暑さの続く恋

「あ、破けちゃった」

 穴が空いたポイを覗き込みながら残念そうな表情を浮かべる彼女。そんな横顔を見つめながら僕はどこか半分放心状態だった。水色に色とりどりの花びらが散りばめられた浴衣を身にまとった彼女は、この祭りの会場の中で一番可愛いと思う。
 普段下ろされたままの髪の毛は綺麗にお団子にまとめられ、簪の揺れる飾りに無意識に目が奪われる。耳やうなじが無防備に晒されており、普段見えないそこに何かそそられるものがあった。

「花京院くん、行こっか。」

 ああ、こんなことなら僕も浴衣を着ればよかった。母さんは提案してくれていたけれど、僕だけ着て浮かれ気分を彼女に悟られてしまうのがなんだか小っ恥ずかしくて断ったことを今になって後悔している。

「花京院くん?」

 だって彼女がこんなに可愛い浴衣姿だとは思わなかったんだ。この柄の浴衣がこの世で一番似合うのはきっと、いや、間違いなく彼女だろう。

「花京院くん!」

 彼女の少し張られた声に意識が浮上する。はっきりとした視界の中、写るのは不思議そうな顔をした彼女。

「え…、なんだい?」
「さっきから呼んでるのに。大丈夫? もしかして体調悪い?」
「いや、なんでもないんだ」

 破けてしまったポイと、水だけが入ったボウルを屋台のおじさんに返し立ち上がる彼女。僕も彼女の横に立ち、あてもなくまた屋台が並ぶ通りを進んで行く。今日は地元のお祭りに来ていた。もう少し時間が経てば小規模ではあるが花火も上がる。
 そんな夏の風物詩であるこのお祭りに大好きな彼女を誘った。大好きだと言っても僕が一方的に好きという感情を募らせているだけであって、別に恋人ではない。僕らの関係はただのクラスメイト。仲の良い友人でも無くて、ただ教室内で時たま会話をするだけの関係。それ以上でもそれ以下でも無いのに、突然のお祭りの誘いに乗ってくれた彼女は女神と例えるのに相応しいだろう。

「花京院くん。なんで今日私のこと誘ってくれたの?」

 そんな事を考えていると、突然すぎる彼女の質問が飛んでくる。理由なんて君が好きだからに決まっているのだけれど、そんなこと言えるわけが無い。少し視線を下げると僕を見上げ、自然と上目遣いな彼女と目が合う。提灯や屋台の柔らかい光を取り込んだ彼女の瞳が、確かに僕の顔を捕らえていた。

「えっと…、暇そうなのが君だけだったから…?」

 しどろもどろになりながら彼女に告げた答えはあまりにもふざけた回答だった。僕はバカなのか?もっと気の利いた言い訳くらい出来るはずだ。緊張と焦りが相まってなんだか変なことを言ってしまった。彼女は少し寂しそうな笑みを浮かべて僕から視線を逸らしてしまった。

 どうしよう。とても気まずい。いや、こういう状況になってしまったのは僕のせいだ。なんとかしてこの雰囲気を良いものに変えなければ!

「あ、あそこでわたがしが売ってありますよ。買いませんか?」

 ふと視界に入った黄色いのれんに大きく「わたがし」と書かれた屋台を指さして彼女に問いかける。同じ方向に目を向けた彼女は微笑んで頷いてくれた。

「らっしゃい! お二人さんカップル? おアツいねえ!」

 僕らを見るなりそう言う店主の言葉に、僕は何も返せなかった。だってカップルではないのに肯定だって出来ないし、否定したら彼女のことが好きではないと反対の感情が彼女に伝わってしまうかもしれない。隣にいる彼女も戸惑ったような表情で言葉を濁している。

「いや、その……」
「いいなあ。俺にも昔そういう時期があったもんだよ」

 しみじみと顎に手を当てる店主を他所に僕は慌ててわたがしを二つ注文する。大きい入道雲のようなふわふわのわたがしを店主から受け取り、一本彼女に渡した。

「あ、待ってね。お財布出すから」
「いりませんよ。僕の奢りです」

 慌てて巾着から財布を出そうとする彼女を制して半ば無理矢理わたがしを握らせた。申し訳なさそうに笑う彼女に微笑み返して屋台から離れる。
 横に並んで歩く彼女の口で溶かされるわたがしを見ながら羨ましいと思った。あの柔らかい唇に、あの厚そうな舌に挟まれて溶かされるなら…。それほど贅沢で幸福な死に方は無いだろう。僕も一口わたがしを口に入れ、胸まで溶かされそうな甘さを舌で味わう。

