悪い子

 一限目の講義までまだ時間があった俺は大学の喫煙所へと向かう。イキるだけしか能が無さそうな派手髪の野郎を横目に俺は火を点けた。紫煙が部屋に舞い俺はただそれをぼんやりと眺める。
 少し前の俺ならこの派手髪をただムカつくからというくだらない理由で威嚇でもしたんだろうが、今はその気も起こらねぇ。俺も大人になったという事か。短い煙草を灰皿に落とし派手髪は出ていった。俺一人が残された喫煙所には、俺の煙草の匂いだけが立ち込める。
 この煙草を吸うと、思い出す女がいる。この匂いをほのかに纏わせて、校舎裏のたまり場であの人は俺に笑いかけて名を呼ぶ。「空条」と。



 俺に反抗心が芽生えたのは高校二年の頃だ。あの裕福で十分な家庭で育っておきながら何を反抗するのかと聞かれるかもしれねぇが、強いて言えば満ち足りていることが気に食わなかった。望めばなんでも与えられる。何処にでも連れ出してもらえる。充足すぎるあの家が当時はどこか窮屈に思えて仕方がなかった。
 まだピアスの穴も空けておらず、改造した学ランも身につけちゃあいねえ。ただただおふくろや身の回りの全てに苛立ち、当たり散らし、どうしても解消できねえ鬱憤ばかりを募らせていた。
 そんな時だった。あの人に出会ったのは。

 授業をフケたその日、俺はただ時間を潰す場所を探していた。別にアテがあるわけでもなくフラフラしていた時に見つけたのがあの人の溜まり場だ。校舎裏の少し奥まったところにあるその場所は不良たちのたまり場として有名だったが、その時の俺はどうにも好奇心を抑えられなかった。というよりかはそれにさえ苛立っていた。
 当時の俺はそこそこ喧嘩の場数も踏んで自分自身の強さに勘づいていたところだった。要は調子に乗ってたんだ。あの頃の俺は。
 皆が怯えて近寄らないが俺は違うと謎の自信と反抗心と共に俺はそこへと足を踏み入れる。嗅ぎなれねぇ紫煙が立ち込めるそこには如何にも不良という風貌をした男が二人。それに一人の女がいた。そして驚くべきことにその紫煙の主は女だった。
 「女」という存在はか弱く儚い存在で、守ってやらねえといけない生き物だと物心付いた時から根深く植えつけられていた俺にとってその光景は異常とも言える。

「なんだ、テメェ」

 男は二人とも俺を見上げて威嚇してきたが、女の方はただ煙を吐くだけで大して俺に興味なんざ無さそうだった。未だに威嚇し続ける男の声が煩わしく感じ、ひたすら無視をキメこんでいると片方の男が立ち上がる。俺の胸ぐらを掴み、無理やり視線を合わせた。

「おい!シカトこいてんじゃあねえぞ!」

 耳元で鼓膜でも破れんじゃあねぇかと言うほどの大声を挙げられた俺はすぐに頭がプッツンときた。上等だぜ。やってやる。そう拳に力を入れた時だった。

「騒がしいぞ。やめないか」

 凛とした威圧感のある声が響く。先程までこちらに興味も無さそうに煙草をふかしていた女がこちらを見上げて口を開いていた。

「ほっとけ」

 女の声といえばおふくろや登校中に鬱陶しく絡んでくる女どもの甲高く黄色い声しか聞き馴染みの無い俺にとって、その声音は特徴的だった。男は再び肺に煙を送り込んでいるそいつを見ると、渋々と言った様子で引き下がる。
 なんとなく勘づいていたがどうやらここの長はこいつらしい。再び女の隣に座った男を横目に俺は女の方に声をかけた。

「いいご身分だな。」
「もしかして、私に言ってるのか?」

 女はまた興味が無さそうな表情で俺を見上げる。その顔に傷なんてひとつも無く、その体躯からは強さの欠片も感じられねえ。どうせ大した力もねえくせに男どもに担ぎあげられて胡座をかいている存在なんだろう。
 そのクセに怯えてこいつの言いなりになっている男も、近寄らないクラスメイトも、嘲笑するように俺は鼻で笑った。

