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俺の最悪の予想は大方当たっていて、晴矢は中学生からの記憶を曖昧にしか憶えていないらしい。つまりは、俺と付き合っていることも完全に忘れているという事だ。原因を考えるとやはりあの日にぶち当たる。晴矢が倒れたあの日。


俺は自分の部屋に晴矢を招き入れていた。晴矢はソファに座って物珍しそうに辺りを見回している。本当に、何も憶えていないんだな。ソファで縮こまる晴矢を一瞥して、コップにココアを注ぐ。



「どうぞ」


「あ、ありがと」




声の震えで緊張してるのがわかる。普通の彼は素直に礼なんて言わない。言ってもサンキューとか、悪いとか、そんな程度。申し訳なさそうにココアを啜る姿を見て、自然と切ない声がもれた。



「ごめんね、無理して呼んじゃって」


「そ、そんなことない。ただ、ちょっと、」


「…ちょっと?」


「この前は、本当にごめん。ただ、あの…少し… 」



もごもごとはっきりしない彼を、俺は晴矢として見ていなかった。晴矢に似た別人として捉えていた。そしてこんな事を言うとは自分でも最低だと思うのだが、彼に好かれるのを俺は厄介とさえ考えていた。だって、俺が好きなのは君じゃない。君の中に眠ってる人だよ。
腹がずきりと痛んだ。





「用事があったんでしょ?用事があることも素直に言えないなんてね」




避ける。頑なに拒む。このまま恋愛ルートに突き進まないように。彼は俺が用事があると勘違いをしたと思い込んで、肯定の意を示した。それでいいよ。
俺は、君のことを好きになれない。例え彼の顔をして俺に好きだと言ったとしても、俺は絶対に落ちない。

その日は何もないまま彼は帰宅した。晴矢に会いたい。おかしな話だ。さっきまで延々と話していた相手だというのに。ベッドに顔を押し付けて意識を無理矢理落ち着かせる。このまま晴矢は戻らないのか?嫌だ、辛い、辛い。苦しい。
幸せな生活からいきなり暗転した世界に、俺は生活を余儀なくされていた。悪い夢なら、はやく覚めてほしかった。











何もないまま時は過ぎる。深緑の季節になった。遂に何の進展もない俺たちに風介が介入してくることとなる。心配してくれてるんだね。しかし俺の考えていたこととは予想斜め上で、事態は思わぬ方向に走っていく。






「…君は晴矢を何だと思っているんだ」


「俺はどうしても彼を晴矢だと思うことが出来ない。何だと思っているのかと聞かれたら…他人だよね。」


「……………。」



明らかな怒気を含ませた視線。いいよ、どうせ酷い人間だよ。ベンチから大学の講義を盗み見る。





「そんなことなら、私が奪ってしまうぞ」



風介のその一言に、俺は咄嗟に風介の方を向いていた。みーん、みんみんみん。あ、蝉。あの頃と全く境遇の違ったあの時と同じ音。



「…あれ?でも君彼女いたよね」


「いる」


「………」




何だ、はったりか。と胸を撫で下ろしたそのとき、風介がまたこちらを見た。




「でも、晴矢のためなら彼女とも別れられる」


「…それは宣戦布告と捉えていいのかな?」


「どうだろうね」



風介はベンチから立ち上がりハンカチで汗を拭いた。冷や汗か、単に暑いからか。俺にはどちらかわからない。




「兎に角、はやくよりを戻す事だ。…晴矢が、少し寂しそうだった」



真意が見えない風介の表情を一瞬だけ見て、去っていく風介の後ろ姿を横目にまた俺は講義を盗み見る。暇だ。驚くほど。
みーん、みんみんみん。























一年はあっという間だった。
ちらちらと、白いものが地面に落ちては消え、落ちては消え。そんな季節になった。一年前の苦々しい記憶がよみがえる。ちょうど、初雪の日だった。俺はいつものように大学の講義を受けて、帰路についていた。風介とはいつのまにか疎遠になっていて、メールさえもしていなかった。晴矢とも会っていない。違う友人と過ごす毎日も、気持ちを脅かすほどではなく。その日も何事もなく終わる筈だった。家の前に立っていた、彼を見るまでは。



「………どうして、」



持っていたクリアケースを落とす。何で、いるの。確かに俺の知っている顔だった。この前まで見ていた顔ではなかった。



「よお」



彼は無邪気に笑った。嘘だよね、だって彼は。息が出来ない。確かに目の前には晴矢がいた。俺の大好きな晴矢がいた。



「何ちゅう顔してんだよあんた。幽霊でも見たような顔してさ」



手が震える。何で?記憶は戻ったの?今までの事は憶えてるの?分からない。分からない。俺は訳も分からず錯乱しながら、晴矢に連れられて家に入る。





「何混乱してんだよ。ほら、ビールのめよビール」


「…君、晴矢…だよね…?」



晴矢がきょとん、と目を見開く。それからベッドに突っ伏して爆笑を始めた。俺はただ呆然とその光景を見るしかない。あー、とまだ笑いが止まらないのか、晴矢は涙を目尻に浮かべながらこっちを見上げた。




「正真正銘南雲晴矢だよ。頭でも打ったか?」




今までの彼が嘘のように、皮肉をこめて俺を笑う。本当だ、俺の晴矢だ。俺は苦しくて、でも嬉しくて、泣きながら笑っていた。馬鹿みたいだね、幸せに圧し潰されそうになっている。精一杯の笑顔で、晴矢を皮肉った。



