世界には奇妙だと言われることがそれはもうたくさんある。
でも奇妙なことが起きるきっかけなんてものは、必ずしも難しいことではなくて単純すぎる程簡単なものなのだろう。

「(、なんで…)」

見慣れない天井と、動かない自身であるはずの身体。耳も目も霞みがかったみたいに上手く機能してくれないことに焦燥が生まれる。

「(な、にこれ)」

聞こえない耳で、それでも微かに拾える音に意識を集中すれば男女が叫びあっているような声。女の方は酷くヒステリックに、男の方はそれに苛立ったような、必死に落ち着こうとしているような声、で。

「まさはるぅ」
「(…、ぇ)」

小さく、それでも幾分か傍で聞こえた高い舌足らずなソプラノ。その声に戸惑っていればドスドスと激しい足音が近付いてくるのがわかった。

「雅子!あなたはそっちに行ってなさい!」
「ママ…、でも」
「おい子供に怒鳴るんじゃない、…雅子、ちょっと向こうに行ってなさい」
「パパ…」

キィキィと頭上辺りで交わされる言葉たちに何を言っているんだとただ戸惑いばかりが浮かぶ。雅子って、誰だ。ママって、何。パパって何。

「まさはる、…まさはる」

頬を、小さな手が滑っているような感覚にゾワリと背筋が冷えたような気持ち悪さを感じる。何、何。何を言ってるの。まさはるって誰のこと。まさはるって、何。

「…話を戻すぞ。俺はお前が何と言おうと雅子とここを出ていく。お前は変わらずこの家を使えばいい」
「っだから嫌よ!!どうして…っ浮気なんてしてない、するわけないじゃない!お願いよ、離婚なんて…」
「っじゃあこの写真は何だ!?俺を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
「だから違うって言ってる!馬鹿になんてしてないわっ」
「、とにかく、俺はここを出ていく。金は後で振り込んでおくから。…行くぞ雅子」
「パパ…まさはるは?」
「…、行くぞ」
「っ待って!待ってあなた!嫌、嫌よ!待って!」

あなた!と、必死に追いすがるような声と、乱暴に閉められたようなドアの音。最初の頃と違いシン、と静かになった部屋ではドクリドクリと鳴る自身の心臓の音が嫌に大きく聞こえることに恐怖心が煽られてしまう。

嫌、な、に。さっきのは何だったんだろう。
まるで昼ドラみたいな、でも余りにも殺伐とした苦しい雰囲気は現実に起こっている、みたい、で。ギシ…と微かに聞こえた音にビクリと身体を震わせ、重い瞼を必死に開ければ薄ぼんやりと見える黒い何か、に。

「におう、まさはる、よ。…私は認めない、認めないわよ仁王の姓を捨てるなんて駄目よ、嫌よ、だって、だって私はあの人を愛してるんだもの…!!」

ガタンッ!と身体が横たわっているであろうものが大きく揺れ全く反応出来ないままに身体が震えているような感覚に陥る。
怖い。上手く機能していないはずの耳でさえ感じてしまう程の底冷えしたような恐ろしい狂気染みている声が。

「あぁ、まさはる、マサハル…私とあの人の愛しい子…」

ふわり、と頬を包みこむ柔らかい掌に反して食い込んでくる爪の先にゾワワ…っとした悪寒が走り抜けて。
訳もわからぬままどんな状況かも知らぬ不安だらけの私の中で、急激に膨れ上がっている恐怖心をただただ煽って。

ねぇ、ねぇ。お願い、お願いします。仁王、まさはるって。
仁王まさはるって、何なんですか。誰を言っているんですか。
貴方は、何を言っているんですか。

「ふ、ふふっ…ふふふははは…っ、…愛してる、アイ、してるのよ…っ」

ギチっ、という音とともに頬を何かが引っ掻くような感触と、反対側でバンッバンッバンッと何回も顔の横辺りを叩かれている感覚に思わず涙が出る。
怖い、怖い、怖い。何で、何で、貴方何してるんですか。私は一体どんな状況、で。
身体が動かないんですよ、手も足も動かなくて耳も上手く聞こえなければ目もはっきりと見えないんですよ。
ねぇ、貴方は誰ですか。ねぇ、貴方は私を、わたし、をー…?。

「――っぉんぎゃああ、おんぎゃあぁっ」

こ、れは誰の声誰が泣いているの?何で私の喉から出てるような感覚があるの、ねぇ、ねぇ…!

「っねぇ、どうして泣くの?どうして泣いているの…?ねぇ、…――雅治?」

知っていますか、知って、いますか。私は、私の名前は。

名前って、言うんですよ。





その時の私は、訳の解らぬ恐怖にただただ泣くしかなかったのです



(仁王、まさはる…?)(な、で…)

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