私だけが慰めてあげられる

 放課後、部活に行く気分じゃなくて、私は適当な理由をつけてサボった。家に帰るとお母さんに不思議そうな顔をされたけど、特に理由は聞かれなかった。

 手を洗うために洗面所へと向かう。鏡に映った私は酷くくたびれた顔をしていた。由花子にもこんな表情してたのかな。努めて笑顔でいたつもりなんだけど。昇降口で、初恋のトキメキを心に秘めた由花子を見送るまで、ずっと。
 鏡に映る無造作なショートカットを軽く手で整えてから部屋に向かった。ベッドへと寝転がり、深呼吸をする。
 彼女は今頃、告白をしているんだろうか。

 由花子が恋の話をするのは意外というか、予想外だった。私はずっと、彼女に恋人なんて出来るはずがないと思っていたから。
 由花子は中学生の頃から男子にモテており、下駄箱や机の中にラブレターが入れられているのはもちろん、直接告白のために呼び出されることも多々あった。
 だけど、由花子はどの告白にも応じなかった。手紙は一枚も返さなかったし、むしろ読まずにすぐゴミ箱に破り捨てていた。声をかけられた時はすぐに「お断りします」なんて毅然とした態度でつっぱねていた。
 逆にそれが燃えるなんて勝手に興奮していた男子もいたけれど、由花子はそれを鬱陶しそうに扱っていた。

「男ってなんであんなに馬鹿なのかしら」

 いつかの昼休み、彼女はそうぼやいていた。あの時も窓の外に憂いた視線を向けていた。同級生はもちろん、先輩にも見初められて、告白されている由花子。
 そこそこ顔も良くて、評判も良い男子からも告白されているのに、彼女の心は誰へもなびかない。

「由花子の理想が高すぎるんじゃないの?」
「いいえ。この学校にいる男が馬鹿しかいないのよ」

 膝を組み直して、頬杖をついて、高貴な紫の瞳を私の方に向ける。呆れたように吐き出すため息も、なんとも色っぽく私には映った。

「由花子のお眼鏡にかなう人が現れるといいね」

 そんな人、いるわけが無いけれど。由花子は芯の通った性格をしている。悪く言えば、傲慢でワガママ。彼女を貶す意図はないけれど、彼女のワガママやお願いに付き合えるのは私しかいないと自負しているし、今もそうだと思っている。
 まあ、直接由花子にこんなこと言うと、絶対怒るから口にしないけどね。彼女の機嫌を損ねないように、私の気持ちがバレないように、思ってもいないことを口に出した。

「ごちそうさま。今日も美味しかったよ」

 手を合わせて彼女にお礼の言葉を伝える。しかし彼女は何も私に言葉を返さず、ただじっと私を見つめたまま。私の感情を見透かすような、汚れのない眼が眩しい。

「どうしたの」

 おーい、なんて声をかけながら、茶化すように彼女の前で手を振ったりしてみる。そうすると、彼女はやっと頬を緩ませて、なんでもない口調でこう言った。

「私、あなたが男の子だったら恋人になっても良かったかもしれないわ」

 その言葉は私に淡く甘く広がって、そして私の心に重くのしかかった。"男の子なら"。男の子、か……。
 お弁当箱を片付けながら、彼女は言葉を続けた。

「あなたは私のことをよく理解してくれているし、私もあなたのことをよく理解しているつもりだわ。いつか恋人を作るのだとしたら、そんな関係を築いていきたいの」

 それなら、私でいいじゃないか。思わず出かかった言葉をすんでのところで飲み込んだ。知らない男と一から関係を築いていくよりも、築き上げた友情を恋情へと昇格出来ないんだろうか。
 ああ、でも、私は女だから。恋には実らないのか。
 それなら、私は男になろう。由花子が望む男に。聡明で、彼女の強引な性格にも臆せず、彼女のことを一番理解してあげられる男に。
 彼女の隣にいたい。彼女の幸せを共にしたい。ただそれだけの感情に背を押されて、私はそう決心した。

 容姿を少し変えたところで、由花子が振り向いてくれるかどうかは分からない。所詮、気休めと言われればそれまで。
 だけど、少しでも望みがあるのなら、彼女に憧れて伸ばした髪の毛を切ることも、お気に入りのスカートを捨てることも、私には容易かった。
 まあ、その結果の今なんだけど。行き場のないやるせなさが溜まって、どうしようもない私は力なく枕を殴った。

 由花子は今頃、彼に告白をしているんだろうか。断られてしまえば良いのに、という気持ちと成功していれば良いという気持ちが渦巻いている。
 由花子に恋する一人の人間としての気持ちと、由花子の親友としての気持ち。どっちも私が望むもの。
 感情の渦に酔いそうで、目を瞑りベッドに体を預ける。夕飯になったらお母さんが起こしてくれるだろうし、気持ちを落ち着かせるために寝ようかな。
 そう考えて、睡魔が訪れるのを待っていた時だった。

ピンポーン

 インターホンが家に鳴り響く。宅配か何かだろう。きっとお母さんが出てくれる、そう思って私は体を動かさなかった。しかし、手が離せないのか玄関の扉が開けられる気配はない。

