甘いひと口

 ついこの間年を越したと思えば、勉学に励んでいるといつのまにか二月も中旬となっていた。二月の中旬といえば、恋人同士あるいは想い人にチョコレートを渡すイベントがやってくる。それは年々増えていく好きでもないチョコレートを貰い、甘味が好きな母に渡すというだけの僕には一切得のないイベントだった。
 しかし、今年からは違う。なんと言ったって、僕には可愛い恋人がいるのだから。
 見慣れぬリビング。履き慣れないスリッパ。中央に鎮座しているテレビは電源がついておらず、耳に入ってくるのは彼女が少し忙しなく動く生活音のみだ。

「なにか手伝おうか」
「いいの! 花京院くんは座ってて!」

 座ってじっとしたままなのも、なんだか申し訳ない。思わず声をかけるが、返ってきたのは断りの返事だった。参ったな。特にやることもないからどうにも手持ち無沙汰だ。
 そう思っていると、彼女がティーポットとティーカップを手にこちらに来てくれた。水色の花が散らされた模様のカップに、同じ模様のティーポットで紅茶を注いでくれる。濁り一つない綺麗なそれを注ぎ終えると、ふわりと良い香りが鼻腔を刺激した。

「もうすぐ出来るから、お茶でも飲んで待ってて」
「ああ。ありがとう」

 そう言い終えると同時に、オーブンからチンっと焼き上がりを知らせる音が響く。パタパタと急ぎ足で彼女はキッチンへと戻っていってしまった。実は、僕は今日彼女からなにを貰うのか聞いていない。丁度先週、十四日の放課後は空いているか、と聞かれただけでそれ以外はサプライズにしたいのかなにも教えてくれなかった。
 カップの持ち手をつまみ、一口紅茶を口に含むと心地よい甘さが広がる。彼女は紅茶を淹れるのも上手いんだな。紅茶の匂いとは別に鼻腔をくすぐるのは焼きあがった焼き菓子の香りだ。不思議なことにチョコレートの甘ったるい香りはしなかった。彼女が僕に贈ってくれるのはどうやらチョコレートではないらしい。
 一体なんだろう。楽しみで仕方がない。逸る気持ちを抑えつつ僕は彼女がこちらに来てくれるのを待った。

「おまたせ〜!」

 元気な声でそう告げて、彼女は僕の前に皿を置いた。その上に乗っているこれは、もしかして。

「これは、チェリーパイか?」
「当たり!」

 皿の上に乗っているのは切り分けられたチェリーパイだった。アメリカンチェリーを使っているのだろうか。ワイン色をしたたっぷりのチェリーが断面から覗いている。

「花京院くんチェリー好きだったでしょ?」

 向かいの椅子に座り、自分のカップに紅茶を注ぎながら問う彼女に僕は首肯で答えた。覚えてくれていたことが嬉しかった。
 チョコレートを予想していたが、まさか僕自身の好物を優先にしてくれていたとは……。彼女が僕のことを考えて作ってくれたんだという事実に胸が踊った。まだ一口も食べていないのに、彼女の純粋で真っ直ぐな気持ちが愛らしくて、僕は既に胸がいっぱいになっていた。

「食べないの?」

 彼女の不安そうな声でふっと意識が浮上する。嬉しさを噛み締めるあまり、ただただチェリーパイを眺めるだけになってしまっていたようだ。

「す、すまない。いただくよ」

 そう答えてフォークを手に取ろうとした時、僕の面前に果実ごと掬われたチェリーパイが差し出される。フォークは微かに震えていて、彼女の顔を見ると少し頬が赤く染まって緊張していることが安易に見て取れた。
 差し出されたチェリーパイは普段の僕の一口からは考えられないくらい小さかった。これは普段の彼女の一口なのか、それとも食べやすいようにとわざと小さめに掬ったのか。どちらの理由にしても、彼女らしい。
 彼女よりも薄く、そして大きな口を開けて僕は彼女のチェリーパイを口に含んだ。途端、チェリーの甘酸っぱさが口内に広がる。パイ生地のサクサクとした食感も良いアクセントとなっていて、お世辞抜きですごく美味しいと感じた。

