掠奪

 閉館一時間前の美術館。受付で当日券の支払いを終え、私はギャラリーへと足を踏み入れた。
 ここで行われているのは、海外の有名な美術館から選りすぐりの絵画達が運び込まれた展覧会。以前から行こうとは思っていたのだけれど、会期が長いからと先延ばしにしてしまっていた。案の定、直前で予定がなかなか合わず、最終日の今日にこうして足を運んでいる。
 他の来場者たちは奥の展示を見ているのか、入口付近の展示には誰もいなかった。美術館はゆっくりと見たいタイプなのだけど、閉館時間が迫る今、そんな悠長なことも言ってられない。
 頭ではそう思っているのだけど、やっぱりどうしても足を止めてしまう。可愛らしい絵。私に知識がないから、専門的な構図や色味なんかを語ることも、その良さを感じることも出来ないけれど、漠然と良い絵だと感じる。

 絵に見蕩れていると、ふと足音が聞こえてきた。コツコツと響き渡る足音が人のいないギャラリーに響き渡る。
 こんな時間に見に来るなんて、酔狂な人もいるものね。なんて、私も人のこと言えないけど。
 足音なんて気にせず、作品たちを楽しもうと思い隣の絵画に目を向ける。絵画の説明文を読んでいると、その足音がこちらへと近付いてくるのが分かった。
 そして、足音は私の横でぴたりと止んだ。あまりにも近すぎる距離で。
 知り合いだろうか? 交友関係の広くない私の友人なんて限られている。その中でこの展示に興味を示していた友人なんていただろうか? もしかしたら、変質者かもしれない。けれど、その時は近くのスタッフに助けを求めればいい。仕事前に無駄な争いをして体力を消耗したくないし。
 頭の中で考えを巡らせながら、私は音の正体へと振り向く。ぴったりと横に立つ体躯。視線を上げ、その主を見て私は首を傾げる。
 一歩、私が後ろに下がると、彼は私を見下ろして微笑んだ。細められた金色の瞳に見覚えがなければ、私は変質者として館内のスタッフに彼叩き出していただろう。

「誰かと思った。せめて声くらいかけてよ、ヒソカ」
「真剣に見ていたようだったから、邪魔しちゃ悪いと思ってさ

 そう言って笑みを深める彼。彼、ヒソカとは仕事の関係で縁が出来た知り合い。といっても、一緒に行動したことは片手で足りるくらいの回数しかないけれど。
 一瞬誰か分からなかったのはヒソカの見た目のせいだ。私と会う時、彼はいつも髪をオールバックで纏めて、奇抜な服装と、顔には星と雫の特徴的な化粧を施している。
 けれど今日は違う。髪は纏めず下ろしていて、服装も奇抜なものではなく黒いパーカーといった地味な格好。化粧も勿論していない。
 だから、誰か一瞬分からなかった。見慣れた金色の瞳をはっきりと見るまでは。

「それにしても意外ね。ヒソカが芸術に興味あるなんて」
「別に興味ないよ

 絵画へと戻しかけた視線を引き止められる。なら、どうして美術館に来たんだろう。まさか盗みとか? 戦闘にしか頭にない彼に限って。

「君がここに入って行くのが見えたから、ついてきちゃった

 揶揄うようにして告げられた答えは、あまりにもくだらなくて思わずため息が出てしまうほどだ。赤い髪から覗く瞳は、好奇の色で満たされている。私はそんな彼を無視して、次のコーナーへと足を向けた。

「人はそれをストーキングと言うのよ」

 そう冷たくあしらってみても、彼は気にする素振り一つ見せない。まあ、着いてくるなら好きにしたら良い。絵のことで適当に話を聞いてくれる人がそばに居ると楽しみも増える。
 それに、きっと気まぐれなヒソカのことだ。飽きたら先に出ていくだろう。

 二つ目の展示コーナーの中心には翼を生やした老人が若い女を連れ去ろうとしている絵が飾られていた。説明文を読みながら、ぼうっと絵を見つめる彼を横目で盗み見る。
 さっき、彼のことが一目見て分からなかった理由はもう一つある。それは彼が持つ殺気がなかったから。
 彼は自他ともに認める強者だ。強さを持て余すのが退屈なのか、それとも己の強さを再確認したいのか。どちらかは分からないけれど、彼は常に自分を楽しませてくれる強者との戦いを追い求めている。そして、それを私にも欲している。
 何が良かったのかは分からないけれど、彼は私との戦いが楽しそうだと思ったらしい。彼は私との戦いを求めて、時折こうして会いに来る。だから出会ったら分かる。禍々しい殺気を私に向けてくるから。
 けれど今日はそれがなかった。だから彼だと気づかなかった。今日は完全にオフの日なのかも。

