Midnight Blue

 将来の話をされると、殺害予告をされているような気分に陥る。
 進路希望調査に折り目を付けながら、私はそう思った。第一志望なんて文字と大きな枠組みだけが書かれた紙。それ以外は何も書かれていないし、私も何も記入していない。記憶を頼りに折っていた紙は、頭の中に描いていた紙飛行機となって完成する。指先を動かしてそれを飛ばせば、1mと飛ばずに墜落してしまった。
 隣に座っている幼なじみはタバコに火を点けようとしている。そんな彼を横目に私は紙飛行機を拾いに腰を上げた。

「承太郎は書けたの?」

 書けてないだろ。こんな不良のレッテルに塗れた男が将来の計画なんて立てているはずがない。そう謎の確信を持ってかけた質問だったけれど、彼の表情は揺るがない。彼は煙を吐き出しながらポケットに入っている手帳を取り出す。そこに挟まった一枚の紙を無言で差し出してきた。
 それに目を通すと、私は唖然としてしまった。書かれているんだ。枠内に全て。第一志望から第三志望まで。思わず承太郎と進路希望調査を交互に見てしまう。彼の口角は僅かに上がっていて、余裕そうな視線は私を馬鹿にしているのが伺えた。

「裏切り者」
「言いがかりだな」

 彼は私の手から紙を奪い取るとまた手帳へと挟んだ。承太郎でさえ将来の出来事が決まっているんだとますます落ち込んでしまった。紙飛行機に変身させた紙を広げれば、白い進路希望調査が顔を見せる。屋上から見えるこの空はどこまでも広い。広すぎるから、私は道を見失っているんだ。これからの未来に、不安しかない。
 大きくため息をついて、彼の隣へと私は腰掛けた。そろそろ大学を決めないと本当にやばい。のらりくらりと生きてきたから、やりたいことなんて分からないよ……。もう一度ため息をつき、私は肩を落とした。

「ジョースター家は、」

 ふと彼が口を開いた。吐き出されたものは煙草の煙か、寒さのせいで白く色付いた吐息かは分からない。涼し気な翠眼を見つめながら私は次の言葉を待った。

「代々一人の女しか愛さねえんだぜ」
「それと私の進路に何が関係あるの」

 言われた言葉はあまりにも唐突で、なんの脈略がないものだった。呆れ気味に答えるけれど彼からの言葉は何もない。なんなんだまったく。

「やれやれだぜ」

 帽子を深く被り、彼はお決まりのセリフをぼやく。咥えている煙草は既に短くなっていた。



 今思えば、彼はあの頃から私のことが好きだったんだろう。代々一人の女しか愛さないなんてクサいセリフ、後にも先にも言われたのはあの一回きりだ。大学進学を機に幼なじみという関係は恋人関係へと変化した。
 付き合った当初は変化したのは関係性の名前だけだと感じていたのに、気付けば二人で部屋を借りて住むようになっていた。「好き」だとか「愛してる」とか恋人らしい言葉をくれることは滅多にないけれど、彼の行動一つ一つに優しさを感じていた。
 そんな感じで数年恋人関係を続けていたけれど、とうとうこの関係性にも終わりがやって来た。

「結婚してくれ」

 特別なディナーも無し。真っ赤なバラの花束も無し。ましてや外でもなんでもなく、彼は我が家のリビングで、使い古されたソファに腰掛けながら私に告げたのだ。ムードもなにもあったもんじゃあない。それに、さっきまで一緒にテレビを観て談笑していたじゃなあないか。

「っ……」

 普通なら涙して頷くところなんだろうけど、私はすぐに答えられなかった。揺るがない翠眼。昔から変わらない真剣な目付きが、彼の決意を物語っている。私は彼と同じ覚悟を持って答えを告げられるのだろうか。そう考えてしまうと、言葉なんて出なかった。

「返事はいつでもいい」

 そう言うと彼は立ち上がり、リビングの扉に手をかけた。きっと寝室に行くんだろう。

「ごめん、承太郎」

 扉が開いた瞬間、咄嗟に口から出た言葉は謝罪の言葉だった。彼の足が止まる。振り返った彼の表情は読み取れない。

「それが答えか?」
「違う!」

 断るつもりはない。私は答えられない自分の不甲斐なさに謝っただけだ。彼の言葉を即座に否定すれば、彼は僅かに口角を上げる。

「ならいい」

 彼はどこか満足気にそう言うとリビングを後にした。しばらくそのまま立っていたけれど、やがて気の抜けたようにソファへと腰掛けた。僅かに残ったコーヒー。なんだか一気に飲みきれなくて、ちびちびと口に含む。
 彼と結婚したくないわけじゃあない。恋人関係の行き着く場所は婚約関係だ。そこに私たちも辿り着くんだろうなとなんとなく自覚していたし、それを楽しみにしている節もあった。
 でも、いざ目の前に選択を突きつけられるとどうも頷くことが出来なかった。だって、私たち大学生だし。卒論もまだ終わりそうにない。いきなり未来のことを突きつけられるのは、いつになっても苦手だ。
 最後の一口を飲みきって、コップをシンクへと置いた。洗うのは明日にしよう。私も寝室へ向かうべくリビングの扉を開けた。音を立てないように寝室の扉を開けると、承太郎はこちらに背を向ける形で横になっている。規則正しい呼吸音が聞こえるから、きっと眠ってしまったんだろう。
 彼の方を向いて眠るのもなんだか気まずくて、私も彼へ背を向けるようにしてベッドの中へと潜り込む。明日は予定なにかあったかな。なんて頭の隅で考えながらうつらうつらと船を漕ぎ始めた時。背後から布の擦れる音がした。起きていたのかそれか寝返りか分からないけれど、特に気にすることもないだろう。そう思っていた。
 しかし背中に触れられる感覚がして沈みかけていた意識が浮上する。腰に片腕が緩く回されて、抱き締められていることは容易に察することが出来た。
 本当に、愛されてるな。
 優しい温もりに包まれながら、明日こそ答えを言うのだと決意をして眠りに落ちた。



