笑みを浮かべながらそれを受け取ったヒソカは、濡れた腕や髪を拭いた。

「まさか雨に降られるなんて、ツイてない
「さっきニュースで言ってたよ。夜は大雨に警戒しなさいって」
「ボク、ニュース見ないんだよね

 彼はもう一度私にありがとう、と礼を言うとタオルを差し出して来た。帰ったらこれも洗濯しないと。なんてことを考えながらタオルを受け取り、スタッフルームの中へと乱雑にほおり投げた。
 カウンターに戻って来ると、ヒソカはちょうど真ん中の席に座っていた。長い足を器用に組んで、肘をついて私を待っていたようだ。

「ヒソカが来るなんて思ってもみなかった」
「キミが来てって言うから来てあげたのに
「よく言うよ。来る気なかったくせに」

 ヒソカは例の如く仕事仲間の一人。いや、仲間っていう言い方は正しくないか。ヒソカも多分、私のことを仲間だと思っていないだろうし。
 私の本業は情報屋。裏の。たまに殺しもするけれど、基本的には裏方の役割を担っている。このバーに誘うのは、私に二、三回仕事を渡してくれた客だ。
 本当は最初、ヒソカをこの店に誘う気はなかった。だってこいつ、私にあからさまに喧嘩を売ってくるから。私に向ける視線というか雰囲気というか、挑発しているようなものばかりで凄く関わりにくい相手。人によっては彼の存在は神経に障ると嫌がる人もいるだろう。
 けれど、彼だけ誘わないというのもなんだか仲間はずれにしているようで良い気がしない。誘ったところで来るかは分からないし、言うだけ言ってあげよう。
 そう思い、ある仕事終わり私は彼にこのバーのことを伝えた。店の場所を書いた名刺も渡して。
 ヒソカはそれを一瞥した後、自身の武器にも用いるトランプの間に挟み器用にシャッフルをし始めた。何をするのかと思いきや、ヒソカは私の目の前でトランプを扇状に広げて見せた。その中には、先程彼が入れたはずの名刺はなかった。
 興味がない。行かない。その言葉を行動で示してきたと解釈した私は、彼がこの店に来るという可能性を潰した。だって本当に来るとは思えなかったから。
 今日訪れたのも、きっと偶然だろう。たまたま近くで仕事をしていて、帰りがけに雨が降ってきたから雨宿りついでに店に来た。彼のお得意の気まぐれ。

「雨が止むまでここにいるよ メニューある?」
「もちろん。どうぞ」

 メニューを手渡せば、彼はそれをじっと眺めて面白そうに口角を上げた。別段面白いものもないだろうに。しばらく考え込んだ後、彼は私の前にメニューを広げて指を指した。
 私は頷き、ロックグラスに氷を入れる。酒を取り出すために彼に背中を向け後ろの棚を探った。
 彼に背を向けるのは、なんだか抵抗があるけれど仕方がない。今日の彼に殺気は感じられなかった。仕事の最中で情報共有をしている時も、標的を待っている時も私に微かながら殺気を放っているのに。
 まあ、彼に戦う気がなくて、くつろいでもらえているなら良いに越したことはない、か。