山岸由花子は恋をした

 晴れたある日の休日。ふと、私は思いたって部屋の掃除をしていた。特に理由はなくて、まあなんとなくといった感じだ。
 掃除を始めてみると、隅々まで気になってしまって私はしばらく開けていなかった押し入れの整理もすることにした。開けてみるとほこりっぽく、思わず咳き込んでしまう。

 懐かしいけどこれはいらない、これはいる、これは用途が分からないからいらない。そう仕分けしていると、一つのビデオテープが見つかった。ビデオテープのメモ欄には、『お遊戯会「白雪姫」』とえんぴつで書かれている。当時は珍しかったビデオカメラを父親が奮発して購入し、記録してくれたものだろう。

 掃除を中断して、私は自室のビデオデッキへとテープを差し込む。ガチャガチャと音がしたあと、映像がテレビへと映し出された。
 先生が奥でピアノを弾いている。児童たちが元気に歌う。そして、その中央にいる白雪姫は山岸由花子だ。

 由花子と私は友人でありながら幼なじみでもある。幼稚園から小学校、中学校、そして高校も同じ所を受験して、今年の春に晴れてぶどうヶ丘高校の生徒となった。
 彼女に話しかけたのは私からだった。腰まで伸びた黒髪に整った容姿。出会った時、お姫様ってこういう女の子のことをいうんだ、とすぐさま悟ったことを覚えている。
 由花子とは十年以上の付き合いになるけれど、未だに彼女に伝えていない気持ちが一つだけある。
 それは、私が山岸由花子に恋をしているということ。

 想いを自覚したのはいつだっただろうか。もしかしたら出会った時、それか彼女に話しかけた時から、気付かぬうちに惹かれていたのかもしれない。
 彼女への想いを自覚したきっかけは、あのビデオの中のお遊戯会が発端だった。よくある幼稚園のお遊戯会。演目は「白雪姫」。当時から容姿端麗だった由花子は当然のごとく白雪姫役に選ばれた。

「じゃあ、王子様役をしたい人ー!」

 ホワイトボードに書かれた役名と児童の名前たち。白雪姫役の横に書かれた「ゆかこちゃん」という名前。その横には、彼女の名前の横には、私の名前を書いてほしい。いや、書かれるべきだ。
 幼心の中そう考えた私は、咄嗟に手を上げていた。三、四人の男児に交じって手を上げる私。それを前に困惑した表情の先生。

「えっと、あのね。この役はちょっと難しいかなあ」
「なんで?」
「なんでって言われても……。うーん……」

 私のもとに来て、目線を合わせるためにしゃがんだ先生は頭を捻る。どうして私じゃだめなんだろう。由花子の隣には私がいたいのに。
 その後なんて諭されたか、説得されたか、詳しい内容は今となっては思い出せないけど、一つ、先生が言った言葉は今でも覚えている。

「王子様役は、男の子じゃないとダメなんだよ」

 そう彼女は私に告げたのだ。

 結局私は王子様役に当然選ばれることなく、当てられた役割は七人の小人のうちの一人だった。セリフは少なく、控えめな役柄。
 劇の練習も、演じている時の心境も、朧気な記憶となってしまったけれど、はっきりと覚えていることが一つある。

 劇のクライマックス、目覚めた白雪姫である由花子と王子様役に選ばれた男児が結ばれるシーン。由花子の小さな手のひらに、男児の手が重なって互いに力を入れて握り合う。
 そのシーンが、幼い私にはとてもショックで、心がえぐられたような痛みをともなうほど。当時の私は、その心の痛みのワケを上手く理解出来ていなかったけれど、今なら分かる。
 それは、私が由花子に当時から恋をしていたから。他の男のもとに由花子が取られてしまいそうになっているのに、自分はその関係には何も口出し出来ない傍観者の「小人」であるのが悔しかったんだ。

