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 翌日も彼はここへ来た。私の姿は必ず視界に捉えるけれど、彼から私に話しかけることもなければ、私から彼に話しかけることもない。お互い干渉せずに同じ場所で昼食をとる。そんな関係が、しばらく続いた。

 そんなある日のお昼休み、私はいつものように階段に腰掛けてスティックパンを食べていた。プレイリストも変わらない。そろそろ新しく組み直すか、昔のカセットを引っ張り出してこようか。なんて考えていると、いつも通りの時間に彼はやって来た。
 しかし、今日は様子が少し変だ。いつも私のことは最低限しか視界に入れないくせに、今日はハッキリとこちらを見つめてくる。
 そして片手を口の横に添えて何かを口にした。イヤホンを付けていた耳では聞き取れなくて、慌ててイヤホンを耳から外す。

「ごめん。もう一回言って」
「飽きないんですか」

 一瞬なんのことか分からなかった。首を傾げると、彼が私の手元を見ていることに気づいた。私の手元には、開けられたスティックパンの袋がある。
 そういえば最近これを毎日食べている。だから、飽きないのかと聞いたのか。でも、どうしていきなり、そんなことを聞くのだろう。昨日まであんまり喋らなかったくせに。

「なんで?」

 そう聞き返すと、彼は少し考えるような素振りを見せながら、彼の定位置に座った。今日も丁寧に結ばれた風呂敷を解きながら、彼は言葉を発する。

「見ていて美味しそうには見えないのに、君は毎日そればかり食べているから。気になっただけです」

 味なんて、意識したことがなかった。安くて沢山入っていて、チョコレートも入っている。それだけの理由。たったそれだけの理由で、私はここ数日同じものを食べ続けていた。

「特別美味しくはないかな。不味くもないけど」

 そう言って私は一口パンを齧った。パサついて、口の中の水分が持っていかれる。
 確かに、なんでこんなの毎日食べてるんだろう。胃に収まれば良かったから、あんまり考えたことなかったかも。

 そうですか、と花京院くんから相槌が返ってくる。そういえば、まともに会話したのこれが初めてかもしれない。
 そう思うとなんだか嬉しかった。彼は私と関わる意思があるんだ。そう捉えた私は階段を降りて彼の隣に座る。

「……なんですか」
「なんでもないよ。隣で食べられるのは嫌?」
「嫌では、ないですけど」

 彼の了承を得て、私はイヤホンを片方だけ付けて彼のお弁当の中をちらりと盗み見る。遠目からではあまりハッキリと分からなかったけど、近くで見ると美味しそうなものばかりだ。
 綺麗に巻かれた卵焼き、カラッと上がった唐揚げ、彩りを添えるプチトマト。敷き詰められた白米には、おかかのふりかけがかかっている。
 それを黙々と表情も変えずに食べる彼の表情もちらりと伺いながら、私はスティックパンを齧った。相変わらずモサモサしている。

「食べたいんですか?」

 片方のイヤホンから聞こえるドラマの主題歌に耳を傾けながら、私はぼうっと彼の様子を見ていたようだ。見られていることに痺れをきらした彼が私にそう提案してくれた。

「いいの?」
「そんなに見られていたら、落ち着いて食べられませんから」

 はい、とお弁当を差し出される。どのおかずか選んで良いということだろうか。私はゴクリと唾を飲み込んで、卵焼きを摘んだ。口にすると、お出汁が効いていて美味しい。
 普段から彼は、こんな上品な味のするものを食べているのか。それなら、このスティックパンが美味しそうに見えるわけもない。

「美味しい!」
「それは、良かったです」

 僅かに彼の口角が上がる。笑った顔は初めて見た。というか、まともに顔をこうしてまじまじと見るのも初めて。
 特徴的な赤毛。それにくるりと柔らかく巻かれた前髪。細い眉に薄くて大きな口。そして、いつも嫌に目に付くさくらんぼのような耳飾り。
 こうして見ると、かなり特徴的な生徒だ。同じクラスではないけれど、どうして目に付かなかったんだろう。

「もうあげませんよ」
「分かってるよ」

 お弁当箱を引っ込める彼に苦笑を浮かべる。別に、とって食いやしないのに。そんなに強欲に見えるのだろうか。

「ねえ」

 お弁当へと視線を落とす彼に声をかける。薄紫の澄んだ瞳が私の方へと向けられた。珍しい瞳の色。綺麗だなあ。

「これから花京院くんって呼んでもいい?」
「構いませんよ」

 こうして、私と彼の関係は始まった。

*

 花京院の下の名前は典明というらしい。隣のクラスで出席番号は三番。あの日体育教師に言われた通り、彼は成績優秀で、学年一位も珍しいことではないようだ。
 比べて私は、学年一位はおろか十位以内にも入ったことがない。半分以内に入っていれば上々。そんな成績。
 けれど、彼と話すのは心做しか楽しくって、毎日持ってきているウォークマンの出番は昼休みにはなくなっていた。

「花京院くんってさ、何月生まれなの? 秋っぽいけど」
「僕は夏生まれですよ」

 相変わらずの場所で、私たちは昼食をとっていた。花京院くんに言われたあの日から、なるべくスティックパン以外のものを選ぶようにしている。
 サンドイッチとか、惣菜パンとか、なるべく味のするものを。花京院くんと昼食をとるようになってから、なんとなく味がする食事をするようになったと思う。人と食事をすると良いって話は、本当だったんだなあ。

