2

 迎えた決戦当日。試合開始から約三分。3対0でヒソカの方が有利。開始早々クリティカルとダウンを取られてしまい、そこからどちらとも引かない攻防を繰り広げていた。
 ヒソカの拳が私の鼻先を掠め、風圧で前髪が少し揺れた。集中力を一瞬でも切らせばアウト。ポイントをまた取られてしまう。このまま彼から1ポイントも与えられなければ、待つのは"死"のみ。
 一度体勢を変えようと彼から離れることを試みるもダメ。すぐに彼に追いつかれてしまう。いや、もし彼から一度逃れて離れられたとしても、この状況をひっくり返せるのかは曖昧なところだけど。

「キミ、ボクに勝つ気ある?」
「ッ……!」

 彼の問いに思わず顔を顰める。目の前で絶え間なく私に攻撃を繰り出してくるヒソカは呼吸一つ乱れていない。力の差は歴然。

「まあ、勝てないだろうけど」

 仕掛けられた回し蹴りを辛うじて避けるが、一瞬タイミングが遅れて彼の尖った靴先が私の頬を掠った。ピリッとした痛みに、瞬時に頬が少し切れたのだと察する。
 ヒソカは不敵な笑みを浮かべているが、目は笑っていない。期待外れ、とでも言いたげな表情。
 蹴りのおかげで乱れた体勢を彼が整える前に一度彼から距離をとることができた。しばらくお互いに見つめ合い、私は呼吸を整える。
 一撃も与える隙がない。圧倒的な力と技で、それを避けることが精一杯だった。今までしてきたことは、所詮無駄な努力だったんだというショックで目の前が回るような錯覚を起こす。このままだと、殺される。確実に。
 私は頬から流れる血を拭うことも忘れて彼を見つめる。ヒソカは、私に失望している。試合開始の時は瞳の奥で揺らめいていた意欲的な意思が今では失われている。私への興味がなくなったんだ。
 このままだと十点私から取る前に早々に私を殺してKO勝ちをするだろう。それだけは絶対に避けたい。ヒソカは殺されてもいいと思える相手。命を懸けて戦える相手。だけど、このまま一点も与えられず、無様に死んでいくのだけは自分のプライドが許さなかった。

 石畳のリングを蹴りあげ、猛スピードでヒソカへと突っ込む。彼は口角だけを上げて、貼り付けたような笑みを浮かべていた。
 突っ込んだ勢いで彼のボディーへと拳を叩き込もうとするが、彼の片手で簡単に捕らえられてしまった。そのまま私の頬へと右拳を振るうが、私が咄嗟に屈んで避けた。
 それと同時、屈んだ反動で足を振り上げる。ヒソカの右脇腹目がけて、精一杯の念を集中させて。
 私の蹴りが彼へと届くまでが、スローモーションのように見えた。ちょうど死角になっているのか、ヒソカは避ける気配はない。硬でガードをする気配も。これは、入る……!

 そして、足先がヒソカの腹へと触れた。力を込めた一発が、彼の腹にめり込んだ。伝わる感触が、信じられなくて、だけどどうしようもなく現実的で、思わず私は目を見開いた。
 ヒソカの僅かに呻く声が聞こえる。私の腕を捕らえていた片手の力が緩められ、その一瞬の隙を逃さず私は彼から一旦退いた。
 彼との距離が空いた途端、スローモーションだった世界は通常の速度を取り戻した。

「ヒットポイント! 3対1!」

 3対1。一点。一点入った。喰らわせてやった。ヒソカに……! 胸の中で沸き立つ興奮、喜び、気を抜けばその場で歓喜に打ち震えバンザイと両手を上げてしまいそうなほどの高揚感が体中を駆け巡る。
 だけどこの感情は間違っていた。そんなものに浸る隙なんて彼に与えてはいけなかった。
 重く鋭い痛みが、脇腹から広がった。さっき私がヒソカへ繰り出した蹴りの場所と同じところが酷く痛む。恐る恐る視線を下げると、一枚のトランプが刺さっていた。
 ハートのA。半分ほど私の脇腹に突き刺さっている。ぽたぽたと、カードを伝って赤黒い液体が石畳へと落ちていく。

「余所見してる暇なんてないよ

 その言葉にハッとしてヒソカの方を見上げる。彼は人差し指を私に向けて立てている。
 しまった……!そう後悔する間もなく彼はクイッと人差し指を曲げた。瞬間、私の体は宙へ浮き、半ば強引にヒソカのもとへと引き寄せられていく。
待っているのは、彼の強く握られた拳。強い衝撃が頬へと伝わった。その場へ倒れこもうとするも、彼の念能力によって無理やり起こされる。
 ああ、警戒していたのに。彼のこのタチの悪い能力には。
 殴られて揺れる脳みその片隅で、そんなことを考える。ジンジンと痛む脇腹、そこへ更にダメージを与えるように、彼の拳がめり込んだ。

「ぐっ……!」

 堪らず呻き声をあげた。そのまま強く彼の足が鳩尾へと繰り出された。体が浮くほどの衝撃と、内蔵を潰されるような感覚。今度は呻き声を出すほどの余裕はなく、ただ口の端からヨダレがこぼれるだけだった。
 背に強い衝撃が加わる。きっと倒れてしまった。起きなければ。起きて彼と戦わないと。
 目の前にレフリーの顔が映る。戦える、私はまだ戦える。クリティカルにダウンポイントを取られたって、まだ点数は10ポイントに満たないはず。戦いは私の意思で続行される。
 立たないといけないのに、足に力が入らない。腹部が痛い。客達の歓声やブーイングも、レフリーの声も、実況のコッコの声もぼやけて耳に入ってくる。なんて言ってるんだろう、私は、まだ、負けを認めていない。戦える。
 そう立ち上がろうとした瞬間、ヒソカが視界の端から現れた。こちらを覗き込む瞳は、先程のような失望のこもった瞳ではない。咄嗟に拳に力を込めるが、ヒソカの足が私の脇腹を思い切り踏みつける。あまりの激痛に、込めた力を解放した。
 今はもう、彼を睨みつけることしかできない。悔しくて、奥歯をぐっと噛み締めて彼を睨みつける。強く、強く。
 ヒソカは臆するどころか、恍惚な表情を浮かべている。瞳を細め、まるで欲情しているかのような。

「ああ、キミならイイよ

 言葉の意味が分からない。イイ?良いって、なにが? 考えようとしたけれど頭が回らない。開いた瞼から最後に見えた光景は、ヒソカが何かレフリーに話しかけている様子だった。