それでも君が欲しかった

 真っ暗な教室の中で私は立っていた。開いた窓からは月明かりが差し込み、強い風が吹き込んでいてカーテンが激しく揺れている。
 いつも外の風景は放課後を思わせるような夕方なのに、どうして今日は夜なんだろうか。
 そんな疑問を浮かべながら、窓を閉めようと視線をカーテンに移した時だった。

「おはよう」

 声をした方を見ると、椅子に腰掛けた花京院くんがいた。思い返してみれば、彼との夢はいつもこの一言から始まっている。

「花京院くん、ずっと思っていたんだけど何故おはようなの? 私は眠っているのに」
「おはよう、というのは今日初めて会った時の挨拶でもあるからね。嫌だったかい?」
「嫌じゃないよ。不思議だなって思っていただけ」

 彼は微笑んでいつもの様に優しく私に話しかける。月明かりに照らされて、いつもより妖艶に見える彼の姿を見ながら私は決意を固める。言わないと。花京院くんに。承太郎さんとのことを。

「あ、あのね花京院くん」
「ねぇ、こっちに来てくれないかな」

 意を決して話そうとした瞬間、話が遮られた。少し戸惑いながらも、言われたとおりに彼に近づくとぐいっと腕を引っ張られ、対面で彼の膝に跨るよう誘導される。

「私、重いよ?」
「そんなことないよ。もっと僕に体を預けてくれてもいいくらいだ」

 右腕が腰に回される。花京院くんとの距離が近くなって、彼に触れている面積が増えていって自然と顔の距離も近くなる。
 いつ見ても彼は端正な顔立ちをしている。この綺麗な顔にも私は惚れたんだ。彼は目をすうっと細めると私に囁いた。

「好きだよ」

 花京院くんの言葉に息が止まる。

「僕は君が好きなんだ」

真っ直ぐにこちらを見つめて言う。私を射抜くような目で。真剣な眼差しで。

「だから、お願いがあるんだ」
「……?」
「僕と一緒に来て。こっちの世界で暮らそう」

 私を抱きしめる腕に力が入る。彼の言葉に頭が混乱している。こっちの世界って、なに?

「それってどういうこと?私も死んじゃうの?」
「そういうことになってしまうかもしれないね。でも、ずっとここに居ればいい。……永遠に」

 その言葉に恐怖を覚える。無意識に体が震えるのを感じながら私は必死に言葉を紡いだ。

「で、でも私、まだ死にたくないよ。皆にまだ会いたいし、やりたいこともあるし。それに……」

 承太郎さんに告白されたから。
 そう花京院くんに告げると困惑した表情を浮かべる。一気に花京院くんの顔から表情が抜け落ちて、先程までの甘い雰囲気が一変して冷や汗が流れる。

「訳が分からない……。承太郎が、君に?僕が、僕が君のことをこんなにも愛していると、承太郎は知っているのに?」

 ブツブツとなにか言いながら彼は私の肩を掴む。痛い、と思った時にはすでに遅かった。久しく見ていなかった彼のエメラルドの触手が私の体を縛りつける。あまりにも強い力で締めつけられているから、呼吸さえ苦しくなってくる。

「ねぇ、僕のこと好きだろう?好きなら、僕とずっと一緒にいればいい。僕には君しかいないんだ。もう一人は嫌なんだよ。分かってくれ……」
「花京院くん……?」

 抵抗しようと身を捩らせようとするがビクともしない。
 いつの間にか彼の目には線状の傷が浮かび、腹には大きな穴が空いていた。穴からはドロドロと鉄くさい液体が流れ出てきて、私の衣服を赤黒く汚していく。

「離して!やめて…!」
 初めて見る大量の血液が恐ろしくて思わず声を上げた。
 彼は私の言葉を聞いた瞬間目を大きく見開き、ひどく混乱したような声色で叫ぶ。

「どうして、どうして君まで僕を拒むんだ!僕にはもう、君しかいないというのに…!」

 エメラルド色の触手はさらに力を込めて私のことを縛り上げていく。痛くて怖いはずなのに彼の表情から目が離せない。

「やっと君を見つけたのに。君だけを見つけられたのに」

 花京院くんの悲痛な叫び声が教室に反響する。彼の辛さや孤独が私に直接伝わってくるようで、喉の奥に石が詰まったような感覚に襲われた。

「なのに、どうしてまた一人にするんだ……」

 ふと彼の頬を伝って流れた涙が私の顔を濡らす。
 ああ、花京院くんは寂しかったのか。今までずっと独りぼっちだったから。私がいないとこれからも彼は一人ぼっちで、死後でさえその孤独から逃れることはできないのか。
 だから彼は夢の中でずっと私に会っていたのか。孤独を紛らわせるために。

