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 長い長い十二科目のテストを終えて、私は花京院くんをいつもの場所へと呼び出した。先に待ち合わせ場所に着いたのは私だった。確か、提出物のノートを職員室に提出してから来ると言っていたから、遅れてるんだろう。

 階段に腰掛けて、花京院くんを待つ。ウォークマンで音楽を聞こうかとも考えたけれど、すぐに来るだろうし、それに何より近づいてきたらすぐに心の準備が出来るようにしたかった。
 製カバンを開けて、中に眠る一本のカセットテープを見下ろす。ラッピングされているものの、その蛇腹折りは拙く、不器用な素人がラッピングしたものだと丸分かりしてしまうほど下手くそ。まあ、これを包んだのは私なんだけど。
 テスト期間、私は勉強もしつつ花京院くんに渡す曲を選んでいた。テスト期間中って、部屋の掃除とかこういった作業ばかり捗ってしまう。いけないことだと分かりつつも、どうしてもそっちに意識が行ってしまった。まあ、テストは結構手応えがあるものが多いから大丈夫でしょう。

 問題はこのプレゼント。花京院くんのことを思い浮かべながら、曲調を重視しつつ歌詞の和訳も調べて、私なりの花京院くんへのプレイリストを作ってみた。曲は全部洋楽。もしかしたら、全部花京院くんは知っている曲かもしれないけれど。
 作っている最中は不安で胸が潰れそうだった。どれだけ考えてみても彼の喜ぶ顔が上手く思い浮かばなくて、途中でやめようかとっても悩んだ。けれど、これを放棄したら他のプレゼントを考える時間も用意する時間もとれない。
 だから、めげずに頑張った。まあ、所詮は自己満足と言われればそれまでなんだけどね。

「おまたせ」

 彼の声に慌てて製カバンを閉じる。考えごとに夢中で、彼の足音に気が付かなかった。花京院くんは不思議そうな顔でこちらを見下ろしている。

「どうしたんですか? こんな所に呼び出したりなんかして」
「いや、えっと、なんていうか……」

 彼への返答に思わず言葉が詰まってしまう。花京院くんの誕生日をお祝いしたくて。そう言うだけなのになんだか気恥しい。サプライズって誰にもしたことがないから、余計に。
 花京院くんは相変わらず不思議そうな顔をしてこちらを見下ろしている。湿気た暑さが漂う室内で、彼は汗もかかずに涼しげな表情をしていた。

「まさか、君……」

 花京院くんが口を開いた。言い出すなら今がチャンスだ。そう思った私は彼の言葉に被せるように声を発した。

「そ、そう! そのまさかだよ。花京院くんのお誕生日の前祝いをしたくて。はい、これプレゼント」

 カバンを開けて、彼にラッピングしたカセットテープを差し出した。外に出してみても、やっぱり包み方は下手くそ。花京院くんならもっと上手に包めるんだろうな。器用そうだし。

「い、いらないなら、受け取らなくても良いんだけど……」

 花京院くんは、すぐに返事をしなかった。嫌だったのかな。やっぱりこういうのって鬱陶しかったかも。恥ずかしくなって、プレゼントを引っ込めようとしたその時だった。

「いや。もらうよ。びっくりしただけなんだ」

 花京院くんは私の手からラッピングされたカセットテープを受け取ってくれた。大切そうに受け取る姿を見て、胸の中に幸福感が溢れる。良かった、喜んでくれてるみたい。
 花京院くんはカセットテープをまじまじと見ると、突然ははっと小さな笑い声をあげた。

「花京院くんベストって……。僕が選んだわけじゃあないのに」
「だって、それ以外思いつかなかったから」

 本当は、「花京院くんへ」と書いて渡すつもりだった。でも、作っていくうちにその表題は間違っているように思えてきた。けれどボールペンで書いてしまって消しようもなく、仕方なく濁点と「スト」を書き足して、「花京院くんベスト」にした。
 まさか、こんな細かいところで笑われるなんて思わなかった。花京院くんって、ツボが変わってるのかも。

