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「棄権した? ヒソカが……?」
「ええ。貴方が気絶する直前に」

 天空闘技場の医務室。気絶した私はここへ運ばれたようだ。脇腹の傷は手当されており、他の負傷箇所にも包帯が巻かれていた。
 試合の結果、彼はフロアマスターへの挑戦権を獲得したと考えていたのだけど、担当した医師が言うには彼は棄権したという。私が意識を手放す寸前に。
 会場は大ブーイングに包まれていたらしい。まあそりゃそうか、私に賭けている人間なんていないだろうし、いたとしても、点数は十点で付けている人が大半だろう。賭け目当てでここに来る人間達の怒りは分からなくもない。
 それにしてもなぜ、ヒソカは私の対戦を途中で蹴ったんだろう。そのままでいれば勝てただろうに。

 このまま医務室のベッドで考え事をしていたかったけれど、なにせ医務室を利用する選手は多い。大なり小なり怪我をすればここへ来る。ベッドが足りないから、と強引に追い出され、私は天空闘技場内の廊下で一人佇んでいた。右手に一枚のカードを握って。
 付いていた血液は丁寧に拭われていたけれど、未だに香る血の匂いが鼻腔を掠めた。ヒソカが私を攻撃する際に使ったトランプだ。捨ててもらってもよかったのだけど、なんとなく持ってきてしまった。
 トランプを見つめながら私はエレベーターに向かって歩き出す。ここで佇んでいても仕方がないし、とりあえず自分の部屋に戻ってゆっくりしよう。
 コツコツと辺りには自分の足音だけが響く。メトロノームのように規則正しく奏でられる音に耳を傾けながら、先程の話を思い出した。
 ヒソカの棄権。それと、私に向けて放った最後の言葉。「君ならイイよ」。君なら、イイ。なにが良いのか、落ち着いた頭で考えてみてもさっぱり分からなかった。
 窓からは夕日が射し込んでいる。試合が昼頃だったから、三、四時間は寝てしまっていたのか。それだけ眠っていたのに体のダルさも重さもとれていない。早く部屋で休もう。

 そう足を進めていた時、数刻前まで浴びていた殺気を感じ思わず足を止めた。目の前をトランプが横切り、壁に突き刺さる。突き刺さったカードはJOKERのカード。

「やあ お疲れ様

 聞き覚えのある声。トランプの飛んできた方向に目を向ければ、そこには先程まで私と対峙していたヒソカが立っていた。

「ヒソカ……!」

 思わず身構える。何しにきたんだろう。医務室からは離れているし、彼の部屋もこの階層ではないはずだ。もしかして、私を殺しに……。

「安心しなよ。しばらくキミと闘り合う気はないから

 そう言うとヒソカはゆっくりとこちらへ近付いてくる。闘う気はないと言いつつも、彼の瞳はどこか猟奇的だ。逃げないと。危機感を覚えた頭の中では警鐘が鳴り響いているのに、私の足は何かにへばりついたように一歩も踏み出せなかった。
 夕日を背にして私の前に立つヒソカ。逆光で表情はよく見えない。恐ろしさのあまり固唾を飲み込んだ。

「キミ、ボクのこと好きなんだって?」

 耳元で囁かれた言葉に思わず耳を疑った。好き? 私が、ヒソカを……。
 あ、と思わず声が洩れた。そうだ、私昨日のインタビューで……。

『でもなんか、彼にだったら殺されてもいいと思うんです。多分私、彼のこと……、好きですから』

 そう答えたんだ。でも、あの好きっていうのは尊敬というか、一人の選手としてそう答えたというか、思わず口から出てしまったというか……。
 今思い返してみると、衝動で言ったにしてはあまりにも恥ずかしい言葉を言ってしまった。そう後悔の念と羞恥で顔に熱が溜まっていくのが分かる。

