山岸由花子に恋をした

 店内に入るとふわりと花の匂いが鼻腔を掠めた。
エステサロンらしく、アロマオイルでも焚いているんだろうか。室内には大きなベッドが鎮座していて、施術に使うのかいくつかの器具が置かれていた。

「私の名前は辻彩。ここの経営者でエステティシャン」

 店内をまじまじと見渡していると、彼女はそう自己紹介してくれた。

「低血圧っぽい話し方するけど気にしないでね」

 そう彼女は一言断ると、息をフ〜と吐き出した。
壁際に置かれたドレッサーへと案内される。椅子に座ると、問診票と思わしきピンクの紙を渡された。

「ここにお名前と住所をお願いね」

 まずい、この紙に記入したら施術を受けると捉えられる。いや、施術は受けるんだけど。受けるつもりではあるんだけど。心配なのはお金だ。
 こんな美人な先生に施術をしてもらって、しかも効果はてきめんだなんて、一体どれほどの請求をされるのか想像がつかない。そもそも、一高校生のお小遣いで施術を受けられるのか。

「これが料金表よ」

 また彼女は大きく息を吐いて、私に一枚のメニューを差し出した。メニューの一番上。愛に出逢うメイク。横に書かれた金額は想像より安いものだった。愛に出逢うなんて、本当なんだろうか。

 疑問に思っていることが顔に出ていたのか、彩先生は説明をしてくれた。このサロンでは、一般的な施術とは違って人相を変えるメイクをしてくれるらしい。
 ドレッサーの横にあったパソコンのキーボードを打ちながら、画面の中の私を彩先生は歪めていく。

「あら、ごめんなさいね。CGの操作になかなか慣れなくて……」

 次第に画面の中の顔はもとの私の顔へと戻ったが、目と眉の形が違っていた。元の私より目は少し大きく、眉は元の平行眉ではなくて、綺麗なアーチを描いていた。
 由花子も同じ施術を受けたんだろうか。由花子の顔が変わったとは思えないけど、施術を受けていると言っていたし、私が気づいていないだけで目の形が変わっているのかも。また明日、学校で会ったら注意深く見てみよう。

「こ、これって整形じゃあないんですか。うちの学校、整形は校則違反ですし、親も許してくれないっていうか……」
「あくまでもメイクと美容マッサージで整える顔ですわ。でも、三十分しかもたないの。もし三十分の間に愛と出逢わなければ、料金の千円はお返しします」

 試してみます? という彩先生の言葉にすぐ返答が出来なかった。愛と出逢うメイク、それが未だ掴めないものであるということもあるだろうが、本当にこんなことをして由花子が戻ってきてくれるんだろうか。三十分だけでも、彼女は恋人になってくれるんだろうか。
 いや、もしかしたら彼女が恋人になってくれなくても新しい愛の出逢いがあるのかもしれない。顔を変えて、店を出た瞬間、かっこいい男の子が声をかけてくれるかもしれない。
 そうして新しい恋が実ったら、私は由花子への失恋の傷を癒せるかも。

 でも、それで良いのだろうか。

「彩先生」

 見上げた先には彩先生の整った顔があった。彩先生と出会ってから、まだ五分も経っていないだろうけど、彩先生の顔はとても美人だと思う。結われた金髪に切れ長の瞳。唇は赤く彩られていて、由花子とは違ってアンニュイさを持っている。

「私、やっぱりやめます」

 フ〜、と息を吐いて彩先生はパソコンの電源を落とした。その吐息は呆れたため息なのか、彼女の言う低血圧的な喋り方からくるのかは分からなかった。
 茶化しに来たように思われてしまったかもしれない。けれど、今康一に夢中な由花子に三十分だけであっても振り向かれたとして、それは私にとって幸せだけれど、由花子にとっては幸せじゃない。
 由花子以外の想い人が現れたとしても、それで私は幸せなんだろうか。他の人に、この由花子から刻まれた傷を癒してもらうことは幸せになるんだろうか。否。
 彩先生の施術を受けて、どちらの結果になっても私は真の幸せを手に入れられないだろう。

「すみません。お時間を取らせて」
「いいのよ。施術を受ける前に辞めてしまうお客様はいらっしゃいますから」

 机の上に置かれた料金表と問診票を手に取りながら、彩先生はなんてことない顔でそう言ってくれた。
 スカートの裾を軽く直してから立ち上がる。彩先生は外まで見送ってくれるのか、施術室の扉の前で私を待っていた。