「ど、どう?」

 未だ緊張した表情を崩さず彼女は僕に問いかける。僕はしばらく咀嚼して喉の奥へ、ゴクリと音をたてて胃の中へと落とす。

「美味しいよ。とっても。君はお菓子作りも得意なんだね」

 そう答えると、彼女はパッと花が咲いたように明るい表情を僕に向ける。本当に彼女は素直で純粋で分かりやすい。「よかった〜」なんて安堵の声を洩らして彼女もチェリーパイを口の中へと運んだ。僕の口の中へ差し出したフォークで。これは俗に言う関節キスだろう。彼女と付き合って歴が浅いわけでもないし、キスだって何度もしたことがある。けれど、こういうのはまだ照れくさいものが込み上げてきてなんだかくすぐったい。
 そんな感情を飲み込むように、僕は自分の皿に綺麗に盛り付けられたチェリーパイをフォークで崩す。さっき彼女が掬った大きさより一回りほど大きい一口を僕は口の中へ収めた。やはり美味しい。
 だが、不思議な感覚もする。食べてるものは一緒なんだ。さっき彼女が差し出してくれたのも、今自分の意思で口に運んだのも、どちらも同じ彼女の作ってくれたチェリーパイ。しかし前者のチェリーパイの方が甘い気がしたのはなぜだろう。まあきっと、彼女が食べさせてくれたというのが僕の味覚に影響したんだろうな。

「喜んでくれたなら良かった」
「好きな人からお菓子がもらえて、それが僕の好物だなんて。こんなの、喜ばない方がおかしいさ」

 僕はもう一口掬いとる。今度は小さめに。大きな一口で食べてしまえば、すぐに無くなってしまう。それがとても惜しい気がしてしょうがない。彼女の愛の詰まった甘い甘い一口を、出来るだけ長く味わうように僕は口の中にチェリーパイを運んだ。



「良かったら親御さんと食べて。冷めても美味しいと思うから」

 パイは二切れでは無くならない。ホールで焼かれたチェリーパイの残り三切れを彼女は丁寧に包んで僕に持たせてくれた。母さんと父さんと僕を合わせて丁度三切れ。

「ありがとう。大切にいただくよ」

 彼女からチェリーパイの入った紙袋を貰い、帰るために玄関口で靴を履く。彼女の傍を離れる瞬間はいつも心苦しい。門限という時間の縛りが早く無くなれば良いのにと望むが、時間は平等にすぎていってしまう。

「あ、あのね花京院くん」
「どうしたんだい?」

 僕を引き止める声に振り返ると、彼女の視線は僕の隣に置いていた紙袋に向けられていた。僕は今鞄を三つ持っている。一つは学校の制鞄。一つは彼女からさっき貰ったチェリーパイの入った紙袋。もう一つは、

「それ、食べるの?」

 たくさんのチョコレートが入った紙袋だ。本当は全て断る予定だった。昇降口や教室、移動教室の移動中なんかに僕に対面で渡そうとしてきたチョコレートは全て断った。しかし、靴箱や机、ロッカーの中に詰め込まれたものは持って帰ってきてしまった。このまま腐るのも嫌だし、捨てるのも勿体ないと思ってしまったからだ。

「いや、食べないよ。母さんが甘いものに目がなくてね。全部母さんにあげるんだ」

 しかし、僕はこのチョコレートを一切口にすることはしない。全て母に献上する。去年までの僕だったら、気が向いた時に少し摘んでいたが今年はそんなことはしない。誓って言える。今年は、否、今年からはこの日には彼女のくれた甘味以外一切食べない、と。

「そっか。そうだよね」

 安心したように頷いて、彼女は愛らしい笑みを浮かべる。やはり少し、彼女も妬くのだろうか。嫉妬している彼女も見てみたいが、そのためにチョコを食べるのはなんとも性格が悪い行いだろう。彼女を安心させるように、もう一度「食べないよ」と念押しするように伝えた。

「ホワイトデー、楽しみにしていてほしい」
「ふふっ。期待してるね」
「それじゃあ、また明日」

 当たり前で、それでいて幸福な約束を結んで僕は彼女の家を後にする。扉が閉まりきるまで小さくてを振ってくれていて可愛かったなあ。なんて甘い余韻を感じながら、そう遠くない家までの帰路を歩く。
 このチェリーパイ、いつ食べ終わるのが正解なんだろうか。手作りだから日持ちしないのは想像に難くない。だが急いで食べてしまうのはとても惜しい。右手に持ったチョコレートなんかよりも、僕は彼女のくれたチェリーパイをどう消費しようかで頭の中が埋め尽くされていた。

 バレンタインデーというイベントを楽しみたいがために、恋人のいる僕に渡された軽い気持ちだけが入ったチョコレート。それよりも、僕のためだけに頭を悩ませて、時間を割いて作ってくれた彼女の愛情が詰まったチェリーパイの方が僕にとっては重要なのだ。
 彼女は両親と一緒に食べてくれ、と渡してくれたが父さんにも母さんにも僕はこれを一切渡す気はない。一切れはおろか、一口も、一欠片だって渡したくない。
 彼女の愛情は、この僕の胃の中に収まるのがふさわしいのだから。