「幸福」を願う者

『(1)かわいがりいつくしむ。思いこがれる。愛しいと思う』

「好きな人が出来たの」

 文字列を指でなぞりながら彼女の言葉を思い出す。薄暗い自室の中心で僕は床に座り込んでいた。時刻は午前三時を回ったところ。未だ込上げる吐き気に眠れぬまま、辞書を広げてとあるページをじっと見つめる。
 【愛】。これが原因で僕はここ数日絶え間ない吐き気に苛まれているのだ。横になると苦しいので今はただ背を丸めて座り込んでいる。ツンとした胃液の匂いがいやに鼻についた。

 確かこの病気を発症したのは丁度彼女がそう言ってきた日の夜だったはずだ。あの夜もこうして眠れなかった。彼女が僕以外の男と付き合うなんて考えられなかった。苦しくて目を閉じるも、瞼の裏に浮かぶのは彼女が知らない男と笑い合っている様子。それ以上見たくなくて思わず目を見開いた。熱くもないのに嫌な汗が流れ、胸の奥底から嫌悪感が溢れ出る。
 そして同時に突然の吐き気に襲われた。あまりにも突発的なそれに抗えず、吐き出した物は食べた食事でも飲んだ飲み物でも無かった。胃液まみれの異物に僕は目を見開いた。

『(3)対象を気に入って楽しむ。』

 病名は【花吐き病】。奇病の一つで片想いをこじらせたが故に発症する病らしく、吐かれた花に接触することで感染する。唯一の治療法は彼女と両想いになる事のみ。その他の有効的な治療法は未だ発見されていない。
 笑ってしまいそうなほど単純で、笑えないほど残酷な治療法だ。この思いを彼女に伝えるくらいなら、一生この病気を抱えたまま生きていく方がまだマシ。……と言いたいところは山々なのだが、長時間続く嘔吐により僕の喉は胃酸で痛み、食事もまともに取れていなかった。学校に登校はしているが彼女の姿を見るだけで強い吐き気が僕を襲った。

 ふと、彼女の姿を思い出したことによって軽い吐き気に抵抗すること無く僕は嘔吐する。まだ口内に残るそれを噛むと草独特の青臭さが広がった。
 吐かれたものは四つ葉のクローバー。ただ一種類。花吐き病というのに、僕が吐いているものは花では無い。シロツメクサではダメだったのだろうか。机上の読書灯の灯りに照らされてテラテラと光るそれをゴミ箱に捨てた。
 この病気を打ち明けて、もしこの気持ち悪い愛を彼女が受け取ってくれた所でそれが同情の果ての意味の無い恋ならば僕一人で抱えて生きたい。彼女の『幸福』を願うからこそのクローバーなのか、あるいは……。

『(3)二つとない対象を大切にする』

 喉に張り付いた愛憎が気持ち悪くて、僕は水を飲もうと自室を出た。両親を起こさないように静かに階段を降りて、冷蔵庫から水を取り出す。コップの中で静かに揺れる水面を眺めながら彼女のことを思い返した。
 彼女との出会いはなんてこと無かった。だけど法皇が見える彼女に心を開くまでそう時間はかからなかった。この世にそんな人間がいるのかと思ったが、彼女は僕の法皇に触れて、笑い、綺麗と褒めてくれた。そんな人間、この世でただ一人、彼女だけだった。
 同級生で法皇が見えて、純粋で潔白で愛らしくて、大人っぽいのに打ち解けてみると子供らしい一面もあって少し抜けていて。真っ白で何ものにも染まりやすい彼女が