「私たちって、他の人から見たら本当にカップルに見えるのかな。」

 唐突に彼女から告げられた問いに思わず足を止めそうになる。しかし人混みの中、足を止めるわけにもいかず僕は意識的に足を動かした。

「どうでしょう……」

 そう見えていたなら、君はどう思うんだろう。僕としては嬉しいけれど彼女からすれば不愉快な思いをしているのかもしれない。彼女の瞳は真っ直ぐ前を向いていて詳しく表情は分からない。どう答えるのが正解なんだろうか。こういう時、もっと人と接しておくべきだったとしても遅い後悔ばかりが募る。

「嫌、ですか?」

 恐る恐る聞いてみると彼女は首を横に振った。どうやら嫌では無いようでそのことに安心する。渦巻いた嫌な感情を中和するように、また僕はわたがしを口に含んだ。

「お祭り、楽しいね」

 不意に僕のことを見上げながら微笑む彼女に僕も思わず頬が緩む。本当に可愛いなあ。



 しばらく屋台の並ぶ通りを歩いているものの、ここで一つ問題が発生した。そう、緊張しすぎて彼女と何を話せばいいのか思いつかないのだ。そもそも僕はあまり人と話したことがあまりない。ましてや好きな人とだなんて口を開くことすら勇気がいる。
 カランコロンと下駄を鳴らしながら隣で歩く彼女を見下ろしていると、時折目がカチリと合う。少し首を傾げて微笑む様はとても愛らしく、更に僕の体温を上げていく。君の瞳に映る僕が情けない顔をしていないかたまらなく不安で、僕は目を逸らした。彼女は今、楽しいと思ってくれているのだろうか。
 そんな僕の考えとは裏腹に彼女は機嫌が良いのか鼻歌を歌い始めた。たったワンフレーズ。彼女が奏でたのはそのほんの僅かなワンフレーズだけだったけれど、そのメロディはとても聞きなれたものだった。

「もしかして、スティング?」

 そう呟くと彼女は驚いたようにこちらを振り向き、恥ずかしそうにはにかんで頷いた。

「僕も好きなんだ!今のはシェイプ・オブ・マイハートかい?有名ですよね。他にはどんな曲を聞くんですか?教えてくれると嬉しいのだけれど」

 彼女と共通の話題があることが嬉しかった。つい早口で問いかけてしまったけれど、大丈夫だっただろうか。引かれてはいないだろうか。

「えっと、ごめん。この曲しか知らなくて」

 彼女は少し俯いてそう答える。そんなことなんて知らずに舞い上がってしまった自分が恥ずかしい。慌てて彼女に謝ろうと口を開いたけれど、彼女が言葉を続ける方が早かった。

「花京院くんが好きって言ってたから、聞いてみたの。すごく素敵な曲だったよ」

 軽く巻かれた横毛を指先で弄びながら答える彼女。微かに上から見える頬はじんわりと赤く染まっていて、僕の胸を高鳴らせるには十分な威力を持っていた。

「もし良かったら、花京院くんの好きな曲もっと教えて欲しいな」

 そんな彼女の素敵な提案に僕は何度も首を縦に振った。僕が好きだと言ったことがきっかけで聞いてくれたことが何よりも嬉しい。ふわふわとしたわたがしのような気持ちの中、笑い合いながら彼女と他愛も無い話をする。
 彼女と言葉を交わす度、好きという気持ちが膨らんでいく。ときどき目の端に映る彼女の小さくて柔らかそうな手を繋いでしまいたくて堪らない。痛いほどの早さでうるさく鳴る心臓と、この感情をいつ君に伝えればいいのかというもどかしさを感じながら僕は彼女の笑顔に見惚れていた。



 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。花火の上がる時間がだんだん近づいてきて、祭り会場は人の波でごった返していた。夕焼けはすっかり沈み、月が出てきた夜空の下。僕達は花火を見ようと河原の方へと向かっていた。屋台の通りを抜け、しばらく住宅街を進み目的地に着くとすでにここも賑わいを見せていた。

「あっち空いてるよ」

 彼女が指さした所には丁度空間が空いており僕達はそこを目指す。この短時間で彼女と仲良くなれたと思う。だけど少し話しすぎたようで、もう僕には彼女の気を引く話題なんてどれだけ頭を使ってみても思いつかない。花火を待つ時間にも会話らしい会話は無く、生ぬるい風が僕らの間を通り抜けるだけだ。
 だけど僕は知っている。最後に彼女に伝えなければいけないことがあるということを。「好きだ」と彼女に伝えたい。まるでコップに並々注がれた水のように溢れ出しそうで、今にもこぼれてしまいそうな感情をどう伝えたら良いのだろう。どうしたら、君にこの気持ちが伝わるのだろう。

