4

「花京院くん、好きです。私と付き合ってください……!」

 やばっ。踊り場で、昨日の気弱そうな女の子が花京院くんに告白をしていた。花京院くんは女の子を見下ろしていて、私からは彼の表情はよく見えなかった。
 今日は少し遅れて屋上へと向かっていた。日直当番が当たって、職員室に課題のノートを提出しなきゃいけなかったから。だからって、こんな悪いタイミングで来てしまうなんて。降りようか。でも、足音をたててバレてしまうのは気まずい。

 花京院くんが彼女に答えを言うまでの間が、一生続いてしまうような錯覚に陥る。このまま何時間も、彼は黙ってしまっているんじゃあないだろうか。
 でも、それでも良い気がした。彼に恋人が出来ると、私とはもう関わってはくれないだろうから。

「気持ちはありがたいのですが、今は誰ともお付き合いするつもりはありません」

 彼女の告白を断ったのは、意外だった。彼は優しいからてっきり彼女の告白を受けるものだと思っていたから。思わず安堵のため息がこぼれる。まだ、彼と一緒にいれるんだ。

「そっか。ごめんね……」

 詰まったような声が小さく響く。そして足音。どうしよう、こっちに来る。
 私は動けなかった。こういう場面に遭遇するのも初めてだし、どうしていいか分からなかった。頭の中が軽く混乱している。
 気がつくと女の子は階段を駆け下りていった。目が合った一瞬、たっぷりの涙をためて。

「いたんですか」

 花京院くんはなんてことないような声で私に声をかけてきた。あまりにも冷たい声に驚きながら、私は彼の隣、定位置へと腰かける。
 花京院くんは動揺も、狼狽えもせず、いつものようにお弁当箱が包まれた風呂敷を解く。その表情が慣れている様子に見えた。きっと、告白されるのは一度目や二度目じゃあないんだろう。
 今思えば、教室の中から彼のクラスの体育の授業を見ている時、ことある事に数人の女子から駆け寄られていた。あれは、多分、言い寄られていたんだろうなあ。

「そうだ。この間言っていたカセットテープ、持ってきたんですよ」

 さっきまでのことがなかったような口ぶりで花京院は話しながら、制服のポケットからカセットテープを取り出した。メモ欄には「洋楽リスト」と達筆な文字で書かれている。
 花京院くんの文字を見るのも、これが初めてだった。優しい見た目に反して、どこか男らしい字。彼から差し出されたカセットテープを受け取り、親指の腹で優しくなぞった。

「聞く?」
「もちろん」

 ウォークマンを取り出して、カセットテープを取り替える。イヤホンを片方差し出すと、花京院くんはそれを受け取って自身の右耳にはめた。
 再生ボタンを押すと、聞き慣れないメロディが耳に流れ込んできた。でも、不快感はない。むしろ、好みの曲調に近かった。歌詞の意味は、相変わらず分からないけれど。

「気に入りました?」
「うん。結構好きかも」

 そう答えると、花京院くんは嬉しそうにはにかんだような笑みを浮かべた。いつもの大人っぽい余裕を含ませた笑みじゃない。年相応の笑顔に胸がドキンと高鳴る。
 多分、この笑顔が彼の素なんだろう。好きなものを好きだと言う本心が、この笑みを引き出してきたのかもしれない。
 高鳴った鼓動から気を紛らわせるために、私はパンの袋を開けた。今日はメロンパン。花京院くんは、今日も綺麗に巻かれた卵焼きを口に入れた。曲に聴き入っているのか、一言も話さない。

 しばらくして二曲目へと変わった。一曲目の陽気でアップテンポな曲調とは違い、ローテンポなバラードだった。
 それから流れてくる曲調も好きなものだった。花京院くんとは曲の好みが合うのかもしれない。そう考えながらメロンパンの最後の一欠片を飲み込んだ。
 足を伸ばして、リラックスした状態で曲を聴いていると、ふと聴いている音楽以外に声が聞こえてきた。曲の中のコーラスかと思ったけれど、そうじゃない。
 隣でお弁当を食べているはずの花京院くんを見ると、彼はいつの間にかお弁当を食べ終わっていた。彼は目を瞑り、口元を僅かに動かして歌詞のフレーズを歌っている。聴こえた声は、彼のものだった。
 大きな声で歌っているわけじゃない。この近さで、ようやく聞こえるような声。あまりにも小さな歌声は、所々掠れて、雨音と音楽に紛れて、儚く溶けていく。
 なんで、花京院くんは私の傍にいてくれるんだろう。昼休みという短い時間とはいえ、ばっさりと女の子の告白を断った彼が、女の私の隣にいてくれる理由が分からなかった。

「花京院くんは、どうしてあの子の告白を断ったの?」

 疑問を投げかけると、彼はゆっくりと瞼を開けた。真っ直ぐ空虚を見つめて私の問いの答えを探している。
 そもそも、彼はどうして毎日ここに通ってくれているんだろう。あれだけモテる花京院くんなら、友人だってたくさんいるだろうに。

「学生は学生らしく、ですからね。僕は勉学に集中していたいんですよ。だから、誰からの告白も受けていないんです」
「そっか。花京院くんらしいね」

 耳元のピアスが痒い。一ヶ月経ったけれど、まだ安定していないから外すのは気が引けた。
 この会話でその話題は終わったような気がしたけれど、花京院くんはそうではなかったみたいで、ゆっくりと言葉を続けた。