「好きだ……」

 呻くように気持ちを零し、その場に蹲り止めどなく吐き出されるクローバーを見つめる。症状が発症してから一番量が多いかもしれない。彼女の事を考える度に吐き気を催し、その苦しみから逃れる為に彼女のことを考えないようにするが、その想いが強くなる度に彼女のことを強く想ってしまう。そんな自分が愚かで、どうしようも無く情けない。
胃液と涎が混ざったものと涙がポタポタと床に溢れ落ちた。苦しくて恐ろしいのに、自分の意志とは関係無しに湧き上がる愛情を抑えつける術など僕は知りえもしなかった。
 どうして僕だけがこんな思いをしなければいけないのだろう。僕が苦しんでいる間、彼女はその「好きな人」という奴と微笑み合う夢でも呑気に見ているんだろうか。彼女の間抜けな寝顔が安易に思い浮かんで、それにまた嗚咽をこぼす。

 苦しい。許せない。
 彼女を好きになってしまった僕にも、僕以外を好きになった彼女にも。数刻前まで純白だった愛情はどす黒い愛憎に塗りつぶされて醜く歪んでいく。
 僕だけを見て、僕だけを思って欲しい。
 拳を握りしめ、皮膚に爪がくい込んでいく痛みにも目もくれず僕はひたすら自身の中で渦巻く憎悪に集中していた。
 僕だけのものになればいい。僕しか見えなければいい。僕以外の彼女に纏うものを全て消してしまいたい。そうして彼女を永遠に僕のものにしてしまいたい。
 ああ、そうか。彼女の『幸福』なんて僕は最初から望んでいなかった。これが意味するものは僕の『幸福』なんだ。ただ自分の欲望のままに彼女を求め、それでも報われない僕を無数に吐かれたクローバーが嘲笑っているような気がした。
 僕はそのクローバーを一つ手に取り握りつぶす。グシャリと呆気なく手の中で潰れるクローバーの感触が彼女を想う心の終わりだと思った。
吐いた花に触れれば、花吐き病は感染する。それなら。

『(4)大事なものを手放したくないと思う。おしむ。』

 僕はふと思いたって何枚かのクローバーを拾い上げて、キッチンペーパーで胃液を拭き取る。押し花を作ろうと思った。栞にしてあげれば、彼女はきっと喜んでくれるはずだ。
疑いを知らない純真な眼で僕を見上げて、ありがとうと屈託の無い笑みを浮かべる彼女が安易に想像できた。僕の愛の結晶を、彼女を形成する本の間に挟む様子は一枚の絵画にも劣らないほど美しいんだろう。
 甘美な気持ちに浸りながらクローバーを持って部屋に戻る。床に置きざりだった辞書にティッシュとクローバーを並べて閉じ、彼女の笑顔を脳裏に浮かべる。押し花を作るのには確か数日かかるはずだ。それまでに彼女が僕のものになってくれればこのクローバーは行き場の無い物になるだろう。

 しかし彼女は見初めた誰かに夢中な今、不要になる確率は低い。どちらに転んでも僕にとっては『幸福』だ。彼女の愛は僕だけに注がれるべきだし、僕の愛も彼女にだけ注がれるべきなんだ。手中に収めて目の届く所に置いて、常に君も僕のことを考えてくれないといつまで経っても僕は満たされないだろう。早く、早くこの花が出来上がるのが待ち遠しかった。
 願わくばこれに触れた途端、君に花を吐き出して欲しい。僕と同じ苦しみを味わえばいい。そして助けてと僕だけを頼って、覆らない苦しみに二人で溺れるんだ。あまりにも滑稽だけれど僕はそれで構わない。彼女が僕にだけしか頼れないという事実だけが欲しい。それ以外は何も望まない。要らない。欲しいのは、彼女だけだ。
 いつの間にか吐き気は落ち着いて、眠気に誘われて僕は目を閉じる。栞の色は何にしようか。彼女の好きな色は確か……。思い出す前に意識は底に沈み、体を丸めたまま僕は眠りについた。まるで自分自身を労り抱きしめるように。



「クローバーの栞だ!ありがとう!……でも、こんなにたくさんのクローバーどうしたの?」
「群生地を見つけたんだ、良かったら見に来るかい?」
「見たい!いつ行く?」

 数日後、無邪気に答える彼女に、僕は静かにほくそ笑んだ。