花京院典明はキスがしたい

 花京院典明は思った。──キスがしたい、と。

 隣でひたすら今日の出来事を話す彼女の口元をじっと見ながら僕は考えていた。彼女と付き合って約数ヶ月。今のように手を繋ぎながら下校したり、たまには寄り道をしてみたり。お互いの家に遊びに行ったり、休日には出かけてデートと洒落こんだり。恋人らしいことを日に日に積み重ねてきた僕達だったが、キスというものは未だ未知の行為だった。

「花京院くん?どうしたの?」

 ぼうっとしていたのか、不思議そうな表情で僕に問いかけてくれる彼女。慌ててなんでもないと首を横に振ったけれど、僕の頭の中は依然として変わらない。
 彼女にどうキスしようかという考えで、思考は埋め尽くされていた。この柔らかい唇に触れる権利を僕は持ち合わせているけれど、彼女は触れてほしいと望んでいないのではないかと、不安ばかりが募る。
 しかし日々彼女からも愛を感じる今、断られるなんてことは無いだろうとすぐに思考を打ち消す。僕が案じているのは、きっとそれでは無い。
 彼女の前では余裕のある男でありたかった。いつの日か、巷で話題のラブストーリーを描いたドラマの男をそう褒めていたからだ。自身の冷静さを欠くという、なんとも格好のつかない醜態を、僕は晒したくは無かった。そんなところを見せてしまえば、幻滅されるだろうし、がっつくような男を彼女がどう思うかなんて、目に見えて分かった。
 空気も冷え込み、吐息は白く色づくような季節。乾燥しやすい時期となったのにも関わらず、彼女の薄い桜色をした唇は、未だ柔らかさを保っているように見える。何度かその柔らかそうな感触を想像してみたりもしたが、きっとどれも違うのだろうと自身の邪な打ち消した。
 己の中に燻る感情を振り払うように、頭を左右に振る。そんな僕の奇行を不思議そうに見つめていた彼女はくすりと笑った。

「本当に大丈夫?なんか難しい顔してたよ」
「あぁ、すまない。少し考え事をしていてね」
「そんなに悩んでるなんて珍しいね。なにか、力になれることはある?」

すぐにチャンスだと僕は察した。半ば強引で不自然ではあったが、一度昂った気持ちを抑えることは出来ない。次に口から飛び出た言葉は彼女を家に誘う言葉だった。とにかく今は二人きりになりたいという本能だけで口を動かした。



 少し緊張した面持ちで靴を脱ぐ彼女に、僕は密かに微笑んでいた。
 家に彼女を招くのは初めてでは無いが、片手で数えられるくらいの回数しか誘っていない。彼女が緊張するのも無理はないが、なかなか見られない表情を目にできたことに満足感を感じていた。
 しかし、僕自身も緊張している。なんていったって、今からキスをするのだ。恋人の代名詞ともいえるキスを。誓いの行為として用いられるキスを。

 彼女のあの唇に、僕の唇が重なるのだ。

 そう考えただけで、背中を擽られるような恥ずかしさと今にも頬が緩んでしまいそうな幸福感が巡る。今から起こそうとしていることに、期待で胸が膨らんだ。
 彼女を部屋に招き入れ、いつもは床に座るところを、僕は率先してベッドへと腰をかけた。彼女は少し迷った後、隣に腰かける。二人分の体重がかかったベッドはギシリと音を立て、より僕の緊張感を煽った。

「その、悩んでることなんだが」

 彼女が鈍感では無いことを僕は知っていた。俯いた顔から僅かに覗く頬はゆでダコのように赤く染まっていて、それがより今から行われる行為に現実味を増す。

「君と、キスがしたいと思って」

 彼女の肩が小さく跳ねたのを、僕は見逃さなかった。拳一つ分空いていた距離を詰め、膝に置かれていた手を優しく握る。おずおずと顔を上げる彼女の頬に手を添えて、顔を近付ける。緊張からかそれとも少しの怯えからか彼女はきゅっ、と強く唇を結んだ。瞳は潤んでいて、宝石をはめ込んだかのようにキラキラと光っている。

「いいかな?」

 そう聞くと、首を縦に振るでもなにか返事をよこすわけでもなく、彼女は目を閉じる。その行為を肯定と捉えた僕は更に顔を近付ける。
 彼女の長いまつ毛が、僕の瞳を掠めそうなほど近い距離。
 キツく結ばれた唇を解くように、親指の腹で優しく唇を撫でるとピクリとまた肩が跳ねて、ゆっくりと唇にこめられた力が緩んでいく。うるさいくらいの心臓の高鳴りも、今意を決して唾液を飲み込んだ音も彼女に聞こえていないことを願いながら、僕も目を閉じる。
 彼女の唇に、僕の唇を重ねた。
 触れた柔らかさは何物にも形容しがたく、心の底から湧き上がる幸福もこれまで一度として味わったことの無いものだった。
 彼女の唇から伝わる温かい体温も、彼女の口から洩れる甘い声も一度では堪能しきれなくて、すぐに離した唇をもう一度重ねる。
 一度体験してしまえば、二度目を行うことは容易い。
 何度も何度も、角度を変えて唇を重ねる。時折吸い付けば、リップ音が部屋の中に小さく響く。もう一度、あと一度だけ。そう思いながら何度も何度も、数え切れないほど口付けを交わす。頭の芯が痺れ、思考がぼやけていく感覚に溺れそうだ。
 しかし、幸せの時間は長くは続かない。胸元を強く押され、強制的に僕は彼女から離れる。少し荒い呼吸をしながら先程よりも真っ赤な顔をして僕を睨んでいる。

「も、もうおしまい!」

 そう言いながら、彼女はぷいっと顔を背けてしまった。マズい。がっつきすぎてしまっただろうか。もしかして嫌われたんじゃあないかと焦燥感が襲う。

「すまない。嫌だったかい?」
「い、嫌じゃなかったけど……」


 耳まで赤くして視線を泳がせる彼女に僕はホッとする。どうやら不快にさせたわけじゃあないようで、恥ずかしがっているだけみたいだ。そんな表情もとても可愛らしくて、僕の欲を煽るには十分だった。

「ねえ、最後にもう一度だけさせてくれないか?」
「やだ!おしまいったらおしまい!」
「そんなこと言わないで。もう一度だけでいいんだ。ね?」

 両手を包み込み、懇願するような口調で彼女に問いかける。突然終えられた行為に、未練がましく縋るなんてみっともない真似をしているのは重々承知だ。しかし、彼女も本気で嫌がっているわけでは無いと確証があった。

「ほんとに一回だけ?」
「ああ、約束するよ」

 親指で手の甲を撫でながら約束を交わす。根負けしたようにうなだれ、唇を尖らせる彼女。

「一回だけなら、いいよ」

 彼女が言い終わるか言い終わらないかのうちに、もう一度キスをする。しかし触れた途端に欲は留まることを知らず、また幾度となくキスの雨を降らせた。

 上辺だけの約束なんて、守れるはずがない。彼女も本気で嫌というわけでは無いのだから。