君の声が聞きたいな

「ありがとうございました」

 オーソンの自動ドアを通り、僕はホテルへの道を歩いていた。生ぬるい風が頬を撫で、僕に夏の知らせを伝えてくれる。先月はそうでもなかったというのに、六月に入ってから気温が少しずつ上がり、じわりと額に汗が滲む日が増えた。
 日は沈み、辺りは真っ暗闇の夜だというのに気温は熱いまま。明日の朝ラジオから告げられる最高気温はまた上がっているのだろう。

 僕が杜王町に来て、そろそろ一ヶ月が過ぎようとしていた。あの旅の後、大学を進学し、流れるようにSPW財団へと財団員として就職した。SPW財団では財団の仕事もこなしつつ、幽波紋のことについて研究・調査を行っている。
 今年の春、承太郎が訪れた杜王町で急激に増えている幽波紋使いについての調査を行うために、それとジョースターさんの護衛も兼ねて僕も今年の五月からこの町に滞在することになった。
 僕の考えでは滞在は一ヶ月程度を想定していたのだが、そうではなかった。気づけば季節は一つ進み、夏にさしかかろうとしている。
 別に不満があるわけではない。承太郎の叔父にあたる仗助くんを含む学生のスタンド使い達と話し、違う視点から見た幽波紋への考え方が知れるし、スタンドの調査も順調に進んでいる。
 本当に仕事に対しては不満はない。

 しかし、僕には愛する人がいる。結婚してもう三年になる、僕の大切な奥さん。その愛しい奥さんにもう一ヶ月半以上会えていない。
 週に二度か三度、電話をして彼女の声は聞いているけれど、やはり会いたい。会って、触れて、彼女の存在を感じたい。
 そうは思っても、滞在している理由は仕事であり、重要な任務であることも理解している。以前にも一ヶ月程彼女を置いて海外に滞在したこともあるが、今回は国内なだけに余計に寂しさが募る。

 会おうと思えば会える距離にいるのに、会えないもどかしさが心の中に渦巻いている。しかし彼女を杜王町に連れて来るわけには行かない。危険すぎる。
 承太郎が杜王町へとやって来た時、彼は幾度か命を狙われた。承太郎自身に直接攻撃をするなら、彼の強さから簡単に敵のスタンド使いを返り討ちにすることが出来るだろう。しかし、身の回りの者が脅される、もしくは殺される可能性だってある。
 その矛先が僕に向いたとしても、僕は幽波紋使いだから敵を返り討ちにすることが出来る。ジョースターさんも衰えはしたが抵抗するくらいのことは出来るだろう。

 しかし、彼女は違う。彼女も幽波紋使いではあるのだが、戦闘向き幽波紋ではない。ジョースターさんの幽波紋も戦闘向きではないが、それでも操り敵を捕らえることが出来るのは戦闘の経験があるからだ。
 彼女は争いと程遠い平和の中で暮らしてきた。そんな彼女が幽波紋使いに狙われてしまって、もし彼女が危険な目にあったとしたら……。僕は、僕自身を許さないだろう。

 僕が彼女をこの杜王町に連れて来た時、彼女が脅しの道具に使われる可能性がないとは言いきれない。だから彼女をここには連れて来れない。

 一度、電話で彼女から「杜王町に行きたい」と提案されたことがある。
 彼女も僕と一緒で寂しかったんだろう。だが、彼女を危険な目に合わせるわけにはいかない。きちんと理由を説明して説得したけれど、彼女の声色はずっと寂しさを帯びたままだった。
 彼女を連れて来ても僕が守れば良い。そう言うのは簡単だが、杜王町に潜んでいる幽波紋使いの正確な人数、それと幽波紋能力が分からなければ、完璧に彼女を守ることは出来ない。
 それにジョースターさんの護衛や財団の調査もある。仕事をこなしつつ彼女を守るために神経を尖らせていれば、不意をつかれてどちらかが攻撃される危険性がある。
 リスクがある以上、彼女をここに連れて来る選択肢は僕にはない。

 正しい理屈と理由。頭で分かってはいるものの、やはり会えないのは寂しい。
 ため息を一つ吐きながら、書類や筆記具が入ったカバンを肩にかけ直す。ビニール袋を引っさげて、一人寂しく夜空に見守られながらホテルへと戻った。

 杜王グランドホテル。スイートルーム。325号室。荷物を起き、ベッドの枕元にあるラジオのスイッチを入れる。流れてくるのは今流行りのラブソング。そのBGMも相まって、僕の内なる感情は心を蝕むばかりであった。
 気分を変えようと思いシャワーを浴びても、テレビに目を向けても、心に空いた穴が埋まる気配はない。いつもなら、見て見ぬふりが出来るのに。
 時刻はもうすぐ日付を超えそうなのに、僕の意識はハッキリとしている。いつもならもう迎えに来ている眠気が今夜は全く来る気配がない。明日も仕事だというのに。

