Stay up late

 机の上に並ぶアルミ缶と緑色の瓶。そこに漂うアルコール独特の匂い。チェイサー用にと置いてあった麦茶が入ったペットボトルは早々に無くなり力なく横たわっている。いい感じに回った酔いと共に横に座り何も喋らず、ただ私を見下ろす男の視線を感じながら私は鼻をすすった。

 始まりは二時間前に遡る。いや、今日の朝から遡った方が良いかもしれない。今日は朝から嫌な予感がしていた。会社に行く気は正直無かったけれど私は社会人だ。仕事をこなしお金を稼いで税金を納めて生きていく義務がある。甘いことなんて言っていられない。しかし気が進まないものは進まない。家を出る前に軽く駄々をこねる私に苦笑を浮かべて宥める彼は非番らしく私が仕事着に着替えたというのに彼はパジャマのままだった。

「今日は君の好きなものを作って待っていますから。頑張ってください。ね?」

 無防備に晒された分厚い胸元に顔を埋めて、渋々分かった、と返せば彼は安心したように私の頭を撫でた。
 しかし、そうは言っても勘は当たってしまうもので。朝から先日の書類修正とお小言を御局様からもらってしまい、昼には新規の仕事を言い渡された上に定時前には上司に呼び出され身に覚えのないミスを怒られる始末。やっていない、だなんて言う暇もなく畳み掛けるように説教を食らった。
 弁明を終えてなんとか誤解はとけたものの、帰る頃にはすでに私のメンタルはボロボロなわけで。愛しいアメジストの瞳に一刻も早く会いたかった。あの優しい体温に包まれていつものように甘い言葉で癒してほしい。そして優しさに触れたまま、床につきたい。泥酔しきった状態だと尚良し。今日はもう酒と愛しい恋人に溺れたかった。
 そんな甘えきった思想を浮かべた私は、帰り道にあるコンビニに寄って酒を買い込んだ。いつもの場所に陳列されている見慣れたラベルの缶ビール。あとはこういうコンビニコーナーのワインって飲んだことない気がしたのでカゴに入れた。玄関を開けた時に出迎えてくれるであろう彼の表情を思い浮かべながら会計を済ませる。怒るだろうか。きっと怒るだろうな、典明。
 でもしょうがない。今日はそういう日なんだから。



「その袋の中身はなんですか」
「やけ酒」

想像していた通りの表情に、思わず上がりかけた口角に力を入れる。笑ったらきっと一層怒られそうだから。彼は不服そうな顔をしてまた口を開いた。

「なにもそんなに買い込む必要は無いんじゃあないですか? まだあるでしょう?」
「今日はダメな日なの。飲まなきゃやってらんない日なの。やけ酒に付き合ってくれる優しい彼氏様はいらっしゃいます?」

 そう問えば、彼は眉間にしわを寄せたままため息をつかれてしまった。不機嫌だけど許してくれる時の顔。不本意だけど聞き入れようとしてくれている顔。なんだかんだ私に甘いところも大好き。
 買ってきたお酒を冷蔵庫に入れて、ソファに座ってテレビをつければ夜のニュースが流れている。政治がどうとか事件だとかどうせ明日になれば忘れてしまうものを見る気分ではなくて、適当にチャンネルをひたすら変える。
 そうしていると台所から典明が料理を運んできてくれる。彼の作ってくれた私の大好物に舌鼓を打ちながら美味しいね、と感想を告げれば、彼は得意げな笑みを浮かべた。

「それで? 今日は何があったんです?」

 食事も終わり食器も二人分ちゃんと洗い終えて冷蔵庫から取り出したお酒をグラスに注いでいるとそう彼が問いかけてくれる。対面に座っていた彼は私の横へと移動してグラスを差し出した。瓶を傾けて注いであげれば彼は嬉しそうに笑う。

「別にたいしたことじゃないんだけど……」

 グラスに入った液体を私は一気に飲み干した。彼は少し焦ったような顔をしたけれど、私にとってはもうどうでもよかった。注ぎ直しつつまた口を開く。
 そこからはもうお察しの通り。口を開けば愚痴に続く愚痴。彼は頷きながら酒を飲み下す。この時彼は基本的に何も言わない。ただ頷くだけ。私がアドバイスなど求めていなくてただこの溜まったストレスという名の毒素をどこかに吐き出したいだけなのを彼は知っている。

 それから彼と談笑を交えながら愚痴をこぼすこと約二時間。今に至る。酔った勢いと、今までの小さな嫌なことが重なり涙まで出てきた。ここまで酔うはずではなかったのに。私よりお酒が弱い彼は頬を赤く染めて私の涙を優しく拭ってくれた。お酒が弱いのに黙って私に付き合ってくれるところも好きだ。
 しかしお酒が抜けたらいつも申し訳なさがやっぱり勝つ。こんな鬱陶しい女いつ捨てられてもおかしくはない。そんなことを考えて落ち込みに拍車をかけていると彼は微笑んで私にこう告げる。

