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「私ね、好きな人がいるの」

 え、と洩れた音は彼女の握ったホッチキスの音に掻き消されてしまった。夕日の差し込む教室で隣同士机をぴったりとくっ付けて作業をしていると、彼女はそうぽつりと呟いた。まるで独り言のように。二人きりの静寂の中でないと聞き取れないほどの声量で。

「そうなんだ」

 束になったプリントを一枚ずつ手に取り、ページ順に重ねて彼女に手渡す。

「誰にも言わないでね」

 なんて返事と共にまた彼女はホッチキスを強く握った。カチリ、と音がして留めたプリントを机の横に置く。積み重なっていく束に比例してこちらの紙も減っていくけれど、全校生分の量となるとまだまだ時間がかかりそうだった。
 彼女とは同じクラスの同級生だ。衣替えも終わり冬用の制服に身を包んだ僕らは、特にそれまでまともな接点は無かった。彼女と今日こうして作業をする仲になったのは、とても他愛ない学校に通っていればなんてことない行事のおかげだった。

「文化祭の実行委員、誰かやってくれないか」

 担任が教卓に手をついて教室全体を見回す。実行委員といっても名ばかりで要は雑用係だ。クラスで案を纏めて放課後か昼休みには生徒会の集まりで報告する。裏方の指示役や予算の計算、諸々をするのがこの実行委員だ。
 先週辺りから募集が始まったのにも関わらず、いざ決定しようとすると誰も手を挙げなかった。文化祭を楽しみにしているクラスメイトも多かったように感じたが、やはり地味な役割は嫌らしい。放課後は部活動に専念している生徒もいるしなんとなく予想は出来ていた。
 しかしだ。誰も手を挙げないまま時間はズルズルと過ぎていき、あっという間に期日の放課後となってしまった。残されているクラスメイトは不満気な目線を泳がせている。
 早く帰りたい、早く部活に行きたい、誰か手を挙げてはくれないか、誰かが手を挙げればこの時間は終わる、なんてあけすけな感情が教室に漂っていた。僕も同じ気持ちだった。今日は予定があるのだ。早く帰りたい。
 帰りたいなら、誰かが手を挙げなければならない。

「はい」

 この雰囲気に飽きてきたのか少しざわつき出した教室の中に、僕の声が響く。担任の顔は明るくなり、生き生きとした様子で黒板に僕の苗字を書いていく。わざわざ書かなくてもいいだろうに。
 だが、ここで終礼が終われば良いのだが実行委員は二人必要だ。もう一人誰か手を挙げなければこの時間は終わらない。委員会なんてサボってくれていいから誰か手を挙げてくれないか。僕もそろそろこの時間に飽きてきた。

「は、はい」

 微かに聞こえた声に目線を移動させると、遠慮がちに手を挙げている女子生徒がいた。同じクラスだったんだろうがどうも印象が薄い。大きな騒ぎもしなければ誰とも群れず逆に目立つこともしない。居ても居なくても分からない人。最初は本当にその程度の子だった。

「よろしくね、花京院くん」

 やっと解放された放課後、帰ろうと鞄を手に取った時彼女がわざわざ僕の所に来てそう挨拶をしてくれた。

「こちらこそよろしく」

 そう会釈を返したのが僕が覚えている限り彼女との最初の会話だ。それから文化祭の実行委員として彼女と過ごす時間が増えていった。
 放課後は勿論のこと、話し合いのために昼休みに一緒にお弁当を食べたこともあった。彼女は少し不器用だったけれど不器用なりにも努力している様子がとても可愛らしかった。委員会をサボるような真似はしなかったし、怠けもしない。
 そんな彼女にいつしか僕は好意を抱くようになっていった。
 だが、これが恋かどうかは分からない。庇護欲からくる子供を見ているような愛くるしさに胸がときめいている可能性もある。これを初恋とするには、まだ時間が必要だと思った。
 まだ彼女と過ごす時間は十分にある。焦らず、この感情が恋かそうでないか見極めよう。そう考えていた矢先、先程の彼女のセリフを言われてしまった。

 そうか、彼女には意中の人がもういるのか。彼女の心を支配している男がいるのか。そう考えると、途端に暗い気持ちに苛まれる。秘密の共有は仲を親密にさせるとは言うけれど、こんな秘密は知りたくなかった。
 紙を捲る音、揃えるために机に打ち付ける音、彼女がホッチキスを握り紙を留める音。規則正しく奏でられる音が教室に響いている。