 あの日の決意は、承太郎の顔を見ると簡単に揺らいでしまう。承太郎は気にしていないように振る舞うけれど、きっと答えが聞きたいはずだ。ズルズルと過ごし、気付けば一週間ほど答えを遅らせていた。
 やってきた週末、二人でソファに座りあの日のようにコーヒーを飲んでいる。テレビに映っているのは映画番組。お互い興味もない、胃もたれしそうな甘いラブロマンス。興味がないから話題も出てこない。私か彼がコーヒーを飲む音だけが私達の間に響く。

「なあ」

 沈黙を破ったのは承太郎だった。

「そろそろ答えは決まったか」

 その問いに思わず肩が跳ねる。彼に聞きたい答えなんて一つに決まっている。何も気にしていないように見えて、焦れていたんだろう。頷くことも首を振ることも出来ず、気を紛らわすように私はコーヒーを口に含んだ。

「何が不安だ」

 不安な点なんて、挙げればキリがない。私達はまだ大学生。就職先は決まったけれどそれ以上の未来なんて、今は想像できない。
 それに承太郎の、いやジョースター家というのは血統を重んじている。私にだって、その血統を残す役割がある。承太郎やホリィさんからそれを強いられるような発言をされたわけじゃあないけど、彼の星型の痣を見る度に重圧を感じてしまう。

「不安は、いっぱいあるよ」

 未来なんて分からない。私に予知能力はない。時計の針を進めることも、時を止めて考えることも出来ない。不確定な未来を彼と誓い合えるのか不安しかない。
承太郎もそれを承知で言ってくれているのに、私はなんでこんなにも弱いんだろう。喉に石が詰まったような感覚。気を抜いたら泣いてしまいそう。

「私たち大学生だし」
「いずれは結婚するんだ。早い方が良いだろう」

「仕事とかもまだ分からないし」
「合わなければ辞めればいい。お前一人くらい養える」

「子供だって産めるか分からないよ」
「お前が産みたくないなら産まなくていい。俺も、誰も、お前に強いることはしない」

 不安を一つ口にすると、彼は狼狽えもせず淡々と返してくる。翠眼は揺らがない。いつものように帽子も被っていないから、何にも遮られず真っ直ぐな視線を向けられている。

「お前は昔から未来を怖がるクセがあるな」
「未来なんて分からないもん。怖いよ」

 テレビの中のラブストーリーは結末を迎えそう。承太郎の視線に耐えきれなくて、今の真剣なムードが少し怖くて、私はそちらへと意識を移した。テレビのスピーカーからはアイラブユーなんて軽くて重い言葉が聞こえる。

「一つだけ分かることがあるだろ」

 意識を引き戻すように、彼の分厚い手のひらが私の手を握る。指を絡めて、まるで逃がさないとでも言うように。

「俺はお前の隣にいる。それだけじゃあまだ不安か?」

 ジョースター家は代々一人の女しか愛さない。いつの日か承太郎に言われた言葉を思い出す。承太郎が隣にいてくれる。それほど心強いことはない。けれど、

「家も仕事も関係ねえ。俺はお前の隣にずっといたい。だから、俺はお前と結婚したいんだ」

 承太郎にしては素直で、それでいて熱烈なプロポーズだった。簡素な言葉じゃあなくて、愛に塗れた優しい言葉。私が気づいていないだけで、きっと彼なりに色々考えてくれた結果の言葉なんだろう。

「だが、大事なのはお前の意思だ」

 握られている手に僅かに力が入る。

「お前はどうしたい」

 彼の言葉で将来の不安が完全に拭えたわけじゃあない。けれど、決断に重要なのはそうじゃあなくて、未来の不安より、未来にどうしていたいかが大事なんだ。きっとそう。

「私は、承太郎と一緒にいたい。この先もずっと」

 言い終わらないうちに、繋いだ手を引かれて承太郎の胸へと引き寄せられていた。いきなりのことに驚く暇もなく、頭上から声が降ってくる。

「もう一度だけ言う」

 顔を上げるとそこには大好きな顔があった。あの時と同じ真剣な瞳で、いつもみたいな無表情で。でも、どこか視線は温かくて。

「結婚してくれるか」

 揺らぐ気持ちはもうどこにもない。きっと彼と一緒なら大丈夫だ。考えてみれば、これまでもそうだった。深い深い底の見えない夜空のような深海のような未来も、一等星の輝きが導いてくれる。これからも、ずっと。

「喜んで」

 涙声で答えれば、彼の口角がほんの少し上がる。繋がれた手はそのままに髪の毛を乱すように豪快に頭を撫でられる。きっと照れ隠しだろう。ポロポロと落ちた雫が乱された髪の毛を濡らす。

「泣くなよ」
「泣くよ。嬉しいんだもん」

 泣きながら笑えば、彼はいつもの口癖でも言いそうな呆れた表情を浮かべる。けれどその目元はいつもより細められていた。

「好きだよ。承太郎」

 そう伝えると、彼は言葉の代わりに顔を近付けてきた。目を瞑り熱を受け入れる。触れた柔らかい温もりが、この事実に現実味を強める。熱に浮かれて、溺れて、これから訪れる未来に胸を高鳴らせた。
 私たちの未来は、きっと明るい。