I Love Youを贈らないで

 雨が降っている。
 ザーザーと雨が降る音、雨粒が屋根や窓に当たる音が、薄暗い寝室に響いている。昨日の天気予報では今年一番の大雨で、異常気象だとも騒がれていた。
 きっと外はバケツをひっくり返したような大粒の雨が降り注いでいるのだろう。そんな雨のせいで一気に冷え込んだ気温の中、私はベッドの縁に座って目の前の恋人と手を繋いでいる。

「典明、大丈夫?」

 声をかけるも返事はない。代わりに低い言葉にもならない唸り声が耳に届いた。
 私の恋人、花京院典明は十七歳の時に深い傷を負った。目元には薄らと真っ直ぐ一筋の傷跡が縦に刻まれている。その傷が痛々しいのは勿論だが、案ずるのはその傷ではない。
 典明のお腹には大きな傷がある。私の手のひら程の大きさをした古傷は、こういった大雨の日に彼を苦しめている。雨だからといって必ずしも彼の古傷が痛む訳では無い。年に一度か二度、今日みたいに雨の強い日、彼は決まってベッドの中で蹲って私の手を握るのだ。

「一旦離して。薬取ってくるから」
「いらない」
「でも、苦しそうだし」
「今はいい」

 私の手を握る力が増した。彼はどうしても私を引き止めたいみたいだ。ただほんの数秒、走れば三十秒程で取りに行ける距離だというのに典明はその数秒でさえ離れてほしくないらしい。
 むしろ彼はベッドの端へと身を寄せて空いたスペースに私を誘い込むように布団を少し持ち上げた。少し戸惑ったけれど、典明からの「早く」と言う声に急かされて私は空けられたスペースへと身を寄せる。
 濡れた瞳と目が合った。部屋の電気は付けていないけれど、窓から差し込んだ僅かな日光が彼の姿を照らす。薄暗い室内でも分かるくらい、彼の顔色は悪かった。
 未だ手は握ったままで、デートをする時にするような軽い力ではない。絶対に逃がすまいと少し力が込められている。お互いの手を通じて伝わる体温が今の私を安心させた。
 ザーザーと雨が降る音が聞こえる。雨粒が窓をノックして、私達の様子を伺っている。濡れた瞳は逸らされることなく私の目を見つめている。いつもは自信に溢れて光を目いっぱい取り込んでいる薄紫の瞳が今日は仄暗い。
 雨の音に耳を済ませていると、突然彼の声が私の名前を呼んだ。それと同時に、私の頬に彼の大きな手のひらが添えられる。驚くほどにその手は熱かった。

「好きだ」

 熱烈な告白から、キスの雨が降り始める。最初は額に、そして瞼、頬、鼻。人中にまで唇を押し当てられて唇同士のキスは焦らされてしまう。キスの合間に「好きだ」、「愛している」、と掠れた声で、まるでうわ言のように囁きながら彼は必死に私に伝えてくる。仄暗い瞳の奥には僅かに火が灯っていた。
 典明が古傷の痛みに悩まされている時、決まっていつも同じ行動をとる。私の手を繋いで、布団の中へと引き寄せて、愛の言葉を囁きながらキスを落とすのだ。何度も何度も。私が嫌だと抵抗しても、拒絶を示しても彼はその行為をやめない。彼の痛みが落ち着くまで、このキスの雨は止まないのだ。

「愛しているよ」
「んっ……」

 薄い唇がゆっくりと私の唇に押し当てられる。少し湿った私よりも一回りほど大きな唇を、何度も何度も押し当ててくる。呼吸する隙は与えてくれるけれど、大きく息を整える時間は与えてくれない。
 あまりにも情熱的な行動。きっと日々の生活の中でされたら照れて言葉も出なくなってしまうんたわろうけど、今の私は全く嬉しくなかった。
 こうやって私に愛を伝えてキスをするようになったのは典明と同棲を始めた後になる。実家にいる時は両親に愛を伝えていたのかもしれないけれど、一人暮らしの時はどうだったんだろう。ある日気になった私はそれとなく典明に聞いたことがあった。

「実家にいた時も一人暮らしをしていた時も、薬を飲んでただ痛みが過ぎ去るのを待っていたよ。別に両親に愛しているなんて小っ恥ずかしいことを言ったことはない。君にだけだ」
「じゃあ、なんで私には好きとか、愛してるとか言ったりキスをしたりするの?」

 そう聞くと、典明は考える素振りを見せた。私の頭を撫でながら首を少しだけ捻って考えている。説明が難しいのか、なかなか彼は口を開かなかった。

「どうしてだろう。でも、君を見ているとなんだか好きだと、愛しているんだと伝えなくちゃあいけないと思うんだ。頭の中で警鐘が鳴っている気がして衝動に身を任せてしまう。もしかしたら、」