 最後の手段として、部屋に併設されている小さな冷蔵庫の扉に手をかける。中には数本の水と、先程気まぐれで購入した缶ビールが一本。あまり酒は強くない方だから普段は一切飲まないのだが、今夜ばかりは仕方がない。
 取り出したそれの蓋を開けると、カシュッという音と共にアルコール独特の匂いが鼻腔をくすぐる。口を付けると泡と共に飲み慣れない味が口内に広がった。
 不味いとは感じないが、そんなに美味しいとも感じない。だが、今日はなんだか飲まないと眠れない気がした。

 中身を半分ほど飲んだところで、ゆっくりと脳へとアルコールが回ってきたような感じがする。意識はぼんやりとして、先程まで一向に来る気配のなかった眠気が優しく僕を誘っている。
 しかし、寂しさは埋まらない。空いた穴は塞がらない。その穴を埋める唯一の方法を僕は知っているけれど、今は出来ない。
 彼女は今頃何をしているのだろうか。夜も更けているしきっと眠っているのかもしれない。それか、浮気をしていたりして。
 嫌な想像が駆け巡り、寝ぼけていた脳が再び覚醒する。いや、純真な彼女がそんな邪なことをするわけがない。否定したいが、今離れ離れにいる状況を考えると、彼女に魔が差している可能性は十分ある。
 君の薬指を縛っているのは僕だけど、それだけでは繋ぎ留めきれない。幸せな結婚生活を送っていると思うが、職業柄こうやって遠方へ向かうことは多々ある。そのことを彼女も理解してくれていると考えるのは彼女への甘えだろうか。

 不安を打ち消すために、僕はテーブルの上に置いてあったカバンの中を漁り手帳を取り出した。手帳を開き、カバーの中に挟んでいた一枚の写真を取り出し、もう一度缶に口を付ける。
 彼女だけが写っている写真。青い空と海を背景にして、満面の笑みをこちらに向けている。
 可愛くて、愛らしくて、愛おしい。
 指で彼女の輪郭をなぞると光沢紙のツルツルとした感触が指へと伝わる。写真は去年の夏に撮ったものだ。本人には恥ずかしいから消してと言われたけれど、彼女には内緒で印刷してこうして手帳に挟んでいる。
 仕事が忙しくて疲れが取れない日や、こうして寂しさを紛らわすために見るために手帳に挟んでいる。長期出張の時はもちろん、普段の仕事でも繁忙期の時に見て癒されている。一度仗助くん達に見つかって、冷やかされたこともあったけれど。

 本当に、何度見ても飽きなくて、何度見ても可愛らしい。僕の最高の奥さん。

 気づいた時には、僕は彼女の写真にキスを落としていた。ちょうど唇の辺り。唇に触れたのは、指に伝わった光沢紙の感触と同じで、彼女の柔らかい感触には程遠い。

「僕は一体何をやってるんだ……」

 あまりの気恥ずかしさで正気に戻ってしまった。紙切れ一枚を彼女に見立ててキスをしてしまうほど、僕は彼女が恋しいのか。
 だが、早く彼女似合いたいのは事実だ。早く彼女の待つ自宅に帰り、「ただいま」の言葉に「おかえり」と彼女の口から返してほしい。
 そして、写真ではなくて、本物の君とキスがしたい。

 こんな考えがすぐに浮かぶということは、相当酔っているんだろう。もう寝てしまおう、そう考えた僕は丁寧に写真を手帳のカバーの中へと戻す。缶の中に残っている少量のビールを一気に飲み干して、潰した缶をゴミ箱に捨てた。
 明日、彼女に電話してみようか。最近は電話をかけていなかったし、彼女も僕と同じ気持ちかもしれない。今日はもう遅いから、また明日。
 部屋の灯りを消し、ベッドへと身を預け、瞼を閉じようとした瞬間だった。枕元で充電していた携帯が鳴り響き、僕に着信を知らせる。こんな時間に、一体誰だ。

 落ちかけていた意識を浮上させ、画面を開くとそこには先程まで僕の思考に居座っていた愛しい人の名前が表示されていた。
 微睡んでいた視界も、ぼやけた思考も酔いも全て覚め彼女の名前だと認識した瞬間、僕は反射的に応答ボタンを押した。

「もしもし。……ああ、大丈夫だよ。僕もちょうど、君の声を聞きたいと思っていたところだから」