「それに、彼女も誰も、本当の僕を知らないから」

 誰も、知らない。その言葉が引っかかった。そんな、他人を全て突き放したような言い方。私も含めているような言い方。

「どうしてそんなこと思うの?」
「どうしてって……」

 花京院くんの声は明らかに困っていた。思春期が難しい年頃なのは分かる。私だって、たまに人に上手く説明出来ないような感情に陥る。けれど、どうして彼は私に比べて何もかも持っているのに、なぜ孤独を謳うんだろう。

「強いて言うのなら、僕の全てを理解してくれる人に、出会ったことがないから、かな」
「全てを理解してくれる人なんていないよ。花京院くんだって私のことを全部理解してないでしょう?」
「そういうことじゃあないんだ。なんというか、その……」

 花京院くんは足の間で手のひらを組んで、少し深刻そうに眉間を寄せた。
 そして、意を決したようにして、どこか真剣な目で、何かを渇望するような意志を瞳に込めて、私の瞳を覗く。

「君には、視えないだろう?」

 視えない? なにが視えるというんだろう。私の視界には、花京院くんしか映っていない。
 もしかして花京院くんは厨二病なのかと一瞬心の中で疑ったけれど、この数週間話してきて、彼がそういうタイプではないというのは、最初の方から分かっていた。
 なら、何だろう。花京院くんは、私になにを問うているんだろう。

「ほら、君にだって視えない」
「っ……、ごめん」
「謝る必要はありません。視える人の方が、異常なんですから」

 どんな言葉をかければいいのか分からなかった。花京院は目を伏せて、目に見えて落ち込んでいる。でも、視える人が異常なんてことはないと思う。それって、花京院くんも異常者になってしまうから。

「花京院くんは異常なんかじゃあないよ。なにが視えるのかは、ちょっと私には分からないけど……。けれど、それって個性っていうか、えっと……」

 自分で言っておいてなんだけど、彼にかける言葉がこれで正解なのか分からなかった。嫌な気は起こしていないだろうか。
 花京院くんは顔を上げて、どこか悲しげな目をしながら私を見つめる。口を開き何かを言いかけたけれど、ちょっと悩むように視線をさ迷わせてから、違う話題を私に振ってきた。

「気に入った曲はあるかい? よかったらコピーして渡すよ」

 彼の表情はもう変わっていた。いつものように大人びた笑み。ああ、この笑顔はきっと誰かを遠ざけるための笑顔だ。愛想笑いと似たようなもの。だけど、それが分かった所で私にはどうすることも出来なかった。
 理由は分からないけれど、彼は私の友人として傍にいてくれているのだ。その関係に甘えている私には、何も出来ない。

「二曲目くらいのが一番気に入ったかな。でも、全部結構好きかも。同じ人の曲?」
「ああ。好きなアーティストなんだ」

 花京院くんはそう言って頬を緩める。その表情に、私はまた胸が締め付けられた。彼にとって、私はどういう存在なんだろう。いつの日か頭の中に浮かんだ考えがまた私の頭の中を駆け巡る。
 さっきの愛想笑いのような大人びた笑み。十七歳の青年らしく、年相応の無邪気な笑み。素の彼も上っ面だけの彼も見せてくれる。そんな私の存在って、一体何?

「君は洋楽はあまり聴かないと言っていましたよね。どうして?」
「……歌詞の意味が、分からないからかな」

 しまった。考え事をしていたから素直に答えてしまった。もっとこう、聴くきっかけがなかったとか、オブラートに包んだ言い方の方が良かったかもしれないのに。嫌な感じに、捉えられたかな。
 恐る恐る花京院くんの顔色を伺うと、彼はなんてことない表情を浮かべていた。というよりは、不思議そうな顔をしている。

「僕は結構、そういうところが好きなんですけどね」
「そういうところ?」
「僕の知らない言語があるというか、知らない世界を感じられるから、好きなんです」

 そんな会話をしているうちに、A面の曲が終わる。B面に差し替えて、再生ボタンを押した。
 知らない世界ってなんだろう。なんでそれを感じられるのが良いんだろう。その言葉のせいで、また一歩、彼が私から遠ざかってしまったような気がする。
 隣にいるのに、手を伸ばしても掴めない。触れられない。そんな気分に陥ってしまう。彼との心の距離は、あまりにも遠いものに思えた。

「この曲が、一番好きなんですよ」
「そう、なんだ」

 彼の一番好きな曲。B面の一曲目。彼は朗らかな表情で曲に聴き入っている。でも、私はやっぱりA面の二曲目が好きだな。そうは思っても、口にしないけれど。

「そうだ、お互い自分のカセットコピーして、交換しようよ」
「良いアイデアですね。僕も君の聞く曲、興味あるんです」

 短い会話を終えて、私は曲に耳を傾けた。しばらくすると、また花京院の歌声が聞こえる。儚く、脆く、今にも消えてしまいそうな歌声が。
 耳に入る音は微かで、彼の歌声がとびきり上手いのか、それともはちゃめちゃな音痴なのかはわからない。けれど、聞いているだけで心が落ち着いてくる。
 茶化すことも、逆にそちらだけを聞き入ることもせず、昼休みが終わるまで私は黙って彼の好きな歌声と、彼の歌声に聞き惚れていた。