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「いつになったら進路希望調査を出すんだ。明日までだぞ?」
「はあ」
「明日提出しなかったら、家まで取りに帰ってもらうからな」
「わかりましたあ」

 そんな大声で怒鳴らなくても。威嚇すればなんでも言うことを聞くとでも思っているんだろうか。内心腹が立って、心の中で舌打ちを一つだけこぼした。
 授業中に配られるプリント、それと普段配られる事務的なプリントでクリアファイルの中に埋まってしまったまっさらな状態の進路希望調査を取り出す。

 大学には、正直行きたくなかった。大人になんてなりたくなかった。将来のことなんて、考えたくない。何を甘ったれたことを言ってるんだと自分でも分かっている。けれど、本当に、怖かった。
 クリアファイルの中にもう一度プリントを埋めて、私は机に突っ伏した。一時間目はなんだっけ。生物基礎だったっけな。
 頑張らないといけないのに、頑張れない。あの進路希望調査のように、枠組みに何も入っていない。空っぽで空虚な私。
 耳に空いた穴が、未だに痒かった。

 花京院くんは、きっと進路希望調査なんて提出期間の初日に出しているんだろう。真面目で、神経質そうだし。花京院くんはどこに行くんだろう。地元の大学に行くのかな。
 昼休み、聞いてみても怒られないだろうか。でも、花京院くんに怒られたことはないし、初対面の時以来、嫌そうな顔はされない。話題ついでに聞いてみようかな。

 花京院くんと昼休みを共にするようになるのが当たり前になってきた頃、世間は生憎の梅雨入りとなった。傘を持ち歩くのは面倒だし、何しろ低気圧で頭痛もしてしまう。それにジメジメして、これからの季節はあまり好きじゃあない。

 屋上へ向かうと、花京院くんはいた。いつもの定位置で、膝の上に風呂敷で包まれたお弁当箱を置いて、私のことを待ってくれている。
 最初の頃は一人で食べて待っていることが多かったけれど、いつの間にか、彼は私のことを待ってくれているようになった。ちょっとそれは、嬉しい。

「おまたせ」

 隣に座ると、いつものように手馴れた手つきで風呂敷を解いた。私の今日のパンはピザの具がふんだんに乗ったピザパンだ。
 花京院くんに指摘されてから、家の近所のパン屋さんに赴くようになっていた。先日のメロンパンも、今日のピザパンも、そこから買っている。もうすぐ、パン屋の二枚目のスタンプカードが貯まる。
 ぱくり、と一口食べると、トマトの酸味とピーマンとタマネギのシャキシャキとした食感が口いっぱいに広がった。

「花京院くんはさ、大学はどこに行くの?」

 突然こんな質問をしてしまって、困らせただろうか。けれど、私たちの会話はいつも唐突だ。前置きもへったくれもない。
 花京院くんは口に含んだ鮭の塩焼きを丁寧に噛んでから飲み込んだ。喉仏が上下に動く仕草が、彼を男の子なんだと改めて知らしめる。

「東京の方の大学に行きたいんです。東京じゃなくても、どこか、遠くの大学に行きたい」
「花京院くんにとって知らない世界があるから?」

 ええ。と彼は一言肯定して、今度はプチトマトを口に入れた。ヘタと実を口で切り離して、取れたヘタはお弁当箱のおかずカップの中へと落とされた。
 そうか、花京院くんは外部に行ってしまうのか。そう思った途端寂しくなった。彼とこうしていれるのも、一年と少ししかないんだ。
 いや、高校三年生までこの関係が続いているかは分からないけれど。

「君はどこに行くんですか? 県内?」
「私は……」

 ピザパンをもう一口齧ろうとした寸手で、彼にそう問われる。
 どうしよう。まだ全然決めていない。あっけらかんと言うつもりだったのに、彼があまりにも真剣な目つきで言うものだから、途端に私は恥ずかしくなってしまった。

「とりあえず、私は県内かな。分野とかは何も決めてないけど」

 やっとのことでそれだけ答えて、私は改めてピザパンを一口齧った。うん、美味しい。

「進路希望調査、まだ出してないんだ。明日締切だからとりあえず適当に書いてでも出さないといけないんだけど」

 朝、堰き止めていた感情が口から溢れ出す。花京院くんは、なにも言っていないのに。なにがトリガーになったのか分からない。けれど、なんだか全て、言ってしまいたいような気がした。
 思えば、高校一年生の頃にはろくに友達と呼べる存在はいなかった。いや、作ろうとしなかった。だけど、花京院くんという話せる存在が出来て、なんだか心の固まっていた部分が解れてきて、弱い部分がむき出しになってきているんだと思う。
 カチカチのカサブタを剥がした後の傷跡のように、熱を帯びて痛む、弱点。

