真夜中のツーリング

 あいつのいない冬はあっという間に過ぎていく。試験も冬休みも何事も無く終え、やがて三学期が始まる。
 あいつと出会わなくなってからここはこんなにもくだらねえ場所だったのかと改めて実感した。「空条」と呼ぶのは俺の気を立たせる先公達ばかり。あの落ち着いた少し低い声はどこに耳を済ませても聞こえることは無く、愛着の湧いてきたその呼び方もあいつに呼ばれなければ全く持ってなんの感情も湧かなかった。
 あの場所に行こうが会いたい人の姿は無く、可愛がってくれた上の奴らもいねえんじゃあここに来る意味は無いと考え、次第に足は遠ざかっていった。
 あいつと過ごすうちに忘れていた苛立ちが段々募っていき、俺はまた誰かにこの分からねえ感情をぶつける日々に戻っていた。
 この感情は、ただ歩いているだけで喧嘩を吹っかけて来る雑魚に対してなのか、おふくろや登下校中に絡んでくる鬱陶しい女どもに対してなのか、それとももう会えないであろうあいつに対して湧いてくるものなのか。未熟すぎる俺に答えなんざ分かるわけがなかった。

 二月に入り、教室ではチョコレートだなんだの甘味の話題が増えるようになった季節。俺はある夜、なかなか寝付けずに家を飛び出した。おふくろに心配はかけたくなかったから、ほんの数十分外を歩くだけのつもりだった。
 真冬の夜は冷え込む。厚手の上着を着て澄んだ寒空の下、俺は歩みを進めていた。別に行く宛てなんて無い。ただ気の向くままに歩いていると、後ろからバイクのエンジン音が聞こえてきた。
 バイクなんざ気にも止めずに行こうと思ったが、ホーン音が鳴り響く。真夜中というのに迷惑も考えずダセえホーン鳴らしやがって。足を止めてバイクの方を振り向くと、俺の方に向かって走って来やがる。逆光に加えヘルメットを被っているため顔はあまり見えなかった。まあ避けて走り去って行くだろうと再び足を進めようとしたが、バイクは俺の隣に停車した。
 俺に用があるのか。てっきり避けろという意味で鳴らされたホーンだと思ったんだが。いつか買った喧嘩の相手だろうか、と俺は少し身構えたがこの予想は大きく外れることになる。

「やっぱりお前か。空条」

 久しく聞いていなかった、望んでも聞けやしなかった声が俺にかけられ俺は思わず目を見開いた。ヘルメットのせいで顔は見えねぇがあいつであることには違いなかった。遠くの方から怒号が聞こえる。男の叫び声のような、なんとも煩わしい声だ。そんな声を気にも止めず彼女は俺に問いかける。

「一緒に来るか?」

 行き先は伝えられなかったが俺の答えは決まっていた。あまり間を置かずに頷けば乗れよとでも言うように顎で後ろを指す。跨ったあとしっかりと肩を掴めばバイクを勢い良く発進させた。

「おい、どこに行くんだ」

 少し声を張って聞いたつもりだったが、風をきる音で聞こえなかったのかそれとも聞こえないフリをしているのか分からんが、この問いに答えが帰ってくることは無かった。



 肌が切れるんじゃあねえかと思うほどの冷たい風が頬を貫く。季節に相応しくねぇ潮の匂いが鼻を掠めた。

「やっぱり寒かったか」

 ヘルメットを乱暴に地面に落とし、あいつは波に誘われるように暗闇の中へと進んでいく。俺は慌てて後を追いかけた。少しでも目を離せば暗闇に溶け込んで見失いそうで恐ろしかった。いつも頼もしく見える背が今日はなんだか弱々しい。
 砂に足を取られている俺とは裏腹に、まっすぐ慣れたように歩いて行くあいつ。靴に水が染み込んでいくのも気にせずそのまま海の浅瀬に躊躇無く入っていく。

「おい」
「これ以上進まないよ。安心しろ」

 ピスポケットから取り出した煙草に火を点けようとしているが、強い潮風によってライターの火はすぐに消えてしまう。しばらく奮闘していたがやがて諦めたように煙草を海の中へと落とした。
 よく見りゃあ俺より薄着で微かに肩を震わせ寒そうにしている。こいつが無計画な行動を起こすような奴じゃあねえことは分かっていた。何か訳があるんだろう。
 海の淵で躊躇していたのも馬鹿らしく思えて、俺も海の中へと入る。靴に入る砂も凍ってしまいそうなほど冷たい水温もどうでもよかった。小さい肩に上着を掛けて彼女の手首を掴む。