「俺の心配するなんて、晴矢もどうにかしちゃったんじゃない?」











晴矢と久しぶりに笑った。晴矢と久しぶりに飲んだ。晴矢と久しぶりにゲームした。晴矢と久しぶりにお風呂に入った。晴矢を久しぶりに抱いた。久しぶりの感触は、どれも懐かしくてあたたかい。
次の日目が覚めたらあの晴矢になっているんじゃないかと考えたら眠れなくなって、ずっと晴矢の寝顔を見ていた。眉間に皺を寄せて寝ている晴矢がいとおしくて、口元が緩んだ。静かな寝息を立てる口に軽く自分の唇で触れて、何度も何度も晴矢を見る。思い出してくれた。記憶を取り戻してくれた。それだけでいい。また一緒に生きてゆけるね。これからは晴矢の口から出る意地悪な単語が、俺の心を温かくさせてくれるんだろう。今までよりもずっと。




明け方晴矢が目が覚めるまで、俺はずっと起きていた。晴矢がうぅん、と唸って目を開ける。ぱっちり、と大きく開いた目が俺の顔をとらえる。



「あんた、寝ないのか?」


「なんか眠れなくて」


「寝れるときに寝ておかないと、体もたねえぞ」


「それはわかってるんだけど…晴矢が晴矢じゃなくなっちゃうような気がしてね。眠れないんだ」


「…俺が俺じゃなくなる?」



虚ろだった目がぱっちりと開く。ごそごそと布団から這い出してきて俺の胸元に頭をくっつけて体を寄せた。あたたかい。



「じゃあさ、俺がこうやってあんたと肌を合わせてるよ。俺が俺じゃなくなったらきっとあんたから離れていくだろ。…繋ぎ止めてくれれば、きっと俺は変わらねえよ。」


「ほんと?」


「ああ、…だからはやく寝ろよ、此処にいるから。」


微笑む晴矢を抱き締めて、俺は眠りに落ちていく。ずっと温もりを感じていた。もう離れないね。もう離さないね。ずっと一緒にいてね。







毎日毎日晴矢と一緒、晴矢も家に入り浸ることが多くなった。家が寒くてストーブの前で二人で毛布をかぶって震えていたり。晴矢がいなくなると不安になった。その度に晴矢は大丈夫だから、と慰める。馬鹿だなあ俺、晴矢に気を遣わせてどうするんだろう。


正月は晴矢も流石に実家に戻り、すぐに俺の家にきた。こたつで二人ミカンを食べていると、晴矢がぼんやりと話を始める。




「…今まであんまり気にしてなかったんだけどさ、俺、この一年のこと全く思い出せねえんだよ」



治った筈の腹の奥が痛んだ。彼と晴矢は交わらない存在なのだと分かる。



「…そんなもんじゃない?大したことしてなかったし」


「…もうちょっと色んなこと憶えてる筈なんだよなぁ。でもちゃんと講義受けたことは憶えてたりさ。」


おっかしいよなーと首を捻る。晴矢はこっちを向いて真剣そうに訊いてくる。



「なあ、俺この一年何してた?」


「…今とあんまり変わらないよ。大学行って、俺んちに来て。変わったプレイして。」


「そこまで訊いてねえよ!…あー思い出さなくていい気がしてきたぜ」


「………ぷ、」



俺たちは顔を見合わせて笑った。晴矢には辛い事を思い出してほしくなかった。思い出してまた彼になったらどうしようと苦しくなった。




「大丈夫だよ、本当に普通の毎日だった」


「……………そっか、」



幸せになるためには嘘をつかなきゃいけないときもある。安堵した晴矢の顔を直視できないまま、俺は食べたくもないミカンの皮を剥いていた。大丈夫、晴矢を守るための嘘なら俺はいくらでもつける。
























雪が解けた。春の陽気が漂う。日照りが心地好い。大学へ続く遊歩道を歩く。この道を、また晴矢と歩けるんだなと思うと元気になれた。





気がはやったのか、俺は少し早歩きで遊歩道を進む。すると少し前に真っ赤な髪の後ろ姿が見えた。明らかに晴矢だよね、あれ。さっきよりも早足で晴矢に近付く。晴矢の肩をぽん、と叩くと晴矢が振り返った。




「………あ、」



どちらともわからない声がもれた。俺はそのまま絶句して立ち尽くす。晴矢、…いや、彼はおはようと苦笑した。そうだね、去年の冬から会ってないものね。相も変わらず顔を赤くして俺を見る。俺はどうしたらいいのかわからない。
逃げたい。逃げたい。この場から。また晴矢はこの殻の中に籠もってしまった。嫌だ、嫌だ、どうして、何で、繋ぎ止めておいたのに、なんで。




「あの、ヒロト…さ。日曜日暇?コーヒー無料券貰ったんだけど…」


「………何で」


「…………え?」


「…何でもないよ、風介と行ってきて。俺用事あるんだ、ごめん」




精一杯言わなければいけない事を言って、俺はその場を去った。嫌だ、何でだよ。足取りが早くなる。遊歩道を抜ける。苦しい、苦しい。晴矢は、何でだ。






「…だいぶお疲れだな、ヒロト」



学内で風介に話し掛けられた。俺は無視して通り過ぎようとするが風介が言葉で制する。





「“今”の晴矢は自分の所為でヒロトに何か辛い思いをさせているんじゃないかと思い込んでいる。…彼に当たるのは筋違いじゃないか?」


「……彼の、所為じゃないか」


「最低だな、下衆。」


「…何とでも言えばいいよ。俺はあの晴矢がいいんだ。そこまで言うなら、君が慰めてあげればいいんじゃない?」



すぐに、殴られた。頬が悲鳴を上げた。俺は横目で風介を睨む。誰かを睨んだのなんて久しぶりだ。風介は苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。



「彼には、君しかいないとどうしてわからないんだ」





煩い、俺にも晴矢しかいないんだ。俺は風介に向かって拳を振り上げた。

もう、どうでもよかった。




















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きみがいない







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