「ごめんね、花京院くん。ごめんね、ごめんね……」

 ぼろぼろと溢れた大粒の涙を彼の手が優しく拭う。触れた指には体温が感じられなくて、彼が本当にこの世のモノではなくなってしまったことを痛感する。

「君が欲しいんだ。命をかけて戦ったことに後悔はない。その結果がこの死であったとしてもね。けれど、君だけはどうしても手に入れたい」
「うん」
「おかしくなってしまいそうなほど、僕は君が好きだ」

 ただでさえ近かった彼の端正な顔が近づいてきて、触れるだけの優しいキスをされる。まるで、これが誓いのキスだとでもいうように。
 この世を去るのは辛い。けれど、花京院くんが傍にいてくれるなら。大好きな花京院がいるならば。私の答えは一つに絞られた。

「決めたよ。花京院くん」
「何をだい?」

 私は精一杯の笑顔を作る。両親にも友人にも、もちろん承太郎さんにも感謝している。それでも、私がこの選択をしたことをどうか咎めないでほしい。
 私は彼を、どうしようもなく私を求める彼を愛しているのだから。

「私は、あなたと行く。私は花京院くんが大好きだから」
「……嬉しいよ。ありがとう」

 満面の笑みを浮かべた彼に心底安堵する。この選択は間違っていない。花京院くんが私のことを好きなように、私も彼が好きだから。愛しているから。
 私を縛り付けていたエメラルドは、その役割を終えたかのように、彼のもとへと戻っていく。やがて彼の傷跡と同化していき先程の目の傷も、お腹に空いた穴も塞がり、いつもの彼の姿が現れる。

「それじゃあ行きましょうか」

 花京院くんが私を抱えて立ち上がる。きっと逃げるのだとしたらこれが最後のチャンスなのだろうが、私の意志は固く、逃げるだなんて考えられなかった。
 もっとも、ここまで言ってしまえば彼が私をそう簡単に逃がすなんて許すはずもないことを想像するくらい容易なことだけれど。

「花京院くん」

 彼の名前を呼ぶと長い前髪越しに彼と目が合った。もう開くことなんて無くて、二度と交わらないと思っていた瞳を見つめて彼に告げる。

「愛しているよ」
「僕も愛しています。これからはずっと一緒ですよ」

 窓の外では強い風が未だに吹いていたけれど、そんなことさえどうでもよかった。
 死でさえ味方につけ、別つことのできなかったこの愛を、邪魔するものなんて何処にも存在しないのだから。



 昨日彼女が亡くなったと電話が来た。突然のことに驚いた感情と、やはりか、と虚しい感情だけが俺の心に渦巻いていた。
 葬式に行かないわけにはいかないだろう。

「空条さん」

 声をかけられ振り向くと彼女の両親がいた。先日の電話口から聞こえた悲しい声色で俺に話しかける。

「あの子は最後まであなたを想っていました。どうか側にいてあげてください」
「……ありがとうございます」

 軽く会釈をして彼女のいる棺を覗き込んだ。安らかな表情で初めて見るような笑みだった。
 まるで眠っているようで、揺らしてやればすぐにでも目を覚まして俺の名を呼びそうな気配がする。
 だが頬に触れても彼女の体温は冷え切っており、彼女の死が現実味を帯びてくる。首元には縄か何かで縛られたような跡が付いていた。その跡から、皆死因は自殺だと噂しているがそれは違うだろう。俺はこの跡の正体を知っている。

「……なんで連れてっちまったんだ。花京院」

 俺はただ、彼女のことが心配なだけだった。花京院のあいつに対しての気持ちを知っていながら、あいつに気持ちを伝えた報いだろうか。
 彼女はまだ十七歳だ。これから沢山の思い出を作って花京院の分まで生きていくはずだったんだ。その隣に誰がいようとも、あいつは幸せに生きる権利があった。
 それを投げ捨ててでも、彼女は花京院に着いて行ったんだろうか。

「お前もなんで幸せそうな顔してんだよ」

 彼女の愛しかった笑みは、今では俺への嘲笑のようにも見えた。
 要するに、俺はフラれた訳だ。彼女をこの世に留めておけなかった。俺じゃ繋ぐ力が弱すぎたんだ。
 それほど彼女はあいつのことを思っていた。なら彼女の幸せを喜んでやるべきなのか……。
「クソったれ」

 小さく呟き、俺は煙草を吸いに外に出る。

「花京院、お前のこと一生許さねぇからな」

 そう言ったところで返事が返ってくるはずもなく、煙は空高く消えていった。