「王子様役は、男の子じゃないとダメなんだよ」

 先生の言葉が、未だに刺さって抜けない。先生の言葉の意図は分かっている。王子様は男だから、演じるのは男の子が最適だと。決して、私と由花子が結ばれないという意味を含んでいるワケじゃないことくらい分かっている。
 けれど、どこかでその言葉を否定したくて。でも、それを完全に否定できる言葉も持ち合わせていなくて。複雑な感情が未だ心の中で渦巻いている。

 だって、十年以上の付き合いがあろうと、私はどこまでいっても傍観者の「小人」で彼女の「お友達」なんだから。



「こら、起きなさい」

 凛とした声に鼓膜を揺すられ、私の意識は浮上した。伏せていた顔を上げると、さっきまで教壇で授業をしていた先生の姿はなく、教室の緩んだ雰囲気から授業が終わったんだと察した。
 寝ちゃってたのか、私。

「居眠りなんて珍しいわね。部活忙しいの?」

 当然のごとく私の前の席に座り、机を引っつけてくる由花子。鞄から取り出した重箱を広げると、その中には色とりどりのおかずに主食としておにぎりが入っていた。どれもこれも、由花子お手製のもの。

「忙しいっていうか、昨日夜更かししたからそのせいだと思う」
「ダメよ、夜更かしなんて。お肌に悪いもの」

 私は自分のカバンから持参したお箸を取り出して、重箱の上をさ迷わせる。綺麗に巻かれた卵焼き、彩りを意識して敷かれたキャベツにプチトマト。得意料理の魚のムニエルも入っていて、マメな彼女のことだから今回もきっと骨は全部取ってくれているんだろう。
 迷った末、私は好物であるアスパラガスのベーコン巻きを一つ摘んで口に運ぶ。

「今日も美味しいね」

 咀嚼する度に旨みが広がって、その度に私の心の中も満たされていく。
 彼女はズボラな私に代わって昼食としてお弁当を作ってくれている。中学生の頃から、ずっと。私のためだけに。
 いや、彼女も食べるから私の分はついでなんだろうけど、それでもこのお弁当の半分以上は私のお腹の中に収まってしまうし、かなりの量を作らせている自覚はある。
 申し訳なく思っているけれど、彼女が尽くしてくれているみたいで、自分の中で優越感が生まれているのも事実だった。

 中学から運動部に所属した私は、食べる量が多くなった。お弁当だけでは満たされず、昼休みには食事はコンビニや学校の購買で手に入るパンを食べていた。由花子はそんな私をある日不健康だと言い放ち、その日から私にお弁当を作ってくれるようになった。
 最初は重箱じゃなく大きめのお弁当箱だった。けれど、ある日から、段々由花子のお弁当の量じゃ満足出来なくなっていった。空腹を満たすために、私が彼女に隠れて間食をしているのがバレて、その度に段々お弁当が大きくなり、最終的に今の重箱に落ち着いた。
 間食がバレた時の由花子は、思い出しただけでも恐ろしい。美人の怒った顔ほど怖いものはないし。それからは大人しく由花子の作ったお弁当だけでお腹を満たしている。
 どうしてもお腹がすいた時は、彼女に作ってもらったお手製のクッキーを食べている。

 これが普通の友情じゃないことくらい、自覚している。普通、友人に対してクッキーを作ってあげるにしても、お弁当を作ることは無い。それもこんなに多い量。クッキーも、バレンタインのようなイベント毎じゃあなくて、ほぼ毎日。傍から見たら異常だろう。同級生たちからかわれたことも何度かあったし。
 でも、私にとってはこれが普通で、当たり前で、ずっと変わらないことだと、そう思っていた。

「ねえ、聞いてくれない?」
「何を?」

 綺麗に握られたおにぎりへと手を伸ばそうとすると、由花子から声をかけられた。
由花子は視線を窓へと向けていて、何か思い悩んでいるように見える。その表情さえ美しく、私は思わず息を飲む。
 けれど、急に改まってどうしたんだろう。優秀な彼女のことだから、きっと成績や勉強のことではない。日々の生活でも、特に目立ったことはない。私と喧嘩もしていないし……。お母さんと喧嘩でもしたのかな。