「夏だったらもうすぐだね。七月とか?」
「誕生日は夏休み期間の真っ最中なんですよ。だから、君には祝えない」

 そう言って彼はこんがり焼かれたウインナーを口に入れた。君には祝えない、ということは、花京院くんは夏休みの間私に会う気はない、と言われたみたいで少し寂しかった。
 けれど仕方がない。彼と私との関係は、昼休みに一緒にお弁当を食べる。それだけの仲だ。クラスが一緒なわけでも、ましてや登下校を一緒にしているわけでもない。
 どこか突き放したような言い方だけど、彼の言ってることは的を射ている。

「当日に祝うのは無理そうだね」

 彼の誕生日が夏休みなら、学校がある期間に祝えば良い。別に当日に祝わなくても、期間が近いなら終業式前でも良いだろう。

「そういう君の誕生日はいつなんですか」
「まだちょっと先かな。近付いたら、教えてあげる」
「祝うとは一言も言ってませんよ」

 驚いて声を洩らすと、彼は冗談です、と満足そうに笑った。してやったりという顔。大人びている彼には、その表情はとびきり似合っていた。

「あと、ずっと聞こうと思っていたんですけど」

 小さくカットされたサンドイッチを頬張っていると、花京院くんが不意に私に尋ねてきた。ずっと聞こうと思っていたことって、なんのことだろう。

「僕と食べる前は、いつも音楽を聴いていたじゃあないですか。なにを聴いていたんだい?」

 なんだ、そんなことか。口の端についたマヨネーズを拭ってから私はポケットの中に入れていたウォークマンを取り出した。
 カセットテープのメモ欄には、殴り書きのような字で「8」と書いてある。八個目に作ったから、八。今日のプレイリストは、しっとりめのバラードを多く入れている。

「色々聴いてるかな。人気のヒット曲だったり、アニソンもたまに聴いてる。ロックが一番好きだけど、基本なんでも聴くよ」

 音楽が特別好きというわけではなかった。好きなバンドもいないし。インディーバンドの追っかけをしているというわけでもなければ、軽音部に所属して自分の音楽をかき鳴らしているわけでもない。
 けれど、学校という退屈な時間を紛らわすのに、音楽を聴くのはちょうど良かった。リズムに身を任せていればあっという間に時間は過ぎていく。クラスメイトの声で溢れた喧騒も、空いたピアスの穴から流れ込んでくる暗くて重苦しい感情も、全部忘れさせてくれた。

「洋楽は好きかい?」
「んー、洋楽か……」

 そう言われると、洋楽は聞いたことがあんまりなかった。テレビのCMや、ラジオで流れてくるものは何度か耳にしたことがあるけれど、自分のお気に入りのプレイリストには一曲も入れていない。
 でも、洋楽って苦手だ。歌詞の意味が分からないから。私は英語が苦手で、英語を聞いてすぐに頭の中で和訳にする能力もない。歌詞の意味が分からないんじゃあ、あまり聞く気にはなれなかった。

「あんまり聴かないかも。花京院くんは好きなの?」
「好きですよ。どちらかというと、邦楽よりも洋楽を聴くことが多いです」

 頭が良い人は、聞くものも頭が良いものなんだな。ぼんやりとそんなことを思った。
 花京院くんと音楽って、上手く結びつかない。きっとそれは、私が花京院くんのことを何も知らないということも関係しているんだろうけど、やはりどこか一線を彼は引いているっていうのが一番の理由だと思う。
 彼は自分から、自分自身のことをあまり話さない。やっと最近、こうして打ち解けてきたところだった。
 でも、なんとなく彼が洋楽を好むというのは頷ける気がする。ミステリアスな雰囲気がそれを助長させているんだろう。

「今度、花京院くんの好きな曲教えてよ」

 普段なら洋楽は聴かない。聴こうとも思わない。だけど、花京院くんがなにを聴いているのかは気になった。
 どうしてこんなこと思うんだろ。もし別の人から同じようなことを言われても、同じ洋楽を聴きたいなんて思わないのに。
 ああ、多分、花京院くんが高校に入って初めて出来た友人だからかもしれない。友人と呼べるほど、濃い関係でもないけれど。

「いいですよ。なんなら、カセットテープに入れてきましょうか。それで一緒に聞きましょう」

 彼はそう言って私のスカートを指さした。きっと彼はポケットの中に入っているウォークマンを指しているんだろう。
 そうか、確かにそれならすぐに聞ける。彼からの提案に頷くと、花京院くんは柔らかな笑みを浮かべた。

 最近、彼の笑う回数が増えた気がする。大胆に大声を上げて爆笑するなんてことはないから、微笑むという表現の方が正しいのかもしれない。
 けれど彼の微笑みは、どこか品があって、なんとなく目を惹かれた。

「来週までには用意しておきますね」

 花京院くんはそう言うと、お弁当の白米の最後の一口を口に入れて、手を合わせた。お箸を箱に戻すと丁寧に風呂敷を包む。
 花京院くんは、どんな曲を用意してくれるんだろう。彼の雰囲気からして、ハードロックやヘヴィメタルではないだろうな。きっと優しい彼が聴くのだから、彼の雰囲気に似た音楽を集めてきてくれるんだろう。楽しみだなあ。