油断大敵

 メメント・モリ、という言葉がある。西部の古代語で「死を忘れるな」という意味である。恐ろしい文言とは裏腹に、死を忘れないことにより生を大事に生きるという戒めの意が込められた宗教的な言葉だ。
 始まりがあれば終わりがあるように、生きている者は皆等しく死ぬ。それがこの世の理であり、業なのだ。ただ、それに目を逸らしているだけ。
 今なぜそんな言葉を思い出したかと言われれば、私の家にここ最近死神が居座っていることが関係している。勿論、死神というのは比喩表現だけど。
 私の命の終わりを虎視眈々と狙っている、赤髪の死神。気まぐれで腹の底が知れなくて、誰が見ても要注意人物な彼がなぜ居座っているのかは分からない。
 そしてもっと不可解なことに、その死神は今、私の爪を器用に磨いているところだ。
 
「上手いもんだね」

 自分の右手を猫の手をするように曲げてみれば、部屋の照明で輝く爪が見える。キラキラと光が反射して目を刺激する。
 普段磨きもしなければ彩りもしない爪。小さくて丸い自分の爪があまり好きじゃなかったのだけど、こう手入れされてみると悪くないと思える。
 まじまじと自分の爪を見つめる私が可笑しいのか、死神はクツクツと喉奥で笑った。

「別に、キミでも出来ると思うけど
「嫌だよ。めんどくさい」

 私の左手は彼に握られ、手馴れた手つきで爪は丁寧に磨かれていく。自身の鋭く尖った爪を手入れしているのだ、人の爪を軽く磨くくらい容易いんだろう。
 死神、もといヒソカという男がここに住み着いたきっかけはなんだったか。仕事で知り合っただけで、会話もあまりしていないから初めて来た時はびっくりした。帰ってと抗議をしてもなかなか帰ってくれる気配を見せなかったので、そのまま放っておいたら住み着いてしまった。それが確か三ヶ月くらい前のこと。
 今じゃ彼の着替えも、食器も、歯ブラシも、平然とした表情で私の家に彼と共に居座っている。何が気に入ったのかとか、私のもとに来た理由は詳しく教えてくれなかった。
 けれど、確かなことが一つだけある。彼は私を殺したいと願っている。いや、確実に私を殺す。そんな明確な意志を持っている。
 私を殺す隙、というより機会を伺っている。別に私が弱っていようが関係ない。むしろ弱っていると彼は意欲を失くす。完璧なコンディションの私と、彼は戦いたがっている。
 しかし彼なりに戦いたいタイミングがあるようで、彼は律儀に私と暮らしながらその好機を伺っている。

「はい、終わり

 両手とも磨かれた爪を見ながら、私は改めて感心する。普段色気も何もない爪が、少し彼の手によって磨かれるだけでこうも変わるのか。

「今度色も塗ってあげようか
「遠慮しとく」

 残念、と一言こぼしてヒソカは今磨いたばかりの爪先にキスを落とした。
 ヒソカという男は、腹の底が知れない。私を殺す機会を伺っているにも関わらず、こうして恋人じみたことをしてくるようになった。あまりにも度を越しているが。
 最初は確か食事だったと思う。ある時からヒソカが作るようになって、それが当たり前になってしまった。洗い物もキッチンの後片付けもヒソカがやっていた。
 そして、家事全般をヒソカがするように段々なっていった。洗濯も、掃除も。それだけならまだ可愛いものだ。なんせここは私の家で、ヒソカはそこに勝手に居座っている。家賃代わりとは言わないけれど、そのくらいのことをするのが普通だろう。
 しかしここ最近、それがヒートアップしてきた。私の頭を乾かしてきたり、今みたいに爪を整えてくれたり。挙句の果てには、私の着替えまで手伝おうとしてきたこともある。さすがにそれは丁重に断ったけれど。
 つまり、彼は私に尽くしすぎている。意味もない奉仕、それをしているのがヒソカというのも相まって、ありがたさよりも気味の悪さが引き立つ。
 意図が読めない。メリットがない。奇術に種や仕掛けがあるように、彼の行動にもなんらかの意図が伴っている。けれどそれが簡単に分からないからこそ、奇術も奇術師である死神も、私にとっては不可思議な存在だった。
 道具を片付ける彼を横目に、彼の淹れてくれたコーヒーに口を付ける。こうやって彼のしてくれたことを当たり前に受け取っているのは、彼を下手に刺激しないに越したことはないから。誰だって自らの手で猶予ある寿命を縮めたくはないだろう?
 道具を片付け終えたヒソカは、また私の隣へと座った。彼もまた、コーヒーに口を付ける。カップの持ち手に通された指先。磨かれたばかりの爪はいつにも増して鋭利で、今ヒソカが本気になれば私の喉笛を掻っ切るのは容易いのだろう。
 メメント・モリ。自戒のように心の中で呟いた。

「ヒソカはさ、」

 彼の名を呼べば、ヒソカは視線だけをこちらによこした。

「もう私のことを殺す気はないの?」

 言葉を続ければ、ヒソカは少し驚いたように目を見開いた。しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間には表情は元に戻っていた。マグカップが離れた口元には、薄く笑みも浮かべている。