 そこまで言うとピタリと上下に優しく動かしていた手を止めて、視線が真っ直ぐ私に向けられる。どこか悲しそうな、切なそうな表情をして典明は重苦しい口を開いた。

「この傷を負った時、僕が死を受け入れたからかもしれない。傷の痛みを感じる時、自然と僕の本能が死を受け入れて君に愛を残したいと訴えているのかも」

 “死を受けいれた”というワンフレーズが私の胸に突き刺さった。あまりにもショックだった。誰だってそうだろう。自分の大好きな相手が死ぬのは。それを受け入れてしまったのは。彼は、彼は自分の古傷の痛みに侵される度、死を覚悟してしまうのか。典明の口から告げられた憶測とも事実とも言えない言葉が私の心を酷く傷つけた。
 典明が簡単に死ぬ男だとは思っていない。彼の口から聞いただけの話になるけれど、かなりの重症を背負いつつも生還し、今も後遺症なく生活出来ているのは彼の持つ回復力と幽波紋という力のおかげだ。幽波紋というのは彼の生命エネルギーであり、自身の分身であり、守護霊のようなもの。
 そんな特殊能力を持ち、今もSPW財団という職場でその力を生かし頭角を現している彼が、簡単に死ぬなんて想像がつかない。
 けれど、彼も人間だ。死ぬ時は死んでしまう。そして死に近い経験を一度してしまったのだ。経験したことをもう一度行うことはきっと容易く、そして深く刻まれた死を彼は幾度となく思い出してしまうんだろう。
 不安になってその時は泣いてしまった。彼は慌てた様子でまた私の頭を撫でて、頬に伝っていく涙を拭う代わりに柔らかい舌で舐めとってくれた。
 左手の痛みにハッと意識が浮上する。痛みが強くなってきたのか、彼が私の左手を強く強く握っていた。額同士を合わせて更に近い距離に彼の端正な顔が近づいていた。
 彼が本気で私の手を握れば簡単に折れてしまうんだろう。折れていないということは、まだすんでのところで力を制御しているんだろうか。
 力強く握られた手のひらの中に生まれる熱は、一体どちらのものなんだろう。手のひらを通じて伝わってくる、ドクドクと強く脈打つ心臓の音はどちらのものなんだろう。それが私のものであるとしても、私は典明のものだと思い込んでいたかった。それが彼の生きている証明だから。この時ばかりは、彼の呼吸の音一つ、鼓動一つ聞き漏らすまいと耳を済ませてしまう。
 気のせいか、先程よりも雨の音が強くなった気がした。

「好き、好きなんだ。君のことが、」

 その先の言葉を聞きたくなくて、今度は自分から典明の唇に私の唇を押し付けた。今は愛の言葉を聞きたくない。それは彼が死を受け入れてしまった合図だと思えるから。彼にはまだ生きていてほしい。私のワガママだけど、生きてほしいと心から望んでいるから、彼の愛の言葉を受け取りたくはなかった。キスだって本当は嫌だけれど、彼を黙らせる方法がこれ以外思いつかない。
 彼の言葉が怖くて、もしこのまま痛みに耐えきれず本当に死んでしまったらと思うと恐ろしい。そんなことが現実にならないように、私は彼に「愛している」を返さない。返したくない。返してしまったら典明は満足して、事切れてしまいそうで怖かった。

 キツく結ばれた手は解かれて、今度は背に腕を回されて強く抱きしめられる。典明が死を受け入れたのなら、例え話ではあるけれど、このままその古傷の痛みで死んでしまうのなら、私は彼の胸の中に埋もれて死んでしまいたい。なんて馬鹿な考えを起こしてしまうくらいには、典明のことが好きだった。
 首筋に顔を埋められて、何度もそこへ口付けをされ愛の言葉を囁かれる。さっきみたいに唇を塞ごうとしても、彼の顔は完全に首筋へと密着していて出来なかった。「聞いてくれ」とでも言わんばかりに囁かれる愛の言葉が嬉しくて、悲しくて、感情がぐちゃぐちゃになってまた泣いてしまいそうだった。
 雨なんか嫌い。彼に死を思い出させる雨なんて、大嫌い。

「愛している。愛しているよ。心の底から」

 私も愛している。典明のことが大好きだよ。心の中で何度も何度も彼に向けて呟きながら、私は彼の痛みが過ぎ去っていくのを待った。少しでも落ち着けば、きっと彼は私が薬を取ってくるのを許可するだろう。そうすれば、彼の痛みはなくなるから。ただじっと、彼にされるがまま、彼の胸の中で私はその時を待っていた。
 三十分か、はたまた一時間か。雨の音は依然変わらないが彼の腕から伝わる力強さは、だんだん弱まりを見せていた。今なら大丈夫かもしれない。ゆるりと身を捩ると、察してくれたのか彼は私の拘束を解いた。

「すまない。薬を取ってきてくれないか?」
「もちろん。タオルも取ってくるね」

 傷から生まれた熱からか、布団の中で私を抱きしめたからか、彼の額には汗が滲み、ぴったりと特徴的な前髪がそこへ貼り付いていた。顔色も先程よりはマシになっているようで安心する。彼がこくりと頷くのを確認してから私はベッドの外へと出た。
 数歩歩いてドアへと手をかけて、キッチンへと向かうべくドアの外へ一歩踏み出す。ドアを閉める寸前、やっと私は彼に一言言葉を口から返してあげるのだ。

「私も愛してるよ。典明」

 ドアの隙間から、力なく微笑む典明が見えた。