「花京院くん、あのね」

 僕の思考を遮るかのように聞こえたその声はどこか緊張している。視線を下に向けると少し強ばった表情の彼女がそこにはいて、こちらまで緊張してしまった。

「どうしたんだい?」

 なるべく優しい声でそう問いかけるが彼女はなかなか言葉を紡ごうとしない。何度か深呼吸し、意を決して口を開くがあの可愛らしい鈴のような声が聞こえることは無かった。彼女から話しかけてくれた以上、僕はただ彼女の言葉を待つことしか出来ない。

「えっと……」

 ようやく絞り出された声は弱々しい。だけど勇気を持って何かを伝えようとしてくれていることは確かだ。彼女が続けて言葉を発そうとしたその時だった。ヒュルルルと特有の音が辺りに響いたかと思うと、大きな音をたてて花火が打ち上がった。きっと色とりどりの花火が上がっているのだろうが、そんなこと今の僕にとってはどうでもよかった。彼女が何を伝えたいのかだけが気になった。

「いいですよ。言ってください」

 花火の方に目線を逸らし、少し残念そうな顔をした彼女にそう促す。一つ、また一つと上がっていく花火になんて目もくれず、薄く照らされる彼女のツヤツヤとした口元にだけ僕は釘付けだった。ようやく口を開きぽつぽつと話し出す彼女。
 しかし花火の大きい音と、声の小ささから聞き取るのが難しい。電波の悪いラジオの様にところどころしか聞こえず、文章として耳に入ってこない。耳に全神経を集中させて彼女の口の動きからどうにか言葉を解読できないかと試みる。そんな僕の様子に気付いたのか、彼女が大きく口を動かした。
 「う」の形をとるように口元が少しすぼめられたかと思うと、ゆっくりと唇が横に引き伸ばされ「い」の形になる。はにかみながら微笑む彼女はそれ以上言葉を発しようとしない。「う」と「い」。即座にその母音で始まる言葉が一つ頭の中に浮かび上がる。もしかして……、すき?

 今、彼女は僕に好きと言ってくれたのだろうか。いや、このシチュエーションで、それ以外が有り得るだろうか。今考えてみると、今日だけでも彼女が僕のことを好きかもしれないという片鱗はあった。僕とカップルと見られるのは嫌ではないと言っていたし、僕が好きだからという理由でスティングの曲を聞いてくれていた。それってもしかして、もしかしなくてもそういうことじゃあないのか!

「僕も、同じ気持ちですよ」

次の花火の準備のためか収まった花火の音。静かな空間に僕の声は確かに彼女に届いただろうか。じんわりと顔に熱が集まってくるのを感じながら彼女の返答を待つ。

「じゃあ一緒に行こうね、うみ」

 今、彼女はなんと言った?「うみ」と言ったのか?彼女の発した言葉が僕の見当違いだったということに、更に顔に熱が集まってくる。なんて恥ずかしい勘違いをしてしまったんだ。
 そんな僕には気付かず花火を見ようとでも言うかのように空中を指さす彼女にならって僕も夜空を見上げる。
 そこには想像していた通りの光景が広がっており、それを見上げる彼女の横顔は嬉しそうだ。まあ、思いが通いあっていなくても彼女が楽しそうならそれでいいか。花火なんかよりも綺麗な彼女の横顔を、僕は焼き付けるように見つめた。



彼女を家まで送り届けたあと僕は自室へと戻り布団の中に入っていた。ああ、カメラでも持っていけばよかっただろうか。彼女の浴衣姿を目に焼き付けたつもりだけれど写真に残したい。今となっては後悔しても遅い話だが。
 それにしても海か。あの旅の中で何度か通ったきり行っていないな。海といったらやはり泳ぐのだろうか。学校の指定水着じゃあ格好がつかないから、早めに新しいのを買わないと……。
 そこまで考えたところで僕はハッとする。海で水着ということは、彼女も水着姿ということか?浴衣姿でもあんなに可愛らしくてどうにかなってしまいそうだというのに。み、水着姿?僕は耐えられるのだろうか。脳裏に浮かんだ彼女の水着姿のせいでじわじわと僕を誘っていた眠気は吹き飛んでしまう。
 明日も夏休みの最中であるから、別に早起きしなければいけないということは無いのだけれど、目がだんだんと冴えて意識も完全に目覚めてしまった。まだ日程も決まっていない用事が頭の中を埋めつくしてやまない中、なんとも馬鹿らしい疑問が一つ頭に浮かぶ。

 彼女も、ビキニとか、着るのだろうか。