「赤くなってるってことは、図星かな イイ趣味してるね
「ち、違う」

 思わず否定するが、彼は笑うだけで引き下がろうとしない。むしろ私に更に近付いてこようとする。彼が一歩私に近付き、倣って一歩引き下がった。けれど生憎、下がった先には壁しかなく、これ以上彼と距離を空けることはできなかった。
 通路には誰も来る気配がない。歩く足音さえ聞こえない。まるで世界に私とヒソカ二人だけになってしまったような、そんな最悪な錯覚さえ起こってしまう。
 ヒソカは私の腰に腕を回してきた。あまりに手馴れた動作に思わず眉間に皺が寄る。回された腕の先、手のひらは私の脇腹を覆っている。そこは先程の彼との試合で負傷した方の脇腹。治療したばかりだから、触れられただけでもまだ少し痛む。

「痕が残るかな かなり深く刺したから、残ってくれると嬉しいんだけど
「ッ……」

 わざと、力を込められる。彼の本気の力でないにしても、強く掴まれると痛みで冷や汗が出てきた。呻き声を洩らさないのは、私の意地だ。

「触らないで」
「ああ、ごめんね

 意外にもすぐに彼の手は離れた。けれど腰に腕は回されたまま、距離も下がってくれるわけじゃない。しばらくの沈黙が耳に痛かった。
 彼が何を考えているのかが分からない以上、下手に刺激するのはマズい。けれど、これ以上用もないのに足止めをくらうのは真っ平ごめんだった。

「仮に私がヒソカを好きだったとして、それを問い詰めて何がしたいの? 笑って小馬鹿にしたいの?」
「まさか

 彼は喉奥で笑い声を上げた。何がそんなにおかしいの。やっぱり馬鹿にしに来たんじゃないの。怒りと悔しさと恥ずかしさが混ざり合って、私は試合と同様彼を睨みつけた。だけどやっぱり彼は怯むこともしない。むしろ嬉しそうに笑みを浮かべて私を見下ろす。
 すると突然私の顎に手を添えた。彼の長く鋭い爪先が私の下唇をゆっくりと撫でる。劣情を煽るような行動に思わず肩が震えた。

「キミの恋人になってもいい、って伝えに来たんだ
「え?」
「キミならイイって言っただろ?」

 試合中、意識が途切れる直前の彼の言葉を思い出す。キミならイイ。確かにヒソカはそう言った。まさかそれが、私がインタビューで失言してしまった言葉の返答だなんて思わなかった。
 思考回路がまるで追いつかない私の頭を他所にヒソカは言葉を続ける。

「キミのインタビュー、ちゃんと見てたよ でも殺されに来る挑戦者なんて興味なくてね。途中まではキミに失望していたんだ

 唇に置かれていた指が少し上に移動して、今度は爪先が上唇に触れる。指の腹は私の唇の中心に置かれて、抵抗の声を出そうにも出せない。

「けれど、途中からキミが本気出してくれたからボクも興奮しちゃった それにキミが睨んできた時の目がすごくヨかったから、ね

 その言葉と同時にヒソカの指が私の口内へと入ってきた。あまりにも突然の出来事に上手く抵抗できず、彼の指の侵入を許してしまう。
 舌を撫で、歯列をなぞり、好き勝手に動き回る。噛み付いてやろうと思ったけど、後でもっと痛い目を見そうだからやめた。
 せめてもの抵抗として睨みつけてみるが全く意味がない。むしろ彼を煽るだけの行動だった。

「だから、キミならイイよ ボク今フリーだし。それにキミもボクのこと好きなら、問題ないよね

 指がずるりと引き抜かれると同時に、今度は彼の顔が迫ってきた。まずい、キスされる。
 反射的に目を瞑ったが、意外にも彼の唇が降りたったのは私の閉ざされた瞼の上だった。てっきり唇へくるものだと思っていた私は拍子抜けしてしまった。だって、彼はさっきまで指で私の口内を弄んでいたから。普通唇にくると考えるでしょ?

