Melt

 今日はとにかくコンディションが良くなかった。帰路に着きながら私は今日の反省会、もとい言い訳を心の中でひたすら並べる。下唇に出来た小さな口内炎が地味にジクジクと痛むし、暑すぎて背中までびちょびちょ。伸びすぎた前髪は鬱陶しいのに来週までお気に入りの美容室の予約は取れないし、おまけにバイトは忙しいしムカつく客しか来なかった。暑さと軽い脱水症状でもうフラフラ。

 なんだか甘い物が飲みたかった。身も心も甘えきった私が足を運んだのは白いセイレーンが特徴的な某カフェ。夜の十九時過ぎ、お客さんもまばらであと一時間もすればこの店舗のシャッターも降りるんだろう。

 友人と別れを惜しむようにゆっくりストローに口付ける女子高校生もいれば、もうほぼ中身が無いのにパソコンばかり触っている人もいる。机につっぷして寝ている人までいた。誰も並んでいないレジカウンターに足を運ぶと、見慣れたお兄さんに声をかけられる。

「いらっしゃいませ。いつものでいいですか?」
「お願いします」

 バイト終わりにこうやってここに寄るのは初めてじゃない。今週頑張ったご褒美だとか新作が発売されたとか、今日みたいに疲労した心身に甘い物を染み込ませたい日とか、結構頻繁にくる。そしてこのお兄さんは必ずいるのだ。同い年か、少し上くらいに見えるお兄さん。名前は知らないけれど、通っているうちに私のことは覚えてくれていたみたいでなんだか嬉しい。
 というのもこのお兄さん、私の好みどストライクなのだ。柔らかい紫色の瞳に、触ればふわふわとトイプードルの毛並みのように柔らかそうな前髪が印象的。彼のことを一言で言うと美形なのだ。女性らしい優しい雰囲気だけれど声は優しい低音でそんな所にもときめいてしまう。

 青い紙幣を彼に渡して何円かのおつりをもらう。ドリンクをもらおうと移動したけれど、どうやらお兄さんがいれてくれるようでその所作に思わず見入ってしまう。皆同じ事をやっているのに、彼の動作だけが特別でキラキラと見えてしまう。
この感情に名前を付けるとしたら「こ」から始まって「い」で終わるアレになるんだろうけど、性格も何も知らないのにそんな甘ったるい気分に浸るのは彼に悪い気がした。

「なんだかお疲れのように見えますが大丈夫ですか?」
「……はい?」

 思いがけない彼からの一言に堪らず聞き返してしまった。お兄さんとは注文の内容とか、渡す時の確認とか、最低限の会話しかしたこと無かったので驚いてしまった。少し首を傾げたお兄さんに言葉を返す。

「今日、ちょっと調子よくなくて……。まあ疲れてはいますね」

 伸びきった前髪をいじりながら彼に答えるとお兄さんは労わるように私に優しく微笑んだあと、視線を写してホイップクリームをドリンクの上に絞った。バニラクリームフラペチーノにチョコチップとチョコソースを追加。シンプルだけど、それがいい。

「お待たせしました」
「ありがとうございます……」

 ドリンクを持ってお店を後にしようとした時、お兄さんに少し手招きされる。なんだろうとカウンターに戻るとずいっと顔を寄せられた。いきなり何事かと内心焦っている私をよそに彼は小声で耳打ちをする。

「お疲れのようなので、いつもよりチップもソースも多めに入れておきました。内緒ですよ?」

 そう言って離れていったお兄さんの顔はいたずらっ子のようで、いつも大人っぽい彼からはあまり感じられない無邪気な表情を浮かべていた。
 特別扱いしてくれたってこと?私に?それを自覚した途端顔に熱が集中するのが分かる。嬉しいけれどどこか気恥しい。

「ありがとう、ございます」

 もう一度お礼を言うと「またお越しください」と相変わらずの笑みを浮かべていた。そのまま店を後にして再び帰路に着きながらストローに口付けた。うん、安定の美味しさ。クリームとチョコレートの甘さと、お兄さんからの優しさが混ざりあっていつもより美味しく感じる。まだ耳にお兄さんの低くて優しい声と微かにかかった吐息が残っている気がして、忘れかけていた熱を思い出してしまった。
 あんなに優しかったらモテるんだろうなあ。と高ぶった少し気持ちを落ち着かせながら、ふとカップを見ると何か書かれていることに気づいた。なんだろう……。持ち手をずらして確認してみると、そこには「Fight!」という文字と共にさくらんぼのイラストが書かれていて、片方の実にはニコちゃんマークが付けられていた。
 疲労もイライラも全部ぶっ飛んで溶かされていく。これもお兄さんのサービスなんだろう。なんでさくらんぼなのか分からないけれど、とにかく嬉しかった。明日からも頑張ろう。そう思いながらまたストローにくちを付ける。
 家に帰ると空っぽになったカップを親に捨てるからと取られそうになったが、断固拒否してカップを洗って自室に飾った。さくらんぼのイラストがよく見えるように。



 数日後、また私はお店に足を運んでいた。今日は新作の発売日。一限だけの授業を終わらせて、いつもより早歩きでここに来た。いつものお兄さんに会えたら、なんて淡い気持ちを抱え込んで。チョコレート味の新作はとても甘そうで甘党の私にはもってこいだった。
 お店についてカウンターに目を向けたけれど、お兄さんはいなかった。まあまあバイト終わりに来ればいいかとテーブル席に目を向けた。新作の発売日だからかはたまたお昼のカフェタイムだからか満席だった。なんとか空いてる席は無いものかと奥の方のテーブルまで来た時だった。
 お兄さんが座っていた。ふと視線があうと彼は付けていた白いイヤホンを外し、「座ります?」と目が飛び出そうなほど驚く提案をしてきた。
 新作のダブルチョコレートフラペチーノ片手に、付箋だらけの参考書と黒色のパソコンに目を向けるお兄さんの席に戻る。メガネかけてる…勉強の時だけかけてるのかな。あとピアスも。バイト中は規則か何かで外してるのか、この時のお兄さんはさくらんぼのようなピアスをしていた。いいなあ、私もやっぱり空けようかな。