「どうしてそう思った?」
「最近私に甲斐甲斐しく尽くしてくれてるから」

 ヒソカの中で、私のことが壊したいものから大切なものへと変わったのではないか。じゃないと、最近の行動に理由がつかない。ヒソカという男の人柄は、短い付き合いだがそこそこ把握しているつもりだ。だからこそ、私の導き出した答えには何となく自信があった。
 ヒソカは私の答えに更に笑みを深めた。表情から答えが読み取れない。正解なのか、不正解なのか、別にどっちでも構わないのだけど、知りたかった。

「ボクね、大事なものほど壊したくなるんだ」

 ヒソカの答えは、私の予想の範疇だった。ヒソカの考え方は常人じゃない。だから、当たり前の考えも通用しない。

「愛と憎悪は表裏一体。愛情が深ければ深いほど、憎悪も比例して強くなる」
「だから、殺すの」
「ああ。人の心は移ろうものだから」

 ヒソカはマグカップをローテーブルに置くと、私の頬をするりと撫でた。私よりも一回り大きい手のひら。彼が本気になれば簡単に私の顔なんて握り潰せるのだろう。

「安心しなよ。今はまだ、その時じゃない」

 伝わる体温が不愉快だ。その手を振り払えば、ヒソカは嬉しそうに笑った。その表情も不可思議で、ますます意味が分からない。

「そういうボクに懐かないところ、嫌いじゃないよ

 私の不機嫌さを他所にヒソカは好意的な笑みを浮かべた。カップを持っていない方の指先で、私の顎の下を擽るように触れた。思ってもみなかった行動に一瞬反応が遅れて身体を逸らす。彼は揶揄うようにクツクツと喉を鳴らす。睨んでみたって彼の狼狽える様子さえ見せなかった。

「それにしても、キミはボクの行動が尽くされていると思っているんだね ボクはそんなつもり微塵もないのに
「そう? さっきだって爪を磨いてくれたくせに。これは奉仕じゃないの? だとしたら何? 愛情とでも?」
「それに近いかもね

 ヒソカはそう言ってもう一度コーヒーを啜った。そんな彼の様子を私は吃驚しながら見ていた。愛情、と聞いたのはさっきの行動のお返しのつもりだった。揶揄うような行動を取られたから、揶揄い返しただけだ。なのに、肯定されるとは思わなかった。
 よく見れば、ヒソカは顔は整っている方だ。身長だって高いし鍛え上げられた筋肉はどう見ても肉体美と言わざるを得ない。家事だって全般やってくれるし、私よりも要領はよく、料理だって美味しい。欠点と言えば私を殺そうとしているくらいだ。いや、そんな軽々しく済ませていい欠点ではないけれど……。
 でもまあ、そういう関係になるというのは、満更でもない、か。

「ボクとしてはお世話のつもりだったんだけど

 彼の一言でだらけた思考はすぐに冷えきった。
 "お世話"。奉仕と尽くしと意味は一緒だが、言い方が気に入らなかった。わざとその稚拙な言葉に言い換えたのには訳がある。その訳と、さっきの彼の唐突な行動がすぐに繋がった。
 こいつ、私のことを、

「あんた私のこと飼い犬か何かと思ってるわけ?」

 ぴんぽーん、と彼はまた揶揄うように喉を鳴らす。
 こいつ、私のことを舐め腐っている。さっきまでだらしない考えを巡らせていた私を叱責する。馬鹿な考えを起こした自分が恥ずかしい。思考を口にする前に彼が口を開いて良かったと、そこだけは安堵した。
 絶対にそういう関係はない。この男だけは、絶対に。
 怒るのもバカバカしい。結局怒ったところで彼はずっと私を揶揄い続ける。死神の気まぐれな悪戯。まんまと口車に乗って馬鹿を見るのは私。なんでもヒソカの思い通りにコトを進めたくはない。
 どこにも行くあての無い感情を、ため息として体外へと吐き出した。少しもマシになる気配はない。コップの中に残ったコーヒーを飲み干して、私は立ち上がる。

「呆れた。私もう寝るから」
「もうかい? ならボクも寝ようかな
「ついてこないで」

 一人になりたいのに。ヒソカのことだからそれも分かってわざと着いてきているんだろうけど。
 寝室に入り、ベッドの中へと身を埋める。彼がこの部屋を訪れる前に眠りたかった。
 彼が私のことをペットだと思っていようがそれは仕方のないこと。悔しいけれど、そう思ってしまうほどの力量の差がある。
 彼に殺される前に、彼のことを殺さないと私の命は全う出来ないだろう。けれど、不意を狙ったとして躱されてしまう可能性の方が高い。力量の差を分かっていながら勝負を挑む馬鹿に、彼がすぐ愛想を尽かすことは容易に察することが出来る。
 気に入られて飼われているだけ、まだマシか。けれど、悔しいことには変わりない。
 寝室の扉が開く。数歩の足音の後、すぐに私より大きな体躯がベッドの中へと入ってきた。後ろから私を抱き締めて、眠りの体制に入る。
 共に眠るのも、彼が私を舐めているから。私が彼に下手に手を出せないのを知っていて、手を出されても返り討ちにできることを確信しているから。
 まあ、いいさ。いつか油断しきったお前の喉笛を噛み切ってやる。そのタイミングを、私も虎視眈々と狙うとしよう。

「おやすみ

 挨拶がわりに言葉を返す。
 メメント・モリ。死神に向けて心の中で呟いた。