王子様のお迎え
「ねえ、由花子さん知らない?」「風邪で休みって聞いたけど。なんで」
二時間目の英語表現を終え、次の授業の準備をしようとした時、康一が突然声をかけてきた。彼と話したのは由花子が彼を呼びに行った一度きりでだったのに、よく私のことを覚えていたな。
突然話しかけてきた内容は由花子の欠席の理由。なんでそんなことに興味があるんだろう。
「本当に風邪なんですか?」
「さあね。風邪が伝染るといけないからって会ってくれないから」
消しゴムのカスを手で払い、机の下に落とす。由花子のように手のひらに集めてゴミ箱にすてるという所作は、私には面倒で出来ない。
康一は教室を出て行こうとせず、だけど私に話しかけてくる様子もない。何か引っかかったような顔をして、私の机の傍に突っ立っている。
「用がないなら自分の教室に戻れば」
教科書とノートを手に、私はロッカーに次の授業の教科書を取りに席を立つ。次の授業は、数学か。今日当たる日だっけなあ。
「君がそう言うなら、そうなのかなあ」
私が席に戻ってきても、康一はそこに立っていたままだった。顎に手を当てて、未だ信じられないというか、疑心に溢れた表情で私を見ている。
なにをそんなに疑っているんだろう。というかどうして彼は由花子のことを聞きに来たんだろう。由花子に怪我をさせておいて、大嫌いとフッておいて。今更。
「あんた、由花子にまた何かしたの」
その問いに、彼は素っ頓狂な声をあげた。突然かもしれないけれど、だってそうとしか考えられなかった。
目の前の男の煮え切らない態度。また何か由花子にしたんだ。そうにちがいない。また由花子に怪我をさせたのかも、もしかしたらまた髪が真っ白になってしまうほどのショックを負わせたのかもしれない。
考えれば考えるほど腹が立って、私は荒らげた声を出していた。
「やっぱり何かしたんだ。今度は何をしたの。また怪我をさせたの? なんでそんなことするの。あんなに可愛い人に」
「待って、違う。誤解だ。僕は由花子さんと話がしたくて」
「何が誤解なの? 怪我をさせたわけじゃあないなら、彼女となんで話がしたいの。この間まで彼女にツンケンした態度をとってたのに。何を今更」
「それは……」
そうやって言い淀む態度が気に食わない。由花子は本当にどうして彼のことを好きになったんだろう。彼と関わったこともないのに、彼女が好いている人というだけでイライラとした感情が湧き上がる。
そして、その感情は彼の一言で一気に増すことになる。
「由花子さんと、キス、しちゃったんだ……」
心にヒビが入ったような感覚がした。キス? キスってあのキス? 魚の種類じゃない、唇と唇が触れ合う行為。由花子のあのぷっくりとした唇にキスをしたのか。いつもケア用にと、薄いピンク色のリップを塗っている由花子の唇と触れ合ったのか。
私は、康一の胸ぐらを思わず掴んでしまった。布越しでも自分の爪が手のひらに食いこんでしまいそうなほど、強い力で。
「今、なんて言ったの」
声は低かった。いつも母に対して言い聞かせる時の声だ。低く、唸るように、威嚇するような重く低い声。わざと出しているのではないけれど、無意識に出してしまう。
「ど、どうして怒ってるんだい」
彼の問いにもイラついて、気を抜いたら彼を殴ってしまいそうで、でもそんなことしたら由花子に嫌われてしまうし、あの強面の億泰なんかも敵に回してしまいそうだから私は歯を食いしばって衝動を堪えた。ゆっくりと深呼吸をしてから、彼の首元から手を離す。
「由花子はあなたのことが好きかもしれない。でも私はあんたのこと嫌い。由花子に怪我をさせたことも許していないし、盛大にフッたのにまた声をかけてくる意味も分からない」
康一は驚いたような顔をして私の顔を見ている。出た言葉は止まらない。これを由花子に言われたら、きっと由花子は私をすごく怒るんだろう。もしかしたら康一みたいに、どこぞの別荘に閉じ込められてしまうかもしれない。殺されてしまうかも。
でもそれでも良い気がした。私ならこいつのように途中で逃げ出さない。由花子に似合う人になるのだとしたら、私はなんだって受け入れる。それが由花子のためだから。
でも康一は逃げた。由花子に好意を持ってなかったから。それなのに、どうして、あんたは。
「そのくせ由花子とキスした? なんで、なんであんたがキスしてんの。なんであんたが選ばれんの。私は、私は……」
私はずっと由花子の傍にいたのに。昔から由花子のことを想っていたのに。その言葉を言いたいのに、どうにも喉に言葉が詰まって吐き出せない。視界も滲んで、目の前の康一の表情もよく見えない。
情けない。悔しい。こいつの前で泣きたくなんてない。だってこんなんじゃあまるで、私が負け犬のようだから。
「そっか……。ごめんね」
彼の謝罪の言葉が聞こえる。涙が溢れてしまわないように、上を向いて親指の腹で目元を擦った。涙なんて、こいつに見せてやるものか。
今見下ろすと絶対に泣いてしまう。悔しくて悔しくて泣いてしまう。
「でも僕、由花子さんに恋しちゃったんだ。彼女のことを考えるだけで、温かい気持ちになる。彼女のタフなあの性格に強く惹かれてるんだ」
あんたに言われなくたって知っている。彼女の性格の良さは一番私が分かっている。理解している。
彼女の性格が好き。強引だけど私を引っ張ってくれるところが好き。ワガママだけど私のワガママも同じように聞いてくれるところが好き。なんだかんだ私に甘いところも好き。由花子の長い黒髪が好き。分厚い唇が好き。高貴な紫の瞳も、料理が上手なところも、部活の試合の度にお守りを作ってくれるところも、全部全部大好き。
ほら、私は彼よりも好きなところが沢山言える。由花子と共に過ごしてきた時間があるから。由花子への想いは私の方が強いのに、私が生涯をかけて出会う運命の人はきっと由花子なのに。それでも由花子は、彼を選ぶんだ。
「ごめん。僕もう、教室に戻るね」
私を気遣ってか、授業の時間が近付いているのか、彼は私に背を向ける。その背を引き止めるようにして私は彼に声をかけた。声のトーンはいつも通りだけど、少し鼻声でくぐもっていた。
「由花子の住所教えてあげる。行ってあげて」
康一は私の方を驚いたような顔で振り返る。青色の目をまん丸とさせて、私の方を見上げている。
定禅寺、と声に出せば彼は頷いた。確かに、こう見ると引き締まっている顔に見えなくもない。でも私は由花子のいう康一の魅力が分からなかった。
多分、今後も一生分からないと思う。彼が由花子の想い人というだけで、魅力なんて感じるわけがなかった。
「ありがとう。でも君、僕のこと嫌いなんじゃあ……」
「嫌いだよ。でも私は由花子の友人だから、由花子の笑顔が見たいし幸せでいてほしい。今の由花子を笑顔にできるて、幸せにできるのは、あんたしか思い当たらないから教えるだけ」
席に座り、不貞腐れたように窓側へと顔を向けて机の上に突っ伏した。これ以上彼の顔を見ていたくなかった。
さっさと帰って、という態度にも関わらず、彼は悪態一つつくことなく「ありがとう」と一言礼を言ってから私の席から立ち去った。
すぐにチャイムが鳴り響き、先生が教室へと入ってくる。イラつく気持ちを落ち着かせるように少し伸びたショートヘアを軽く掻きむしる。
鼻で息を吸い込むと、グスン、と間抜けな音が聞こえた。