「この時代に描かれる男性は、愛する女性を暴力で支配するんですって。まるでヒソカみたいね」

 説明文を読むために少し丸めていた背を伸ばし、彼にそう告げる。相変わらず、この格好の彼は見慣れない。

「心外だな ボクは大切にするタイプなんだけど

 胸元にわざとらしく手を当てて言い返す彼を、思わず鼻で笑ってしまった。全く、どの口が言っているんだろう。

「目をつけた獲物はとことん追い詰めて狩り尽くすくせに?」
「それは獲物の話だろう? 愛する人に対しては優しくするよ

 どうだか、なんて心の中で言葉をもらした。彼も人を愛せるのか疑いしか生まれない。人への評価基準が己との強さの格差でしかない彼が、そんな人間くさい感情を持っているとは到底思えなかった。
 目をつけた獲物は逃がさない。飽きたらすぐに殺めて捨てて忘れる。そんな身勝手な愛情しか彼は持っていないから。

「まあ、それを言うならキミだってボクを誘惑しているよね
「なんのこと……?」

 意図の掴めない問いを聞き返せば、彼は途端に微量な殺気を発する。いや、発するというか漏れているというのが正しい。さっきまでそんな素振り、一切見せなかったのに。

「キミの発するオーラは、ボクにとって極上の誘惑 まるで甘美な密のようにボクを魅了してくるんだよ
「ヒソカが勝手に欲情してるだけでしょ。気持ち悪いこと言わないで」

 私はヒソカと戦う気はない。いつものようにそう付け足せば、彼の殺気は鎮まった。この殺気、間違いない。ヒソカだ。目の前にいる好青年があの奇抜な格好をしている彼に上手く結びつかなかったけれど、今改めて自覚した。ちゃんと、目の前にいるのはヒソカなのだと。

「分かってるよ ボクもそのつもりで来たんじゃない

 その一言に、何か違和感を感じ取る。正体は上手く掴めないけれど、酷く何かが噛み合わない。なんだろう、この変な感じ。

「急がないと閉館するよ 行こう

 疑問と考えが纏まらない内に彼の言葉に急かされる。携帯で時間を確認すると、時刻は三十分を迎える手前だった。まだ半分も見終わってないのに、喋りすぎた。彼の言うとおり閉館時間が近い。少し早歩きをしないと見終わらないだろう。

「それもそうね。行きましょ」

 ヒソカを引き連れて、ギャラリーを巡る。何か違和感を感じながら。
 さっきのセリフが頭の片隅にいやに引っかかっている。ヒソカがここに来たのは私が美術館へと入って行くのを見ていたから。芸術に興味はないと言っていたから、飾られている絵画が目的ではない。私に会うのが目的。でも、彼と仕事をする機会はしばらくなかったはず。
 もっと根本的な問題。彼がなぜ私に会いたかったか。完全なオフの日で、戦う意思がないのにも関わらず。そこが謎なんだ。彼が私に仕事以外で用があるのだとするなら、一対一のタイマン勝負を要求することだけ。だけど今回はそうじゃない。
 彼の意図が、分からない。

 気になる絵には足を止めて、特に感性に響かないものは軽く見るだけ。スピードを上げてギャラリーを巡っているけれど、ヒソカは文句一つ言わず私に着いてくる。特に自分から足を止めようともしないから、本当に絵画には興味がないようだ。
 まあ、私は自分のペースが乱されないから願ったり叶ったりなんだけど、本当に何も思わないのかな。

「キミはよく美術館に来るのかい?」
「気になる展示があれば行くって感じで、頻繁に来るわけじゃないわ。……なんでそんなこと聞くの?」

 とある絵画に足を止めて説明文を読んでいた時、ヒソカが私に声をかける。脈略のない突発的な問いが謎で、思わず聞き返した。

「今後の参考にしようと思って

 返ってきたのはよく分からない答え。彼とプライベートで会ったのも今日が初めてなのに、今後も何もないと思うけど。今日だって、ヒソカが勝手に着いてきただけだもの。
 彼との無駄話にまた花を咲かせれば、今度こそ閉館時間になってしまう。私は特に気にもせず先を急いだ。

 計八十点にも満たない作品達。急いで回ったからその内の数点しか印象に残っていないけれど、最後の絵画の前に来た。閉館時間五分前。ギリギリセーフ。
 一際大きな絵画で、額縁の装飾は控えめ。けれど、色鮮やかなタッチと、 描かれている愛の芽生えの優しさに、思わず見とれてしまう。これが最後の絵なのだから、時間いっぱい見ていても誰も文句は言わないだろう。
 ヒソカは相変わらず、どこかつまらなさそうに絵を眺めている。ロマンチックな絵なのだけれど、彼の心には響かないらしい。
 ヒソカの心を動かすのは、自分が見定めた強者と戦う時、或いはその強者を見つけたときだけなんだろう。長い長い人生の中で、強者を見つけた瞬間や戦闘中の短い時間にのみ心を震わせる。彼はそういう感性を持っている。感性が違うのだから、ここにいてもつまらないだろう。
 そう、彼にとってこの状況は彼がいたく嫌う退屈そのもの。なのに彼は私の隣にいる。なぜ?
 ずっと考えていた疑問。嘘を返されるかもしれないけれど、モヤモヤしたまま何も聞かないのは性にあわなかった。