「今聞いても構いませんか? 君のウォークマンなら聞けるだろう?」
「い、いや!今日は持ってきてなくて……」

 嘘。本当は持ってきている。持ってきているけれど、目の前で聴かれるのは気恥ずかしかった。もしかしたら彼の好みじゃない曲を入れている可能性だって完璧にないわけではない。

「そうか。じゃあ、家に帰ってからゆっくり聞くよ」
「そうして。夏休みが明けたら、感想聞かせてね」

 残念そうに呟く花京院くんに私はそう声をかけた。待ちきれないほど楽しみにしているのかな。そんなわけないか。
 でも、これで、夏休み明けの約束が出来た。夏休みの間に会わなくても、また二学期が始まる頃には会えるようになる口実。そう言っても過言じゃあない。純粋に嬉しくて、気を抜くと頬が緩みきってしまいそうだった。

「用はそれだけなの。……えっと、もう、帰るね」

 用が終わってしまえば、彼に何を話せばいいのか分からなかった。いつもは昼休みの40分間という時間の制約があるけれど、今日は例外。それに、今日はお昼ご飯を食べながらの雑談ではない。
 これ以上用もないのに、彼を引き留めるのも迷惑だろう。彼に背を向けて階段を降りようとしたその時だった。

「昇降口まで一緒に行きましょう」

 思わず振り返って花京院くんを見上げると、彼は私からのプレゼントを手に私を見つめていた。そしてそのまま階段を降りてきて、私の隣に立つ。
 いつも、昼休みが終わっても教室までは一緒に帰らないのに。いや、私が気を使っているだけかもしれない。花京院くんが告白されているのを見かけたあの日から、ずっと私が彼の隣に立っていることが不思議で仕方がなかった。
 それに、聞く限り花京院くんに好意を寄せている女の子がそれなりにいることも分かった。そんな子たちに二人でいるところを見られるのが、なんだか気まずかった。だから、二人で教室に戻ることはなかった。途中で私がトイレに寄り道したり、迂回ルートを回って教室に帰っていた。

 けれど、今日くらいならいいのかな。校舎内は静まり返っている。きっと生徒たちは一秒でも長く夏休みを満喫するために帰宅してしているか、もしくは部活棟へと行ってしまっているだろう。これなら、人目を気にする必要もない。
 階段を一歩降りると、花京院くんも一歩降りる。そのまま階段を降りていっても、花京院くんは私の隣をキープし続けていた。

 窓からは入道雲がこちらを覗いている。真っ青な空と眩しすぎる太陽を背にして。外から聞こえるのは複数の蝉の鳴き声。ミンミンと耳に劈くような鳴き声をBGMに、私は頭の中で本当に夏が来てしまったんだな、とどこか他人事のように思った。
 ついこの間まで、夏の気配がするなあと思っていただけだったのに。気付くと夏はもう私の元に来ていたのだから。
 花京院くんの顔をふと見上げると相変わらず涼しげな表情を浮かべている。風景はこんなにも夏なのに、汗一つかかない彼が不思議でたまらなかった。
 私の視線に気づいた彼が私を見下ろす。真っ直ぐな視線があまりにもどこか真剣で、私は思わず立ち止まる。花京院くんも同じタイミングで足を止めた。

「私ね、夏は嫌いなの。暑いし、焼けるし、蝉はうるさいし」

 私は、何を言おうとしているんだろう。耳に劈くように鳴いていた蝉の声が、どこか遠くに聞こえる。

「けど、夏生まれの花京院くんのことは好きだよ」

 そう伝えると、花京院くんの目が大きく見開かれた。思いきり開かれた瞼から、綺麗な瞳がこぼれ落ちてしまいそうなほど。
 だけど彼はすぐに表情を戻して、優しく微笑む。瞳の奥に、焦がれるような意思を宿して。

「僕も、好きです」

 ジジッ、と最後の鳴き声をあげて、蝉の声は聞こえなくなってしまった。どこか遠くへ飛び立ったのか、それとも、短い一生を終えたのか。
 閉めきった校舎内では分からないし、今の私にはどうでもいいことだった。
 好き? 好きって、なに。花京院くん、今、なんて言ったの。