ピンポーン、ピンポーン

二回、間を置かず鳴らされる。もしかすると、

ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン

 インターホンが連打される。間違いない。由花子だ。由花子は気が短い。急いで聞いてほしいことがあるとき、彼女は私の家に突然来てインターホンを鳴らす。一度目で私かお母さんが出ればいいのだが、一度目で出ないと、由花子はすぐインターホンを連打する。
 弾き出されたようにベッドから降りて、部屋を出て階段を駆け下りる。お母さんは洗濯中だったみたい。

 玄関の扉を開けると、なだれ込むようにして由花子が抱きついてきた。

「うわっ! どうしたの……!」

 細い腰に腕を回して慌てて受け止める。由花子の表情は見えないけれど、啜り泣く声から彼女の感情は分かった。
 フラれたのか、はたまた嬉し涙か。どっちなんだろう。前者だったら、私はあの康一とかいう男を許さないだろう。こんな美しくて可憐な由花子の良さを分からないなんて。見る目がない。その上泣かせるなんて。

「どうしよう、私、康一くんに嫌われてしまったかも」
「何をしたの」

 ようやく落ち着いた由花子は顔を上げて口を開く。凛とした表情を弱々しく歪ませて、涙に濡れた瞳は今にでもこぼれ落ちてしまいそう。
 家の前を通る人たちの目が痛かったので、私は彼女を抱きしめたまま玄関の扉を閉めた。それに、こんな可愛らしい表情を他の人に見られたくはなかった。

「ドゥ・マゴで待ち合わせをして、康一くんに思いきって告白をしたの。でも彼ったら、恥ずかしがっているのか全然答えを言ってくれなくて……。それで私が、その、焦ってしまって……」

 話を聞く限り、彼女が逆上してしまったんだろう。さっきも言ったけど、彼女は気が短い。それに、曖昧な答えは嫌いだ。白黒ハッキリとした答えじゃないと、彼女は分かってくれない。
 目に見えてナヨナヨした男だと思っていたけれど、ここまでとは。彼女が焦ってしまうのも無理はない。由花子は勇気を出して告白したのに。その答えが曖昧なんじゃあ、ね。

「どうしよう、私、私……」
「大丈夫。大丈夫だから、落ち着いて」

 あやす様に背中を撫でてあげながら、私は言葉を考える。そんなハッキリしない男なんて由花子に合わないよ。私にしときなよ。そんな言葉を言える勇気は、私にはない。由花子の傷心に付け入って告白するのも、なんだか違うし。
 私は、由花子の前では良き友人でなければならない。彼女に恋情を向けていると知られれば、この関係が終わるかもしれないし。終わらなくても、少なくともこの関係が歪な形になることは容易に想像出来る。
 だから私は彼女の望む言葉をかけてあげる。それが、友人である私の役割だから。

「康一くん、だっけ。その子は由花子の告白を断ったわけじゃないんでしょう? きっと康一くんは、由花子みたいな可愛い女の子に告白されてびっくりしちゃったんだよ。拒絶の言葉が出ないのがその証拠」
「私、可愛くなんてないわ」
「可愛いよ。私が保証する。明日、康一くんに謝ればいいよ。由花子が反省しているのが分かったら、きっと彼も許してくれるから」

 許してくれるかは分からない。むしろそのまま嫌っていてくれとも思う。でも由花子が望む言葉はきっとこれだから。彼女を慰める言葉だけだから。
 由花子は人差し指で自分の涙を拭ってから、「そうね」と相槌を打った。良かった、泣き止んでくれた。彼女が泣いている姿はなるべく見たくない。

「ありがとう。あなたに話を聞いてもらえて、少しホッとしたわ」
「それなら良かった」

 安心したように微笑む彼女は、やっぱり美しかった。どうしたら、こんな美しい人に振り向いてもらえるんだろう。どうしたら、想いが通じ合えたのだろう。そんなこと考えても、もう遅いんだけど。

「明日、康一くんに謝るわ。そして、もう一度告白する」

 小さな両手をギュッと握りしめて、高らかに宣言する由花子。瞳にはもう、悲しみは残っていない。

「うん。応援してる」
「ありがとう。私、準備があるからもう帰るわね」

 離れようとする彼女に倣って、私も腰に回した腕を離す。玄関の扉を開けると、彼女は外へと歩き出した。

「また明日ね」

 彼女の言葉に相槌を打って、手を振る。見えなくなるまで、ずっと、ずうっと。彼女の歩き姿を見守る。
 ようやく見えなくなったところで玄関の扉を閉めると、部屋の奥からお母さんが顔を出した。表情は不服そうで、言いたいことはすぐに分かった。

「あなた、まだあの子と付き合ってたの?」
「だからなに」
「あの子感情の起伏が激しいでしょう。さっきもインターホンを何回も鳴らしていたし、心配なのよ」
「お母さん」

 あまりの下らなさにため息がでる。肺の中が空になってしまいそうなほど大きな。なんでいつもこう、私の交友関係に口を出してくるんだろう。それ以外は、良いお母さんなのにな。

「何回も言ってるでしょ。由花子の悪口言わないで」

 口から出た声は、咎めるように低かった。