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「来週からテストか。嫌だなあ」

 梅雨もすっかり明けた七月の金曜日。夏の気配はもうすぐそこまで来ていて、徐々に上がる気温と、強くなる紫外線と日差しに私はうんざりしていた。
 この間中間テストがあったばかりなのに、気付いたらもう期末テスト。これが終われば夏休み、ということはとっくに分かりきっているのだけれど、とにかくテスト期間というのが嫌いだった。
 教室内はピリピリとした空気が充満していて、とてもじゃないけど、私には耐えられない。自分がテストに体たらくな姿勢を見せていても、周りは違う。なんだか居心地が悪くて、あまりテスト期間は好きじゃない。

 それに、夏だって好きじゃない。暑いし、焼けるし、蝉の声はうるさい。まあ今年はこの夏への嫌悪感も少し緩んでいるのだけれど、苦手なものは苦手だった。

 花京院くんは私の一人言を聞き流しながら、英語の単語帳を開いていた。付箋がびっしりと貼られていて、私の新品同様みたく綺麗な単語帳が恥ずかしく思えるくらいだ。
 花京院くんと同じように東京の大学に進学しようとも少しだけ考えているから、最近はまた勉強を頑張り出した。けれど、暗記系は相変わらず苦手だ。どうも上手く覚えられない。
 花京院くんを真似て私も単語帳を開いてみる。見たことあるような単語、単語は知っているけれど意味を覚えていない単語、目まぐるしい情報が脳に入り込んでくる。
……こんなんで私、大学受験大丈夫なのかな。

「花京院くん、よくそうやって覚えられるね。尊敬しちゃうよ」
「当たり前のことですよ。君は英語が苦手なんでしたっけ」
「苦手。多分私文系じゃないんだと思う。古典とかも苦手だし」
「単語を暗記すれば、二つとも解けますよ」

 そうなのかなあ。でも暗記って、日々の積み重ねでしょ? この一年半サボってきたツケっていうのが、ようやく回ってきた気がする。
 中学はそこそこ勉強していた。だから基礎はある程度出来るつもりだ。けれど、高校になってから何か糸が切れたように勉強も何も手につかなくなってしまった。怠惰は何も生まないなあ。
 花京院くんの単語帳には大小様々な付箋がたくさん貼られている。新しく貼られたようなものや、古くから貼られているようなものまで見てとれた。それに、いくつかの単語やその例文には赤線が引いてある。花京院くんは、きっとちゃんと努力をしてきた人だ。私とは違う。

「僕は将来、留学にも行ってみたいので、勉強しているというのもありますけどね」
「留学?」
「ええ。もっと様々な文化に触れてみたいんです。家族で旅行にも行きますが、旅行と留学は違いますから」
「海外行ったことあるんだ! 私はないから羨ましい」
「ええ。夏休みも、誕生日祝いとして家族でエジプトに行くんですよ」

 誕生日祝い。ああ、そっか。花京院くんのお誕生日って夏休みのどこかなんだっけ。誕生日祝いに海外旅行をプレゼントって、結構いい所のお坊ちゃんなんだ。確かに彼の所作はどこか品があるし、そう言われると納得するものもある。
 それより、花京院くんの誕生日だ。祝ってあげようと心に決めたから、何かプレゼントしたいな。形に残らない消えものの方があっさりとしている気はするけれど、どうせあげるなら何か形に残るものが良いだろう。あ、でも、鬱陶しく思われてしまうのは嫌だなあ。
 決めた。テスト終わり、花京院くんになにかプレゼントを渡そう。テスト勉強もしながら、花京院くんのプレゼントも考える。大丈夫、私ならきっと出来るはず。

 まあ、その前にテスト勉強なんだけど。将来の自分のため、大学受験のため、というのは頭で分かっているんだけど、どうも頭がついてこない。
 二年間も勉強というのを拒否してきたんだ。そうなるのも無理はない。……いや、無理をしてでも勉強しないと。
 隣に座る花京院くんを横目に盗み見ると、単語帳をじっと見つめていた。私のように勉強への言い訳なんか考えてないんだろうな。
 彼が考えていることは、きっと目の前の単語をひたすらに覚えて、応用の例文も頭に叩き込むことだろう。
 偉いなあ、なんて尊敬の念を覚える。

「花京院くんって、よく集中出来るよね。尊敬するよ」
「そうかい?」
「うん。私無理だよ。こう、単語帳三秒見つめただけでもう疲れる」

 大きめのため息をついて、体の中に燻っているダルさを誤魔化すためにペットボトルに口をつけた。夏らしい麦茶で喉を潤して、勉強への煩わしい気持ちも腹の奥へと流し込む。

「何かコツとかない?」
「コツか……」

 花京院くんは考える素振りを見せる。私みたいな存在、勉強の邪魔でしかないだろうに、真剣に考えてくれる花京院くんは優しい。いつの日か、彼は私に優しいと言葉をかけてくれたけれど、私からしてみれば彼の方が優しさに溢れていると思う。

「敢えて言うなら、僕はテスト終わりのことを考えていますね。例えば、英語のテストで80点以上を取ったら徹夜でゲームをしていいとか」
「花京院くん徹夜でゲームなんかするの?」
「しますよ。たまにですけど」

 花京院くんとゲーム。あまり結びつかない単語に少し困惑してしまう。花京院くんはずっと勉強ばかりしている人だというイメージがあったけれど、そういうわけでもないらしい。
 また一つ、彼のことが知れて私は胸が弾んだ。年相応の、高校生らしいこともするんだ。なんか可愛いなあ。

「だから君も、テスト後のことを考えてみればいいんじゃあないか? 自分へのご褒美を考える、と言えば正しいかな」
「自分へのご褒美かあ……」

 テストが終わった後っていうことは、夏休みを想定すればいいのかな。高校二年生の夏休みって、受験に向けてちょっとは勉強しなきゃいけないよね。
 でも、やっぱり息抜きは大事だし、花京院くんも徹夜でゲームをするくらいには息抜きをしている。特別な息抜きみたいなことをしたいかも。テストの点数も決めておかないと。
 しばらく頭を動かして、私は花京院くんに向き直る。私からの視線に気付いたのか、単語帳に落とされていた視線を私へと向けた。

「英語のテストで70点取ったら、新しい音楽を探す旅に出る」
「というと?」
「ちょっと遠いCDショップに行って、ひたすら試し聴きをして、気に入ったCDを買いまくる」

 いいでしょ。なんて笑ってみせると、花京院くんも少し微笑んで「君らしいですね」と返してくれた。
 花京院くんのアドバイスのお陰で、なんだか頑張れそうな気がする。そうと決まれば……! 私は単語帳を開き直し、食い入るように単語と睨めっこを始めた。

「付箋貸そうか?」
「いいの!?」

 彼の言葉に甘えて、手渡された黄緑の付箋を一枚剥がして一つの単語に貼る。花京院くんに一歩近付いたような、そんな浮かれた気持ちを胸に、昼休みいっぱい私と花京院くんは英語の単語帳を見つめていた。