「でも私、なにも取り柄がないの。勉強も得意なものなんてないし、授業もまともに受けてない。花京院くんみたいに目標もない。空っぽな人間なの」

 声は詰まっていた。いつの日か聞いた、花京院くんに告白した女の子のような声に似ている。
 泣いているのかな、私。でも、視界は滲んでいないし、頬に伝うものもない。泣いてはいないのだけれど、泣きそうな声がただ喉から溢れ出した。

「君は、そのままでも十分魅力的な人ですよ」
「何それ」
「何って、そのままの意味ですよ」

 花京院くんの言葉がよく分からなかった。何をもって、彼は私のことを魅力的と言うんだろう。
 降り止まない雨が屋上へと続く扉を絶えず叩く音が響く。花京院くんは真っ直ぐに私を見つめている。その瞳に射抜かれてしまいそうなほど。

「音楽が好きだったり、突拍子もなくピアスを空けたり。そして、見ず知らずの僕にいきなり言いがかりをつけたり」
「貶してる?」
「まさか。そういう行動力を褒めているんです。あと、優しいところも君の魅力だと思いますよ」

 優しいところ。優しいところなんて、私にあるのかな。過去の行動を思い返してみても、最近で人にとびきり優しくしたことなんて思い浮かばない。ましてや、花京院くんに、なにか優しく接したっけ。
 でも、花京院くんが勇気づけようとしてくれているのは分かった。

「君に魅力がなければ、毎日こうして君と昼食を食べませんよ」

 そう言って、彼は柔らかく微笑む。その表情がとても優しくて、温かくて、なんだか泣いてしまいそうだった。ありがとう、と言いたかったのに、言葉が胸に突っかかって上手く吐き出せない。
 花京院くんはそんな私の様子を見かねたのか、いつかの日のようにお弁当箱を差し出してきた。

「元気を出してください。おかず、一つあげますから」
「……ありがとう」

 やっと出た言葉に、花京院くんは相変わらずの笑みを浮かべていた。この頃になるともう、大人びた笑みを見せることは少なくなっていた。そんなことを考えながら、彼が差し出してくれたお弁当の中から卵焼きを一つ摘み口の中に入れる。
 花京院くんに話すと、なんだか心の中で燻っていたモヤモヤとした霧が晴れていく感じがした。さっきまであんなに恐ろしかった将来のことや大学のことが、そんなに恐ろしくなくなった。



 その夜、私は自室で進路調査票と向き合っていた。とりあえずパソコンで地元の大学を調べてみる。前々から気になっていた大学もあったから、とりあえず、そこを重点的に。
 私の得意なものって、長所ってなんなんだろう。花京院くんは優しくて行動力がある所と言ってくれたけれど、勉学の面に関して、その長所は一切役にたたない。
 まあ、彼とクラスは同じじゃあないから、彼が私の学業なんて知る由もないのだけれど。

 第一希望、第二希望、それぞれ大学名を入れていく。偏差値はそこそこ。分野は割と興味のあるところ。あとは私の成績が付いてこれるかどうか。まあ、そんなに悪い点数はとっていないけれど、どうなんだろう……。
 第三希望の欄。ふと、私は思いたってパソコンの検索スペースに"東京"、"大学"と打ち込んでみた。出てくる大学を片っ端からなんとなく見ていく。
 花京院くんと私が同じ大学に入るなんてことはまずないと思う。成績が違いすぎるし、彼の志望校も知らない。けれど、近い地域の大学に行けたとしたら、もしかしたら、花京院くんと高校を卒業してからも繋がりがあるかもしれない。
 そんな淡い期待を胸に、私は一つの学校の名前を第三希望の欄に記入した。行く気は、あまりない。けれどこれは希望だから、とりあえずはこれでいいんだ。
 進路希望をクリアファイルの中に挟んで、私はベッドの中に入る。憂鬱を知らせる目覚まし時計をセットして、布団を被った。

 ……あれ。そういえば、なんで私こんなに花京院くんの傍にいたいんだろう。中学時代の友達は、あんなに簡単に縁を切ったのに。どうして私は、こんなに花京院くんに執着をしているのだろう。
 それは、彼が高校で唯一の友人だから、と説明するにはあまりに足りない気がした。もっと違う理由が、ある。けれど、それを考える気にはなれなくて、考えようとしても睡魔が邪魔をした。
 私は彼への気持ちに疑問を抱えたまま、微睡む意識を手放した。