「期待した? 唇が良かったかい?」
「うるさい!」

 彼の胸元を強く押して突き飛ばせば、彼はおどけたように一歩、二歩と後ろへ引き下がった。金色の瞳を細めて、口角を上げて、ニヤついた顔に腹が立ってくる。
 期待なんてしていない。ただ、あまりにも突拍子なことばかりされて頭が回らなかっただけ。正常な判断ができなかったから上手く抵抗できなかっただけ。
 自分を納得させるように言い訳を並べていると、ヒソカは踵を返して私に背を向けて歩き出した。やっと開放された、と思うと同時に肝心なことを聞いていなかったことを思い出す。

「待って」

 声をかけると彼はくるりと私の方へ振り返る。相変わらず彼の表情は変わらず、憎たらしい笑みを浮かべたままだった。

「なんで棄権したの。あのまま棄権しなかったら、私はKO負けしていたし、ヒソカはフロアマスターの挑戦権だって手に入れることができたのに」

 聞いた時から考えていたけれど、やっぱり不可解だ。フロアマスターになれば、ここの階層よりも強い選手と戦える。強い相手を求める彼にとっては好都合の場所だ。
 いくらヒソカが実際に戦った試合で全勝してるからといっても、棄権するのはあまりに不自然すぎる。

「一人約束してる子がいるんだ」

 ヒソカの答えは至って単純で、それでいてその答えが更に謎を呼んだ。

「だったらなんで今日私と戦ったの」
「キミの力量をもう一度見てみたいと思ったから。だってキミ、フロアマスターに行く気ないだろう?」

 図星だった。私が天空闘技場にいる一番の目的は住処の確保だったから。戦いは二の次、フロアマスターという称号にあまり興味はなかったし、行くとしてもかなり後回しにするつもりだった。ヒソカはそれを見抜いていた。

「だから、キミに失望させられたままでもボクは棄権するつもりだったよ。まあその場合、場所を変えてキミを殺しただろうけど」

 ヒソカの言葉にゾクリと背に鳥肌が立った。本気だ。彼の言葉に迷いも嘘もない。そしてやっぱり恐ろしい。一度殺そうとした相手の恋人になってもいい、なんて言い出すところが。

「だけどボクの見立てに狂いはなかった。キミはもっと強くなれる。だから、今は殺さない」
「……いつか殺すの」
「ああ キミの望み通り、キミのことはボクが殺してあげる。嬉しいだろ?」
「殺すのに、私と恋人になるの」
「大切な玩具は傍で見守ってあげたいからね」

 イカれている。はっきりそう思った。彼は本当に戦うことにしか興味がないんだ。私と付き合うのも、きっと一つの好奇心。それ以上の感情なんて含まれていないんだろう。

「それじゃあ、これからよろしく

 ヒラヒラと手を振って、彼は通路の奥へと消えていった。彼の背が見えなくなったと同時に、力が抜けてその場にへたりこんだ。緊張した。言葉を誤れば殺される危険性があったから。
 どっと汗が吹き出て私の額を僅かに湿らせる。鋭い視線、放たれた微かな殺気、そして瞼に落とされた唇の感触。どれもこれも未だに鮮明なものだった。
 彼との会話の中で、不安や興奮、恐怖、そして少しの期待が、私の中に芽生えていたのは事実で、それに混乱する自分がいる。
 悔しさとやるせなさ、そして自分への腹立たしさで思わず衝動的に自身の前髪をくしゃりと握った。

 面倒な相手と、更に面倒な関係を結んでしまった。彼と付き合って、恋人として関係を築いていくなんて想像もできない。というか、彼に本当にその気があるのかすらも怪しい。
 でも、私が本気で断れなかったのも事実。きっと彼と闘った時に、恐怖の底で渦巻いていた興奮と喜びを得てしまったからだろう。彼の近くにいれば、また得られるかもしれない。今度こそ殺されるかもしれないけれど。

「はー……。ほんと、最悪」

 本当に、最悪な男に、最悪な失言をしてしまった。後悔したところで、もう遅いんだけど。
 前髪を掴んでいた手を緩めて立ち上がる。壁には彼の投げたジョーカーのカードが突き刺さったまま。不意にそれを手に取ると、呆気なく壁からそれは抜くことができた。
 カードの中心で不敵な笑みを浮かべるピエロがヒソカと重なる。嫌味ったらしいその表情が癪にきて、くしゃりと手の中で握り潰した。