「君のことが」

 倒置法のように後から付け加えられた主語。その言葉は衝撃的で、私はきっと今、さっき見た花京院くんの表情と同じ表情をしているに違いない。大きく見開いた瞳が、夏の空気で少し乾く。

「花京院くん……」

 なんで。花京院くん、誰とも付き合う気はないって言ってたじゃん。私は花京院くんの理解者になれないって、役不足だって。
 君にだって視えない、いつの日か落胆したような調子で発せられた声が、頭の奥底で響いた。花京院くんは、私に何を期待して、私に好きと言ったんだろう。

 指先が彼の指先に触れる。瞬間、流れ込んでくる自分ではない体温。さっきまでこんなに手の位置は近くなかったのに。見下ろすと、花京院くんが私の手を繋ごうと近付けてきていた。初々しい行動。外から見れば微笑ましい行為なんだろうけど、私には彼の手を繋ぐ勇気は出なかった。
 咄嗟に手を引っ込めると、息を呑む音が私の耳に入った。

「どうして……?」
「ごめん。その、好きっていうのは、友人としてっていうか。ラブじゃなくて、ライクの意味で……。その、えっと……」

 まさか、花京院くんが私に恋心を寄せているなんて、思ってもみなかった。確かに、君は魅力的な人だと言われたこともあったけれど、それは進路の相談をしている時であって……。
 花京院くんの顔を恐る恐る見上げると、どこか寂しそうな、それでいて、なぜか腑に落ちたような表情をしていた。

「そうですか……。僕も、早とちりしてすみません。今のは、忘れてください」

 瞳の中に仄暗い影が落ちる。

「僕も、友達として、君のことが好きですから」

 嘘つき。そんな悲しい顔で言われても説得力ないよ。そんな悲しい顔、しないでよ……。
 花京院くんの瞳は少し濡れていた。窓から差し込んでくる強い日差しのせいで、キラキラと輝く。この場に似つかわしくないほど、その様子は美しかった。
 彼の言葉に、表情に、胸が痛むのはどうしてだろう。青くさい私には、分からなかった。いや、分かりたくなかった。
 きっと、私は。いや、私も、花京院くんのことが……。
 それでも、口に出来なかったのは、まだその感情をハッキリと自覚出来ていなかったから。片鱗は、振り返ってみればいくつも落ちていたというのに。

 私たちは黙ったまま、どちらともなく歩き出した。廊下を進んで、階段を降りて、昇降口へとたどり着く。そこには誰もいなかった。声も、聞こえない。
 靴箱から靴を取り出して、上履きから履き替える。上履きも持って帰らないと……。花京院くんは先に履き終わったのか、出口付近に立っていた。そのまま二人して、校門まで歩く。

「僕、帰り道はこっちなんです」

 そう言って花京院くんが指さしたのは右方向。本当は、私もそっち。三ヶ月も一緒にいたのに、初めて知った共通点に心が踊る。いつものテンションなら、奇遇だね、なんて言って一緒に帰るのに。今は、そんな気になれなかった。

「私は、こっち」

 花京院くんと反対の、左方向を指さす。嘘をつくのは、少し気が引けるけれど、これ以上花京院くんと気まずい雰囲気を共にするのは避けたかった。
 それじゃあ、なんて軽い挨拶を交わしながら校門を出て、二人別の道へと歩いて行く。二、三歩、歩いたところで、私は花京院くんの方へ振り向いた。名前を呼べば、彼も同じく私の方へ振り向いてくれる。

「また、二学期に会おうね」

 そう言って手を振ると、花京院くんも小さく振り返してくれた。そうだ。気持ちの整理をつけるのに、一ヶ月も猶予がある。花京院くんへのこの複雑な感情を、これからゆっくり考えていけばいい。
 そして、夏が終わって、二学期になったら、きっとまた元通りの昼休みが過ごせるはず。マイナスに傾いてしまった関係性を、なんとか修復しようと私は企てていた。あまりにも楽観的に。

 1988年、7月25日の出来事。忘れもしない。私の後悔の日。