私と晴矢は違う大学に通っているのだが、中学時代から腐れ縁だった所為か時々晴矢はマンションに転がり込んでくる。初めて来たのはいつだったか、雨の日でずぶ濡れになってドアの前に立っていたことを覚えている。
あの時の、世界で何も信じられるものがないような、絶望しか知らないような目を忘れられない。
そして今回はいる期間が長くて、バイトやら大学から帰ってきたら必ずいる。買ったばかりのソファに寝転がって、おかえりとも何も言わずにじっとクッションに顔をうずめている。
「ごはんは?いる?」
「いらない」
「朝も食べてないだろう。どうせ昼もとってないんだろうし、食べやすいもの作るから食べろ」
「……分かったよ」
そして食べた一時間後に、見事にそのご飯をリバースしトイレに流されるのだった。何故かあいつは調子の悪いときにしか此処にこない。はた迷惑な話だ。
実のところあいつが今何処に住んでいるとか、どうして此処にくるのかとか、聞くべき事は一切聞いていない。何だかんだ言って怖いのだ。それを聞いたら、もう二度と晴矢はこないような気がしたから。あの微かなぬくもりを二度と感じられなくなるのは、怖いのだ。
恐いのだ。
「ねえ晴矢」
「……ん」
「いっそのこと此処に住んだら?私は荷物が無いし構わないから」
はい、合鍵。ちゃら、と寝ている顔面に落としてやると晴矢は眉を寄せてそれをとる。
「住まねえよ、多分」
「何で。面倒じゃないのかい、ちょくちょく此処に来て」
「だって俺、此処に住んだら、一歩も此処から出ねえし」
「……は?」
「日に日に長くなってる。此処にいる事が。」
ぎり、と歯を噛み締める音が聞こえる。別に、だからいいんじゃないか。そんなこと言っても晴矢は全然聞かない。違う、そういう事じゃないんだ。
「だから、離れられなくなるから」
「どうして?」
「……言わない方が幸せなんだ。だから言わない。」
自分に言い聞かせるように話す晴矢に、何故だか凄い危うさを覚えた。崩壊の音が聞こえる。それでも、幸せとか、そんな事今はどうでもいい気がした。ただ何故だめなのか聞きたくて、止まらなかった。
ずっと晴矢にいてほしかったのだ。繋いで、引き留めていたかったのだ。
「言ってくれないか。私は、いてくれていいんだ。だから、聞きたい。」
どうしていたらいけないんだ。いよいよ晴矢は追い詰められたような表情になって、眉を八の字にしてこっちを見ている。困っている顔は珍しい、と思いつつ目をそらさずに聞いた。
「嫌だ、言わない」
「言ってくれ、聞きたい。」
「引かれるから、絶対言わない。」
「今まで私がお前と一緒にいて、引いたことなんてあったか?」
「〜しつこいっ!言わないったら言わねえ!」
遂に晴矢は涙声になってまたクッションに顔を隠してしまった。ここまで来たら後には引けまい。晴矢の上に馬乗りになってクッションを引ったくる。
「ちょっ、おま………!」
「聞きたい。」
これ以上近付いたら鼻がぶつかる、というくらい近いところで晴矢を見る。晴矢の潤んだ瞳の中に必死な自分の顔が映った。ぽろ、と晴矢の目から涙が零れてぎゅっと表情が歪んだ。泣かせてしまったのか。と、考えたとき、晴矢がくぐもった声を発した。
「あんたが、…好きだからだよ馬鹿……!」
「え」
「…………もう言わねえ!忘れてくれ、帰るから…」
「…………。もう一回」
「あぁ?」
「もう一回、言って?」
「……………やだ」
「言って。じゃないと君から降りないよ」
「………………好、き」
「もう一回」
「ぜってーやだ!」
「………ねえ、晴矢」
「……あんだよ」
「私も、好きかもしれない」
はあ?と晴矢は素っ頓狂な声を上げて暫く黙ってしまった。ほんの少ししてからいきなり顔を真っ赤にして、私の服を引っ張って顔を押しつけた。顔の熱さがじんわりと伝わってくる。
「ねえちょっと、熱いよ」
「夢だろ、これ。夢なんだろ?もう醒めていいよ…」
「残念ながら現実かな。…気になったんだけどさ、何で君って調子悪いときにうちに来るの」
「……………。」
「これ以上なくさないものなんてないだろ。」
いいから言え。と言うと渋々服に顔をつけたままか細い声を出した。
「…だってさ、そういう時のあんたって優しいじゃん」
「あ、そう」
「だから、来たくなるんだよ。悪いかよ」
(魔性……?)
服を掴む手に力が入る。皺になるんだけど、というと何も言わずに顔を上げた。まだ顔が赤い、可愛い。
「ねえ、今何かしてほしいことある?ご飯とか」
「…………」
「君さっきから無口で気持ち悪いよ」
顔を赤くしたまま、何か悲願するように上目遣いをする。嗚呼、こうして見るとずっとこんな奴が家にいたのか、と思う。
何か、うん、だって、これは。
「……何で今まで手を出さなかったんだ」
「?」
「文句は聞かないからね」
いただきます、と言ってまずキスから。じたばたしながらも背中に腕を回していく様はなんだか、恋って素晴らしい。キスをしたあと、赤い顔をしてため息をつくのは絶景だ。
「…欲しいもの見っけた」
「何だ」
「あんた、…なーんて」
「言われなくても、もう駄目ってほどあげるよ」
「なーんてって言ったじゃねーか」
「本当は欲しいくせに」
「……ばーか。」
やっと笑った。背中に回す腕に力が籠もる。それに流される様にして、私は再び晴矢に濃厚なキスを落としたのだった。
「改めて、いただきます。」
「言っとくけど俺の荷物多いからな」
「………引っ越そうか」
「海が見えるところがいい。」
「………善処するよ」