ハイヒール

家から帰ってくると靴が二足あった。一つは男物の革靴。もう一つは濃い紫色のハイヒール。こんな光景を見たら恋人の不貞を疑いヒステリックになるのが普通なんだろうけど、私の思考は至って冷静だった。
だって、靴の持ち主は同じだから。

「おかえり」

見計らったかのように、リビングから恋人のヒソカが出てきた。開かれた扉からは、夕飯の匂いが香ってくる。どうやら今日の夕飯はシチューらしい。
私の恋人は気まぐれだけど、飽きもせずこうして私のことを毎日出迎えてくれる。私は出迎えたことはないけれど。それに、ヒソカが帰ってくるのは大抵深夜とか、私の起きていない時間帯が多い。だから出迎えないというより出迎えられないという方が正しい。

「ただいま。また新しい靴買ったの? よくこんなの見つけてくるね」

私が確認するだけで、彼のヒール靴は二足目。一足目は、天空闘技場で履いていたもの。ある日突然ヒソカにチケットを渡されて観戦に行ったことがある。彼的には"素敵なショー"のつもりだったんだろうけど、私から見れば"悪趣味なショー"だった。
予言だのなんだの言って、最終的にはトランプを投げつけて殺した。腕を切断されるという深手を負って。前の席を用意してくれていたから、綺麗に腕の切断面をモロに見てしまった。あれが結構、トラウマになっている。
ああ、嫌なことを思い出した。回想はやめにしておこう。
今目の前にあるのは、その時もヒールが高い。七センチくらいは高さがあるんじゃないかな。こんなヒール履いてしまったら生まれた小鹿のように足が震えてしまうだろう。そんな滑稽な様子の自分を容易に想像出来る。
こんなもの履いて、足を挫いたりしないんだろうか。なんて思いながら真新しい靴をまじまじと見つめた。

「気になるなら履いてみる?」

ヒソカは屈んでハイヒールを私の方へと向けた。
まあ、正直気になる。私は絶対に履かないような靴だから。男物の靴を履くなんて、絶対にサイズは合わないだろう。けど、好奇心には勝てなかった。
三センチヒールのパンプスを脱いで、私は彼の靴へと片足を入れた。思った通りサイズは合わない。男物のハイヒールなんて、本当にどこから見つけてくるんだろうか。
もう片方のパンプスを脱ごうとしたところで、私は動きを止めた。嫌な予感がしたから。

「ちょっと手貸して」

そう言えば、彼は素直に片手を差し出してくれる。その手を支えにして、私はもう片方の足を上げた。ヒールが細くて思わず転けてしまいそうな気がした。ヒソカはよくこんな靴で歩けるなあ。
歩くだけならまだしも、彼はこの靴で狩りをするから余計に不思議だ。走ったり跳んだり戦ったり。今片足立ちで苦戦している私には、きっと不可能なことなんだろう。
ようやく両足をハイヒールへと収める。その光景は、まるで子供が母親の美しさに憧れて、似合わないヒール靴を履いているような、醜いアンバランスさがあった。

「どう?」
「視界がちょっと、高くなったかな」

ヒソカの顔を見上げながら私はそう答える。こんなに高いヒールを履いても彼の顔はこんなにも遠いんだ。まあ、実際この靴を履くのはヒソカなんだけど。
ただでさえ彼と話す時、身長差のせいで私は彼を見上げなければならないし、たまに声が通らない時もあるっていうのに。
彼は、これ以上背を高く盛ってどうするつもりなんだろう。

「これ、いいね

ニヤリと不敵な笑みを浮かべるヒソカ。彼が次にするであろう行動を察して逃げようとするけれどそれは敵わなかった。
履きなれないヒール靴。支えとして一方的に掴んでいた手は彼に握り返されていて、もう片方の手は私の腰へと回されていた。込められた力は優しい、けれど確かに私の動きを制した。

触れた唇の感触は、彼と付き合い始めて幾度目のものだろう。数えきれないくらい触れた気もするし、単に数えていないだけでそれほど触れていない気もする。

「キミに触れやすい」
「私からは全然触れられないんだけど」

ヒソカから触れやすいと言っても、屈む距離が短くなっただけだろう。私はこのヒールを履いても、そのまま背伸びをしたとしても、ヒソカの唇への距離は遠いまま。この距離が縮まることは、多分ない。
繋がれた手に再度力を込めて私は靴を脱ぐ。サイズが合わないから、足先を浮かせれば簡単に靴は離れていった。もう片方も同じように脱いで、玄関のフローリングへと足をつける。やっと地に足が付いて安心すると同時に、視界の低さに違和感を覚えた。さっきまでの視界が間違いで今の視界が通常なのに。不思議。

「今度キミの靴を買いに行こうよ。ヒールが高いやつ。ボクが選んであげるから」
「私あんな靴履いても歩けないよ。さっきも立ってるだけで精一杯だったし」
「ボクが支えるから大丈夫」

ヒソカは繋いだ手をそのままに、私を部屋の中へとエスコートしてくれた。
支えると言ったって、一生支えてくれるわけはないのだろう。私の隣で、ずっと居座るつもりがないのに支えるなんてよく言えたものだ。なんて、無粋なことは言わないけど。
部屋に入ると先程微かに香った夕飯の匂いに包まれる。予想的中、やっぱり今日の夕飯はシチューだった。
私はそっと扉を閉める。この香りが、つかの間の幸福が外に漏れ出ないように。