「好きな人って誰?」

 カチリ、彼女はホッチキスを握ったまま動きを止めていたが、すぐにゆっくりと力を緩め、留めた紙を束の上に置くと「内緒」と小さく答えた。俯いていて、表情は伺えない。
 僕に言えないのか。そう思ったが、好きな人の名前なんて簡単に伝えられるわけがない。現に僕だって彼女に告白する勇気は未だ持ち合わせていないし、クラスメイトに彼女が好きだと打ち明けられる人脈も持っていない。簡単に言えるわけがないのだ。
 ならどうして僕に好きな人がいるだなんて教えたのだろう。彼女は僕に想い人を告げる気はないのに。そこから話が膨らむはずもないと彼女は分かっていたはずだ。なのに、どうして。

「花京院くん」

 僕を呼ぶ声が聞こえて、思わず彼女の方に目を向けると左手を差し出していた。一瞬なんだと思ったが、プリントを渡すのをすっかり忘れてしまっていたらしい。手が止まってしまっていた。
 僕より小さい身長の彼女も、座っていれば視線がじっくりと交わる。見上げず見下げず対等に。

「どうして僕に教えてくれたんですか?」

 見つめ合ったまま、僕は彼女に問いかける。彼女はふい、と顔を逸らして「なんとなく」と答えにならない言葉を寄越した。
 作業音のみの空間に嫌気がさしてなんとなく出た話題がそうだったのだろうか。だが、なんとなくでその話題を口にしてくれるのは、僕に心を開いてくれている証拠かもしれない。

「君が秘密を教えてくれたお礼に、僕からも一つ教えてあげよう」

 音が止まる。彼女の視線を感じる。でも、彼女の顔を見ると照れてしまいそうだから、視線は手元へと落としたまま。

「僕も好きな人がいるんだ。誰にも言わないでくれ」
「そう、なんだ」

 返ってきた返答は戸惑いの色が滲んでいる。彼女の顔を見ると驚いたのか顔を強ばらせていた。

「僕に好きな人がいるのは意外かな」

 返答はない。代わりにホッチキスの音が返ってくる。時計へと目線を上げるとあと一時間で下校時間だった。用意されたプリントはあと三分の一といったところだ。

「言わない、誰にも」

 遅れて返ってきた声に「ありがとう」と感謝の意を述べる。別に言ってくれても構わないけれど。僕が好きなのは君だから。だけど、君だけが知ってくれているのは少し嬉しい。共通の隠し事があるだけで、僕はもう十分満足だ。身を引ける。

「君の恋は応援するよ。力になれるならなんでも言ってほしい」

 本当は応援なんて出来ない。出来ることなら僕に振り向いてほしい。けれど明確なアピールもしていない僕に彼女は振り向くことなんてしないだろう。最も、意中の相手がいるなら今更僕が何かアピールをしたところで気付いてもらえるはずがない。

「本当?」
「ああ、本当だよ」

 お互い顔を見合せて、確認するように同じ単語を繰り返す。本当だよ。君の恋は応援する。君が幸せになってくれるのが僕の幸せでもあるから。君の笑顔が見られるなら、僕は構わない。半ば自分に強引に言い聞かせて、笑みを作る。

「なんなら指切りをしたって構わない。ああ、子供っぽいだろうか」
「ううん、したい」

 小さな小指が差し出される。そっと絡めてみると余りの細さに力を込めるのが恐ろしかった。緩く絡めた小指から伝わる温かな体温。指切りげんまん、と子供っぽく歌う彼女が愛らしい。守ってあげたくて、泣かせたくなくて、ずっと触れていたい。
 君のことを好きかも分からない男なんてやめて僕にしてくれ。絶対に幸せにするから。なんて強引なセリフが吐けるはずもなく、「指切った」と合図とともに彼女の体温も柔らかな肌も離れてしまう。

「花京院くんが応援してくれるなら、文化祭の日に告白しようかな」
「良いんじゃあないか。上手くいくように願ってるよ」

 思ってもいない言葉は簡単に口から出るのに。君を引き止める、君の気持ちを考えない言葉は簡単に出ない。喉元に引っかかって石のように重く喉に詰まったままだ。

「ありがとう」

 微笑んだ彼女は、今まで見たどの笑顔より可愛かった。