「上がれ。死んじまうぜ」

 振り返った彼女の瞳は潤んでいた。軽く手を引けば抵抗することも無く大人しく着いてきたんで、俺はバイクの近くまでこいつを連れ戻す。唇から白い息を漏らしている姿は、あまりにも俺の今まで見ていた姿からは程遠いものだった。

「何があった」

 俺が聞いても何も答えないこいつの姿に苛立ってくる。無意識に手首を掴んでいる手に力を入れてしまっていたのか、痛さから眉間に皺を寄せた。瞳には涙が溜まっており、一つ瞬きをすればこぼれ落ちそうな様子はあまりにも痛々しい。

「……別れたんだよ。彼氏と。」

 苦しそうに言葉を零し、同時に頬に涙が伝った。流れていく様を俺はただ見つめることしか出来ない。慰める言葉も見つからねえ不甲斐なさと、別れたことにどこか喜んでいる自分に嫌気が差して歯を食いしばった。

「浮気してたんだ……。あのクソ野郎ッ、好きだったのに」

 こぼれ落ちた水滴は石段を濡らし色濃く染めていく。嗚咽混じりに吐き出される言葉に怒りが込み上げた。こんな、こんなに素敵な女を。この俺が手に入れてしまいたい程愛しているこいつを手中に納めておいて、浮気なんざする野郎が許せなかった。
 しかしそんな怒りより今は目の前のこいつをどうにかして泣き止ませたい思いが強い。頬に手を伸ばし拭われる様子のなかった涙に触れると、潮風によって冷えた体温と、水滴の生温かさが指の中で混ざり合う。抵抗することも喜ぶこともせずただただ涙は溢れて止まる様子は無い。
 これ以上こんな姿を見たくなかった俺は腕を引いてこいつのことを抱きしめた。俺より華奢な体はすっぽりと俺の腕の中に収まり、後頭部に手を当てて胸元に頭を軽く押し付け頭を撫でてやる。ぐりぐりと自らも頭を押し付けてくる弱りきった仕草が愛おしく、俺は言うはずの無かった言葉を、思いの丈を不意に放ってしまった。

「俺にしとけよ」

 こぼれた言葉が俺の耳に届いた時、思わず自分でも息を呑む。今俺は何を言った。何を伝えてしまったんだ。先程まで傍で聞こえていた啜り泣く声はぴたりと止まっており、ただ波の音だけが辺りに響いている。腕の中にいるこいつは今何を思っているんだろうか。
 慌てて撤回の言葉を告げようと口を開いた時、新しく俺の耳に届いたのは聞き慣れた笑い声だった。表情は未だ泣いており、笑っている声も鼻声ではあるがいつものあの笑みを浮かべていた。

「お前、私のこと好きだったのか?」

 改めてこいつの口から言われると途端に羞恥心が勝ち、顔に体温が集まっていくのを感じる。こうなりゃもう自棄だと俺は再び口を開いた。

「ああ、好きだぜ。悪いかよ」

 開き直って気持ちを伝えればこいつは静かに笑った。細められた目元から溜まっていた涙が溢れる。再び拭ってやれば「ありがとう。」とお礼の言葉が返ってきた。

「でも、今のお前じゃあダメだな。私より強い男になってもらわないと」

 鼻声で紡がれた答えに俺はどこかホッとした。やっぱり、そうだよな。俺はこの人を越えられそうな気持ちなんて微塵もなかった。この空条承太郎がたった一人敵わない相手だと認識していた。しかしその強さに惹かれたのも事実であり、その強さのせいで俺がこいうの隣に相応しく無いというのも事実だった。

「私より強くなったら、付き合ってやるよ。」

 そう彼女は続けたが、それがこいつなりの俺を傷つけない「断る」という意味を含んだ言葉なんだと分かった。現に俺の背に回されない腕がこいつの気持ちを表しているんだろう。もう大丈夫だとでも言うように俺の胸を押し返し、ゆっくりと離れていく。まだ手の中に残る柔らかい髪の感触を忘れたくなくて俺は拳を握った。
 こいつの瞳は薄く充血し目元も腫れており見るのは痛々しいものだったが、その表情はどこかすっきりとしている。
 俺とあいつの間に冷たい風が流れ、忘れていた寒さを思い出し同じタイミングで肩を震わせる。あまりのタイミングの良さに彼女も俺も思わず笑みがこぼれた。
 これでいい。この人は俺の憧れの人のままでいい。