「相席してもよかったんですか?」
「ええ。丁度話し相手が欲しかったところですし」

 パソコンを閉じて私のことを見つめる彼の視線から逃げるようにストローに口付けた。濃いチョコレートが甘ったるくて胃もたれしそう。でも美味しい。難しいことが書かれた参考書の一文を読んだけれどよく分からなかった。

「お兄さんは大学生ですか?」
「ええ。三年生ですよ」

 二個上だから、本当にお兄さんだ。ホットの容器に口をつけて、ドリンクを飲み下す度に上下に動く喉仏にドキドキした。なんでドキドキしてるんだ。変態みたいで気持ち悪い。なんて自虐をこぼす。

「私一年生です。先輩ですね」
「そうですね」

 お兄さんとの会話はあまり続かなかった。お兄さんから話しかけてくれることは無くて、私から話しかけたいけれどなんだか小っ恥ずかしくて時間がかかってしまう。

「お兄さん彼女いるんですか?」
「いませんよ」

 その言葉に安堵して胸を撫で下ろす。私がその位置に立候補するわけじゃないしお兄さんの隣にいる自分が想像つかないし。

「君は?」
「私もいませんよ」

 お互い苦笑をこぼしながらドリンクを口にする。言葉が無くてもこの空間が愛しくて重くない穏やかな沈黙が流れている。少し時間が経ってドリンクに溶けた生クリームが混ざってさらに甘くなったフラペチーノ。飲む時の角度からしてもう僅かしか残っていないであろうお兄さんのコーヒー。甘いもの、苦手なのかな。聞けばいいのに、なかなか声に出せなくてもどかしい。

「今日はバイトじゃあないんですか?」
「お昼からなんです。そうですね、あと十分もしたら行かなければいけません」

 あと十分。残されたのは僅かな時間しかないのに聞きたいことが多すぎて纏められないし、そもそもこんなに話しかけて迷惑じゃない?でも話し相手が欲しかったって言ってたし…? そう思い悩んでいる間にも時間は過ぎていく。とりあえず手当たり次第に質問を投げかけた。

「フラペチーノとか甘いものは飲まないんですか?」
「たまに飲みますけど、普段はコーヒーが多いですね」
「私が来るまで何してたんですか?課題?」
「課題ですよ。といってもレポートなのでこの短時間では終わりませんけど」
「えっと、あと……その」

 結露のせいでカップから水滴が滴り落ちる。お兄さんはいつもの微笑を浮かべて私の言葉を待っている。あと聞きたいこと、なんだっけ…ええと……。

「あ、そうだ。お名前!聞いてもいいですか?」
「もちろん。構いませんよ」

 お兄さんは一瞬驚いたような顔をしたけれどいつも通りの笑みを見せて快く教えてくれた。

「かきょういんのりあき。漢字は…こう書くんですよ」

 そう言って参考書を閉じて裏表紙に書かれた名前を見せてくれる。花京院、典明。心の中で彼の名前をなぞるように復唱する。かっこいいけど、漢字を見ると美しさも備わっていることに気付いてお兄さんの事を深く知れたようで心が温かくなる。

「そろそろ時間なので、僕は行きますね。ごゆっくりどうぞ」
「あ、いや私も帰ります。混んでますし……」

 そう言ったけれどもうピークは過ぎたのか空き席が疎らに出来ていてなんとなく気まずい。これじゃあ、お兄さんが行ってしまうから帰るようなものだ。彼の表情を見ると、あの日のようにいたずらっ子の笑みを浮かべていてこう告げた。

「残念です。二杯目は僕が入れてあげられると思ったのに」

 リュックにパソコンと参考書をしまいながら、私に視線を向けて放たれた言葉は私をこの席に縛り付けるには充分な効力を持っていた。落ち着け!これは商売トーク!もう一杯ドリンクを買ってねってことだよ!特別でも!なんでもないの!それでも私は買ってしまうのだ。二杯目のドリンクを。

「じゃあ、もうちょっといます…」

 高鳴る心臓を抑えつけたかった。握りしめて無理やり動きを止めてしまいたかった。まあ、そんなこと出来る人間いないだろうけど。伏せ目でストローを加えた私に「やった」と小さく呟くお兄さん。敵わないな……。好きになる資格とかも無いのに。

「あ、そういえば恋人はいませんけど好きな人ならいますよ」
「え?」

 冷えきった氷のような言葉に心臓の高鳴りが萎えていくのがわかる。そりゃそっか。顔良いし、大学でも美人な女の人はたくさんいるだろうし。

「この間その人にさくらんぼを書いたカップを渡したんですよ。僕なりのアプローチだったんですけど、気付いてもらえましたか?」

 え、と声が出そうになるけれど口が動かない。彼は相変わらず静かに微笑むばかりでリュックを片方の肩にかけると席を立ち、スタッフルームの扉に消えてしまった。
さくらんぼ?アプローチ?好きな人?数日前のバイト終わりのことを、未だ部屋の中で飾られている彼から手渡してもらったカップを思い出す。……もしかして? もしかしなくても?

 ああ、この真相を聞くためにも早くこのフラペチーノを飲み干さないといけないし、カウンターに行くために二杯目のドリンクを注文しないといけない。財布の残高を思い返しながら、すっかり水分で柔らかくなってしまったストローを咥えた。
 二杯目はいつものにしよう。これはあまりに甘すぎる。