「彩先生。ひとつ聞いてもいいですか」
「ええ。どうぞ」
「彩先生は、どうしてこんなお仕事をされているんですか?」

 だってメリットがない。千円という安さで、効果がテキメンの施術をする。由花子も腕は保証すると言っていたから、おそらくこのエステのおかげで康一と付き合えたのだろう。
 そんな実力を持っているならもっと高額な値段をとったっていい。それに、一組のカップルが結ばれようと彩先生にとっては他人事だというのに。

 彩先生は手を後ろに組んで部屋の棚へと移動した。棚から取りだしたのは一冊の大きくて分厚い本だった。表紙には店名でもある「CINDERELLA」という文字が箔押しされている。

「私、シンデレラに出てくる魔法使いに憧れていたの。人を幸せにする魔法使いに。人に幸せを与えることが、私にとっての一番の幸せ。だから私は、エステティシャンとして腕を奮っているのよ。ご理解頂けまして?」

 彩先生はそう言うと本を棚へと戻した。施術室内に飾られている時計が、四時を知らせる鐘を鳴らす。

「先生がシンデレラの魔法使いなら、私は白雪姫の小人です」

 この前見た幼稚園のお遊戯会のビデオを思い出す。白雪姫は由花子で、私は小人。眠る彼女を起こすことも出来ない哀れな小人。王子と一緒に城へ行くことを止めることの出来ないただの小人。
 山岸由花子は王子様のもとへと行ってしまった。広瀬康一という王子様のもとへ。

「何も出来ない、哀れな小人です」

 彩先生の表情は明らかに困っていた。いきなり私が頓珍漢なことを言ってしまったから、困惑しているのだろう。申し訳ない。でももう、来ることもないだろうから許してほしい。

「すみません、変なこと言って。私もう、帰りますね」

 施術室のドアノブに手をかけて扉を開ける。外に向かって出ていこうとすると、彩先生の声がそれを制した。

「小人だってお姫様になっていいんじゃあない?」

 振り返ると彩先生は腕を組んで立っていた。きっとここで、そうですね、なんて答えて心変わりしても、彩先生は喜んで施術をしてくれるだろう。でも、私は。

「そうですね。でも私は、知らない王子様と結ばれたくはないんです」

 私のお姫様は由花子だ。私はお姫様じゃなくていい。だって、お姫様は王子様としか結ばれないから。知らない王子様と出逢って恋に落ちるよりも、例え私が王子様じゃなくて小人だったとしても、それでもお姫様の由花子の傍にいたい。
 彩先生の目に、私は不幸に見えているのだろうか。運命の人でもない一人の相手に縛られて、自ら幸せを勝ち取ろうとしない不幸な小人。
 でも、彩先生が人に幸せを与えることが一番の幸福であるように、私にとっての幸福は由花子が幸せなことだから。

「それじゃあ、失礼します」

 ぺこりと軽く会釈をして、私はエステCINDERELLAを立ち去った。時間を取らせてしまって、申し訳なかったなあ。

 由花子がきっとここを勧めてくれたのは、きっと今由花子が恋の幸せを知っているからだ。好きな人がいて、その人も自分を想ってくれている。その状況が、どんな困難をも越えられる強い感情だということを彼女が知っているから。だから、最近元気のない私に対してここを教えてくれた。
 だけど、やっぱり私は由花子が良い。ワガママだけれど、由花子の隣にいたい。たとえ恋人という形でなくても、王子様という形でなくても。
私の恋を生贄にして、由花子が幸せになるのなら本望だ。

 そろそろ帰ろうと、駅に向かっていると途中で私を呼ぶ声がした。聞き慣れていて、いつ聞いても大好きで、その声を聞く度に幸せになる声。
 声に振り向くと、由花子がこちらに駆けてきていた。康一との約束はどうしたのだろう。放課後はまだ始まったばかりだというのに、もう勉強会は終わったのか。

「どうしたの由花子。康一と図書館に行くって言ってたのに」
「それが康一くん、急に用事を思い出したとかで帰ってしまったの」

 なるほどね、なんて相槌を打つ。メイクをしてもらっていないのに、由花子にたまたま会えるなんてラッキーだ。

「それでね、良かったら久しぶりに二人でお茶でもしない? ここからならドゥ・マゴも近いし」
「もちろん。行こうか」

 断る理由なんてあるわけがない。昼休みは二人きりで過ごしているけれど、やっぱりそれだけじゃあ物足りない。今日のところは康一に感謝しよう。

 由花子のことは大好きだ。これまでも、これからも。でもこの想いを口にすることは出来ない。出来ないけれどそれで良い。だって想いを口にしないことで、あなたの傍にずっといれるんだ。それで、私は幸せ。そして由花子も幸せ。
 唇は赤い薔薇、髪は黒黒と輝いて、肌は雪の白さを持つ。そんな貴方とずっといれるなら、この恋は、来たる夏へ葬ってしまおう。