くだらない嘘
ヒソカは嘘つきだと自称するだけあって、くだらない嘘をつくことが多い。本心を隠すためか、見逃しているだけで重要なことを隠すために嘘をついているのか分からないけれど、彼が私につく嘘はあまりにもくだらないものが多い。今日のこれも、きっとソレの一つ。
「申し訳ございませんお客様。ラストネームがご予約時のものと違うのですが……」
「え? そんなはずはないと思うんですけど」
自分の文字を見たが、間違いなく私の名前。書き間違えているわけじゃない。首を傾げていると、フロントスタッフが手元のキーボードを操作する。
操作を終え、パソコンの画面を見せられると、宿泊者名の欄に私の名前があった。だけど、確かにラストネームが違う。
「ご新婚様ですか? よくいらっしゃるんですよ。以前のラストネームのまま書かれる方」
フロントスタッフはにこやかに笑みを作り、そうフォローするが私は曖昧な笑みを浮かべることしか出来ない。上手く口角が上がっていない気がしてならない。
仕事柄私だって嘘をつくことはある。けれど彼よりも上手くないし、誤魔化すのも苦手。特に、今みたいに身構えていないオフの時とか。
「まあ、そんな感じです」
現場だったら、こんな下手な誤魔化し方通用しない。きっと殺されてる。ここが仕事場じゃなくて良かった。なんて安堵しながら、私はラストネームのところに二重線を引く。
その上に、書きなれないラストネームを記入した。「モロウ」と。
*
「またくだらない嘘ついたでしょ」
「随分なお出迎えだね
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開いた扉に向かって声をかければ、久しぶりに聞く声が返ってくる。声の主はヒソカだ。顔を見なくても分かる。このホテルへと呼び出した張本人だし、この部屋に用があるのは彼しかいない。
「恋人との一ヶ月ぶりの再会の挨拶は、駆け寄ってきてハグをしてくれると予想していたんだけど
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椅子に座って雑誌を片手に、備え付けの灰皿に煙草の灰を落としながらの出迎えはいかがなものか。とも捉えられるヒソカの言葉に私は口付けていた煙草を灰皿に押し付ける。
やっとヒソカの方に視線を向ければ、軽く両腕を広げてこちらに笑みを向けている。ああ、言葉通りハグしてほしいってことね。心の中で大きくため息をつき、私はゆっくりと立ち上がった。
ヒソカには初めて会った時から悪戯好きな子供という印象がある。私よりも二十センチ以上背が高くて、肉体も相当鍛えられて力もある。立派な大人の体をしているけれど、それでも子供っぽい印象を受けるのは、今私から抱きしめられるのを待っているように、自分の欲に素直なところが原因だろう。
ヒソカの傍に近付き、あと一歩で触れられるというところで私は足を止めた。ヒソカからハグをしたいと言い出したのだから残り一歩はヒソカから歩みよればいい、という私なりの意地。というか、意地に見せかけた羞恥。
ヒソカは微かに笑い声を洩らして私に一歩近づいた。筋肉質な腕が私の背に回されると同時に視界が真っ暗になる。身長差のせいで、私がすっぽり彼に収まる形になってしまうからだ。
丁寧に拭ったのだろうが血の匂いが鼻を掠める。少し遅れてここにやってきたし、仕事でもしてきたんだろうか。まあ、珍しいことじゃない。きっと私も、煙草の匂いでぼかされているだろうが、同じ匂いがするはずだから。
「久しぶり
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「ん……」
頭を撫でられながら耳元で囁かれる。その吐息がくすぐったくて、彼の言葉に対する返事のような、くすぐったさに反応するような曖昧な声を洩らした。
ふと胸元から顔をずらして彼を見上げると、そのタイミングを狙ったかのように顎に手を添えられる。
あ、と思った瞬間にはもう遅く、彼と何度目かも分からないキスを交わした。触れるだけの、なんてことない挨拶のようなキス。
「会いたかったよ
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「嘘ばっかり」
「酷いな
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もういいでしょ、と身を捩れば彼は簡単に手を放してくれた。
ヒソカの言葉には嘘が多い。というより、全て嘘だと思うことにしている。私自身、疑い深い性格というわけではないのだけれど、それでも彼のことは疑っておいて損はない。仕事の不利益にも繋がるかもしれないし。
でも、これは建前。本心は彼の言葉で一喜一憂したくないという思いがある。