「ふふ……君は本当にかわいいですね」

 舌っ足らずの声と蕩けた瞳はまるで砂糖菓子のように甘く私の心を包み込む。今の私を見てどこが可愛いんだろう。子供のように駄々をこねて、まるでダメな大人の手本のように酒に溺れているというのに。ふるふると首を横に振って否定するが、彼はその様子すらも愛おしいといった様子だ。
 手を引かれて抱きしめられると、アルコールで火照った体温が伝わってきた。あやすように背中をポンポンと叩かれるさまはまるで幼稚園児だ。

「君はえらいですよ。本当に。えらいえらい」

 にこにこと笑いながら頭を撫で回され、によって髪型を乱されてしまう。もう誰とも会わないから気にしないけれど、どうやら彼も相当酔っているらしい。素面で彼はこんなことしない。

「僕はね、嬉しいんですよ?君が頼ってくれて、甘えてくれて。君は抱えこみやすい人だから」

 彼の優しい言葉にまた涙が溢れそうになる。指を絡めて手を強く握られ、額がくっつきそうな程の距離まで近づく。微かなアルコールの匂いが鼻をくすぐった。

「僕にはたくさん甘えて頼ってください。泣いたっていいんです。君が楽になれるならそれでいい」

 その声色は酷く甘く耳から体中を駆け巡っていく。どこまでも優しい人。彼の綺麗な瞳がスウッと細められて、それと同時に私も目を閉じた。
 唇にはもう慣れきってしまった柔らかい感触がする。彼の大きく薄い口に私の唇はいつもアンバランスで、だけど彼はそんなこと気にも留めずにキスを続ける。何度しても飽きない。飽きることなんて知らない。時たま熱っぽい吐息が漏れて、それが少し恥ずかしい。わざとらしくリップ音を響かせて、彼は離れていく。真剣な眼差しを目いっぱい注がれてあまりの熱さに私は彼から目線を逸らした。
 クスクスと可笑しそうに笑う彼は、やっぱり酔っている。

「ねぇ、もっと甘やかしてあげましょうか。今すぐベッドにでも行きますか?」
「なにそれ。どういう意味」
「そのままの意味です」

 冗談めかすような、けど確かに欲を潜めた声。明日私は休みだけど典明は仕事なはず。やけ酒と愚痴大会の末、そろそろ時刻はてっぺんを超えようとしている。

「気持ちは嬉しいけど、さすがにもう寝ないと」
「君の大好きな典明くんがお願いしているんですよ?断るんですか?」

 絡められた指に力がこめられる。ああ、彼はずるい。本当にずるい。全てを見透かしたような顔で、だけどとぼけた様子で聞いてくる。確かに最近ご無沙汰だったし……ってそうじゃあない。折れそうになる意志を必死に保ちながら私は彼に拒絶の言葉を紡ごうと口を開いた。

「明日仕事でしょ? 付き合わせておいてなんだけどそろそろ寝ようよ」

 ね?と言い聞かせるように首を傾ければ、彼はつまらなそうな顔をしてため息を吐く。良かった。諦めてくれたみたいだ。彼が遅刻なんてしてしまえば私は面目がたたない。さすがに甘えすぎだと思う。

「分かりました。言い方を変えます」
「はい?」
「泣いてるあなたに興奮しました。抱かせてください」

 真面目な顔で、至って自分は真剣だという眼差しで言われるのだから思わず吹き出してしまった。しかしそんな私をよそに彼は言葉を続ける。

「抱かせてくださいじゃあないな。抱きますね」

 彼は私との手を解いて横抱きの状態で私を持ち上げる。酔っ払っているというのに体幹はしっかりしていて全くふらついていない。私を運ぼうとする彼に戸惑いと期待を寄せてしまう私がいる。

「あの……典明さん?」

 布団の上に私を寝かせて馬乗りになる彼の名前を呼ぶが彼は聞こえていないかのように、私の服に手をかけてシャツのボタンを一つ外した。

「明日遅刻とか、しないですよね?」
「そんなくだらないことを考えられるなんて…。余裕ですね」

 首元に唇を寄せて痕まで付け始めた。どうやら完全に火がついたらしい。ああお願いだから、明日ちゃんと出社だけはしてほしい。そんなおぼろげな願いを祈りながら私は彼の背に腕を回した。

 こうして悪い大人の夜は深けていく。
 でもまあ、悪くない。今日はこういう日なんだから。



 翌日、ズキズキと痛む頭と腰に耐えながらなんとか目を覚ますと彼はもういなかった。時刻は昼過ぎ。どうやらしっかり出社したらしい。ほっと胸を撫で下ろし、私は乾いた喉を潤すために台所まで移動する。
 今日は私が非番の日。だらだらとした怠惰な一日を過ごそう。冷蔵庫を開ければ丁寧に私の朝食が置かれていてそんなに早く起きたの?と驚きながらもコップに水を注ぐ。ありがたく昼食としていただくとにしよう。
ふと机を見ると昨日の状態のままだった。冷蔵庫の中身だって変化しているというのにそこだけ時間が止まったまま。片付けくらい自分でしろということなんだろう。私はコップの中で揺れる水を一気に飲み干してゴミ袋を取り出した。

 これが終わったら、二度寝でもしよう。