「別にテメェ、大して喧嘩なんざしてねぇんだろ。そのくせボスのようにお高くとまりやがって。テメェもこんな女に従って情けなくねえのか?」

 そう告げると男はまた聞くに絶えない威嚇の言葉を並べようとしたが、それを女が制した。吸い終わった煙草を踏みつけながら立ち上がった女の背丈は先程の男よりも小さい。こんな弱そうな女が俺に立ち向かおうとしている現状にもまた笑みが零れる。
 ちいせえ手のひらで目いっぱい俺の胸ぐらを引っ掴むと、女の力とは思えねえ力で自身へと引き寄せられた。油断していた俺はあっさりと体制を崩しそいつの面前に顔を突き出す形になり、どこまでも深い涅色の瞳と視線が交わる。
 先程までの涼し気な瞳とは裏腹に苛立ちを隠さずに俺を睨みつけ、口を開いた。

「歯ァ食いしばれよ。クソガキ」

 鈍い音が響き渡り頬に衝撃を感じた時、それが試合開始のゴングであるかのように俺は拳に力を入れた。



「痛てぇ……」
「動くなよ。じっとしてろ」

 あの後こいつ目掛けて奮った拳は容易く躱され、一度も命中することは無かった。喧嘩慣れしていねぇから怪我をしてないんじゃあねえ。強すぎて誰もこいつに指一本触れられねえんだ。
 彼女の頬を殴ろうと身をかがめた瞬間、側頭部に重い蹴りを入れられ俺は派手に倒れ込んみ見事に惨敗した。どうやらみっともないのは俺の方だったらしい。今から保健室に行くと教室に連れ戻されるから、という理由で今俺はこいつに手当されている状態だ。

「お前名前は?」
「……空条承太郎だ」

 答えるか一瞬迷ったが、別に減るもんじゃあねぇかと俺は名前を告げる。すると目を少し見開きふっと緊張が解けたかのように笑みを見せた。

「お前か。噂のジョジョって。うちの学年にもお前のファンがいるよ」

 そう言うと手際よく消毒を済ませてガーゼを貼り終えると包帯を巻き始める。一連の動作にはなんの迷いもなく手馴れていることが伺えた。横にいた男は二人で話し始めてこちらにはもう興味が無さそうだ。
 俺から毒気が抜かれたと知ると向こうも当然ながら無駄な喧嘩はしないらしい。

「はい終わり。もう喧嘩ふっかける相手間違えるなよ」

箱の中に包帯を戻し、元あった場所にそいつは箱を置いた。まるで隠すように。

「たまに先公に取られるからな」

 俺の横に座り直し先程と同じように煙草を咥えると手馴れた動作で火を点ける。煙草独特の匂いが広がり、吐き出された紫煙は空虚に消えていった。別に何をするでもねぇからその様子を黙って見つめているとこちらに視線は向けないまま女は俺に話しかける。

「あんまり見られると気まずい」
「女が吸うもんじゃねぇだろ」
「なら男のお前が吸ってみな」

 ほら。と俺の口元にそれを突き出した。戸惑いながらもそれを咥え見よう見まねで煙を吸い込む。が、あまりの不味さと不快感にすぐに噎せてしまった。
 コンクリートの床に呆気なく落ちた煙草なんざ目もくれず、笑いながら俺の背中をさする女を睨みつける。こいつ、分かっていて俺に吸わせたにちがいない。
 睨みつけたところで怯む訳もなく、先程まで二人の世界に閉じこもっていた男達も俺の様子を見ながら笑っていた。

「気分はどうだ?」

 喉を鳴らし笑い続ける女は俺に問いかけた。耳元ではシルバーボールのピアスが太陽に反射してギラりと嫌に光っている。落ちたまま、ただ煙を作り続けるだけのゴミと化したそれを踏みつけて俺は答えた。

「最悪だぜ」