ヒソカは欲に忠実な性格をしている。好きになったものに対しては誠意と好意を見せて大切にするけれど、興味の失ったもの、あるいは嫌いな物には一切の感情を示さない。以前好意を持っていたものだとしても、興味を失えば彼は躊躇なく捨てる。人の縁も例外ではない。
だから、私はいつかヒソカに捨てられる運命にある。彼が飽きた時、別れを告げられるのか殺されるのかは分からないけれど、彼との縁が切れるのはそう遠い未来の話ではないと思う。
だから、私はヒソカの言葉を鵜呑みにして安易に喜んだりしない。あとで苦しむのが目に見えているから。
「そういえば、さっきのくだらない嘘ってなんのこと?」
ふと、ヒソカが思い出したように問う。くだらない嘘。さっきの出来事を頭の中でひっくり返すと、すぐに答えは見つかった。
「私のラストネーム、モロウで予約したでしょ。モロウってヒソカのラストネームじゃない。わざと?」
「ああ。そのこと
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彼は私のラストネームを知っているはず。彼のことだから忘れていてもおかしくはないけれど、恐らく覚えているだろうから。きっとわざとこの名前で予約したに違いない。
もう一度椅子に腰をかけようとしたところで手を引かれる。こっち、とでも言うように導かれた先はベッドだった。大きいダブルベッド。ツインの部屋をとってくれれば良かったのに。
この部屋を予約したのはヒソカだ。数日前に久しぶりに連絡がきたかと思えば、このホテルに来るように言われ、今日の朝には先にチェックインをしておくようにとメールが来ていた。思えば、モロウという名字で予約をとったことを見せつけるためにわざと私を先に送ったのかもしれない。
ベッドの縁に隣あって腰を下ろす。ヒソカはなんてことない顔で私を見つめる。
「キミに似合うと思ったから
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「似合うってなに。共有する気もないくせに」
「キミとなら共有しても構わない
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また嘘をついた。くだらない、面白くもない、そして意味もない嘘を。きっと普通なら、こんなこと好きな人に言われたら喜ぶのだろうけど。相手が相手なだけに、素直に喜べない。
ご新婚様ですか? フロントスタッフにかけられた言葉が耳の中で木霊する。結婚なんてするわけがない。彼が、私と。
「生憎だけど、私今の名前が気に入ってるから」
遠ざけるようにそう告げると、彼はそう、と相槌を打つだけだった。彼は簡単に引き下がる。さっきのハグと同じ。深入りはしない。ということはそこまで真剣じゃないのだろう。
気まずい沈黙。いつもなら、彼がくだらない無駄話を延々と語ってくれるのだけど、なんだか今日は違った。
シャワーでも浴びてこの空間から逃れよう。そう考えて立ち上がろうとすると、彼の手が私を止めた。
見た目は細くしなやかな女性のような手をしているのに、触れてみると確かに男性の質感なのだから不思議な手だ。彼は私の手を掴み、わざとらしく指を絡める。
「な、なに」
「キミはボクの言うことをすぐに嘘って拒むけど、ボクの本心を知る気がないだけだろ?」
彼は絡めた手を引き寄せて、そっと手の甲に口付けをする。それがくすぐったくて、恥ずかしくて、手を引っ込めようと力を入れるけれど彼の力には敵わなかった。
私を見上げる金眼には好奇の色が滲んでいる。なにを、するつもりだろう。
「ボクなりにアピールしてるつもりなんだけど
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絡めた指をするりと解いたから、もう解放してくれるのだと力を抜いた。それがいけなかった。
すぐに手首を強く掴まれて口元へとまた引き寄せられる。さっきのように甘えるようなキスをされるならまだ良かった。けれどあろうことかヒソカは私の薬指を口に入れ、根元まで咥えこむと思いきり歯を立てて噛んだのだ。
「ッ……!?」
衝撃。痛み。何度も何度も強く噛まれているそこからはきっと血が滲んでいる。やめて、離して、そう言えばいつもは大抵引き下がってくれるのに、今回ばかりはそうもいかないらしい。
それよりも指先から伝わる彼の口内の感触が気持ち悪い。根元まで口に入れられているから、喉の一歩手前の柔らかい部分が指先に触れている。そして、噛まれていない残りの指の部分は彼の舌によって丁寧に舐められてしまっている。
舌先が触れた部分から彼の体温が移ってくるような気がしてならないほど、触れられた部分が熱かった。
こいつ、私が抵抗しないからって好き勝手して……。痛みと不快を訴えるために彼のことを睨みつけてみるが、全く効果はない。