「なんで私について来たの? 別に用もないでしょ」

 人も疎らな館内で、私は彼に問うた。他の人は皆、音声案内のヘッドホンで耳を塞いでいるから、私たちの会話は彼らの鑑賞の邪魔にはならない。

「用はないよ 会いたかったからついてきたんだ

 予想外の答えに思わず息を呑む。ヒソカが、まさかそんなことを言うなんて思わなかった。自身の欲望に従順で、誰にも属さず自分の意思のみで行動する彼が。

「それ、本気で言ってる? いつものお得意の嘘でしょ」
「そんな嘘をつくほど、ボクはつまらない男じゃないよ

 嘘だと思えなかった。けれど嘘だと疑いたかった。彼の瞳は真っ直ぐ私を捕らえて離さない。いっそのこといつもの気まぐれとでも言ってくれれば良かったのに。
 私はきっと、私たちを見守る絵画に映る少女と同じ心情を抱いている。初めての彼からの好意に戸惑い、驚きを隠せない。

「キミが良いなら、この後食事でもどうだい?」

 口説くような台詞が、決定打となった。
 彼の言い表す"良い"には、彼との関係性の発展も含まれているんだろう。仕事仲間ではなく、もっとそれ以上の。

「生憎だけど、私夜から仕事なの」

 私を完璧に捕らえていた瞳は揺らぎ、残念 という言葉と共に逸らされる。案外潔く引くんだ。戦いへの交渉は粘り強いのに。
 もしかして、本当はいつもの気まぐれだったのかもしれない。続けようとした言葉を一瞬飲み込みかけたが、先程の彼の瞳を思い出して私は言葉を続けた。

「お茶くらいなら相手出来るけど。もう気は変わった?」

 絵画へと逸らされた瞳がもう一度こちらへと向けられる。瞳には嬉々とした色が宿っている。どうやら気まぐれではなかったらしい。

「キミがそれで構わないなら、是非

 そう彼が答えたところで丁度閉館時間になったらしい。ギャラリー内にいたスタッフ達に急かされて、私たちは美術館を後にした。すっかり日も暮れて、辺りは静寂に包まれている。季節の変わり目を知らせる風が一際強く吹いて、彼の赤髪が揺れた。

「ねえ、ヒソカ」

 声をかければ大人しく彼はこちらへと視線を向けてくれる。

「次、私を口説く時はいつのも格好で来てよ」
「どうして?」
「今日のヒソカがタイプじゃないから」

 そう彼に告げると、彼はいかにも可笑しいといった様子でクスクスと笑う。そんなに可笑しいことかしら。やっぱり目の前にいる彼の格好は見慣れないし、なんだか落ち着かなかった。

「お望み通りに

 わざとらしく含みを持たせた言い方で返すヒソカ。私を揶揄っているのだろうか。
 彼の隣を歩きながら、彼が私に向けているのは果たして本当に愛なのか考えた。彼から告げられた言葉は、もしかしたら、興味がないと言いつつも展示されていた絵画たちを見て感化されて出た嘘かもしれない。
 さり気なく車道側を歩かれても、私の歩幅に合わせて歩いてくれても、未だに彼の言葉を信じられない。それは常に疑ってかからないと彼に騙されてしまうから。それほどヒソカの言動全てが嘘に塗れていて、彼は騙すことに躊躇がない。
 本当に厄介で、でもそこに惹かれている私がいる。

「ちなみにそのお仕事って、ボクが見学してもいいかい?」
「嫌よ。後が怖いもの」

 私が人を殺している光景なんて、きっと彼の欲情を煽るだけだ。そのまま戦うことにでもなったら、たまったものじゃない。戦う理由がない以上、なるべく彼と争いたくなかった。
 ヒソカにとって、私は獲物であり愛する人になるんだろう。優しくにじり寄り追い詰めて、逃がさないと囲ったところで私を殺す。きっとその行為は、ヒソカが新しい玩具に出会うまでの暇つぶしにすぎない。
 でも、私にとっては違う。彼から別れを告げられる時がきっと私が彼に殺される時だから。彼が私を想っていなくても、私は彼を想ったまま死んでいく。
 なんて身勝手なロマンチックで迎える終焉を、私はどこか彼に期待してしまうのだ。