「あのね、私……」

 ようやく私に向けられた視線はすぐに下へと逸らされる。言い淀んだ言葉の先がなんなのか、私はすぐに察した。
 憂いを帯びた瞳、少し染まった頬。まるで、恋する乙女のような表情。そっか、彼女も私と同じ気持ちなんだ。報われることのないと思っていた片想いが、両想いへと実っていく。

「なに? 早く言ってよ」

 早く由花子の口から想いを伝えてほしくて、私は彼女の言葉の続きを急かした。あまり他人には言えない関係かもしれない。自慢できる人は少ないかもしれない。
 でも、それでも良い。私には由花子だけがいればそれで嬉しいし、きっと由花子も私がいれば嬉しいから。
 弾む気持ちで再度おにぎりへと手を伸ばす。口に含むと、中身は昆布だった。

「私、好きな人が出来たの!」

 彼女の言葉に驚いて、咀嚼も忘れて口の中のおにぎりを飲み込んでしまった。
 好きな人? 私じゃなくて?
 由花子の開いた口は塞がらず、マシンガンのように言葉を連ねていく。

「隣のクラスの広瀬康一くんっていうの。小さくて可愛らしくて、見た目は少し頼りないんだけれど、でも彼の目が凄くいいのよ。他の男とは違う、瞳の奥にキラリと光る何かがあるっていうか……」

 彼女の言葉は途中から聞こえなかった。いや、聞きたくなかったのかもしれない。耳から彼女の声は聞こえるけれど、言葉として脳が受け付けない。
 そうか。由花子は私のことが好きじゃないんだ。でも当たり前のことだろう。同性同士で付き合うなんて、両想いになるなんて、そんな奇跡起きるわけがなかったんだ。それを勝手に期待して、恥ずかしい。
 恥ずかしさを誤魔化すために、私は由花子のおにぎりを頬張った。美味しいのに、しょっぱくて、苦しい。

「それでね、今日ドゥ・マゴで彼と待ち合わせをして、告白しようと思うの」

 手を組んで、まるで夢心地のように由花子は話す。手に持っていた最後のひと口を口に入れて、私はただ咀嚼していた。喉元に石が詰まったような感覚がして、上手く飲み込めるまでいつもより多く噛んでしまう。
 彼女の提案に何も返答しなかった私が気に食わなかったのか、由花子は声をワントーン低くして、悪魔のような言葉を囁く。

「応援してくれるでしょう? あなたは私の、たった一人の親友だもの」

 細められた紫の瞳に、私は逆らうことなんて出来るはずもなかった。

「もちろん。応援するよ」

 振り絞った声は上ずっていなかっただろうか。彼女はますます嬉しそうに口角を上げて、「ありがとう」なんて優しい言葉を私に発した。

 昼休みが終わる前に、彼女に連れられて私は隣のクラスの教室へと来ていた。一人じゃ恥ずかしいから一緒に来て、なんて言われて断ることなんて私には出来ない。
 由花子が話しかけている人物は、彼女の言う通りとても背の低い男子だった。由花子は彼に魅力があると感じているみたいだけど、私はなんとも思わない。むしろ、ナヨナヨしたような男に見える。こんな男のどこが良いんだろう。

「今日の放課後? 大丈夫ですけど……」
「じゃあ、放課後ドゥ・マゴに来てくれませんか? お話したいことがあるの」

 あまりの恥ずかしさに耐えられなくなったのか、そこまで言って由花子は走って自分の教室へと戻ってしまった。なんてウブなんだろう。可愛いなあ。
 取り残された私と、少し戸惑ったような顔をしている彼。

「あ、あの……」
「ちゃんと来なよ」

 見下ろして、わざとぶっきらぼうな口調で言う。由花子が彼をどう想っていようと、私には彼に優しくしてあげる義理なんてない。
 教室に戻ると由花子は自分の席に座っていた。赤らめた頬を両手で覆い隠している。後ろから近づいて肩をポンポンと叩く。

「応援してるからね」

 自分に言い聞かせるように、彼女が望む言葉をかけてあげる。彼女は顔を隠したまま、静かに頷いた。