むしろ彼は益々笑みを深め、それに比例するように噛む力も強まっていくだけだった。悪戯っ子のような笑み。全くもって可愛くない。
ようやく満足したのか、彼は私の指に吸い付きながら口からゆっくりと引き抜いた。噛まれた指の根元には醜い傷跡が残っている。
「何、考えてんの」
ジンジンと痛む傷跡。静かに怒りが湧き上がっていく私とは対象に、彼は余裕そうな笑みを浮かべている。先程までの私から滲む血の味を思い出してか、舌なめずりまでして。
「怒ってる?」
「ええ、少しね」
「やり返すかい?」
ほら
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「嫌。私ヒソカみたいに悪趣味じゃないから」
「それは残念
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彼は痕をつけた場所に口付けた。まるで忠誠でも誓うように。赤い舌が這い、滲みる痛さに顔を顰める。この場にも雰囲気にも似つかわしくない、ちゅっ、という可愛らしいリップ音が部屋に小さく響いた。
「別にキミがボクの言葉を全て嘘だと切り捨てても構わないよ
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偽りばかり唱える口で愛を伝えられても信用出来るはずがない。けれど、彼のつけたこの噛み跡こそがその気持ちの現れなんだろう。
思えば彼は、会う頻度こそ多くないものの会えば必ず愛の言葉を伝えてくれていた。その言葉たちは、嘘と言うにはあまりにも優しすぎる。まあ、彼のことを心の底から信用出来る気はまだしないけれど。
「分かった」
「本当に?」
コクンと首を縦に振れば彼は嬉しそうに笑みを浮かべて私の手を離した。解放された手の薬指を軽く動かしてみると、噛み跡からじわじわと痛みが広がっていく。本気で噛まれたから、かなり痕は残るだろう。下手したら、一生モノかもしれない。
「ああ、でもキミはボクからの好きって気持ちは信じてくれているか……
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「なんのこと?」
「だってボクからの好意も、キミの言うくだらない嘘に分類されるなら付き合っていないはずだから
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確かに、そう解釈することも出来る。だけど、ヒソカからの愛情だけを信用して、他は何一つ信用していないのならさすがに恋人になろうとは思わない。それに、彼からの愛の言葉も未だに信じきれていない私もいる。
「ヒソカからの好きもくだらない嘘だと思ってるよ」
「ならどうしてボクと付き合ってるの
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ヒソカの恋人になった理由。それは利用し利用されるような難しい思惑でもないし、全くの無感情というわけでもない。もっと至極単純で明快なありきたりなもの。
「だって私がヒソカのこと好きだから。傍にいられるならいたいじゃない?」
珍しく彼の口角が下がる。不機嫌になったのではない。動揺の色が目に映った。いつも余裕綽々といった風に笑みを浮かべている彼がこんな表情を私に見せるのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。
しばらくそうした表情を見せたあと、彼の瞳がスッ、と細められる。
「キミのそういう変なところだけ素直なのが好きだよ
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「どういう意味?」
「そのままの意味さ。ボクの気持ちも素直に受け入れてくれればいいのに
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「それは無理。ヒソカは嘘つきだから」
そう。ヒソカは嘘つき。これを念頭に置いておかないと、あとで彼に泣かされるのは私。警戒を解くことはできないし、信用もしない。
けれど、薬指の傷は彼の誠意の現れだろう。付け方は乱暴で、それでいてあまりにも身勝手で、おまけに見た目は酷く痛々しいものだけれど。それでも甘んじて受け入れてあげる。きっとこれは、紛れもない愛の象徴だから。
きっと彼が本音だけを話して生きていく日が来ないように、私も彼の嘘を本音と受け入れる日が来ることはないのだろう。でも、だからこそこんな関係を続けられているのかもしれない。
ずっとどこか歪な関係のままで。そしていつか彼のタイミングで見切りをつけられるんだろう。
けどまあ、それでもいいよ。それがきっと私たちらしいから。