あの日は、初雪が降った日で。俺たちはたわいもない話を部屋で繰り広げて。晴矢は俺の部屋が好きだった。何もなくてがらんとしている部屋なのに、この殺風景さがいいんだよと言って居ついている。相も変わらずそんなに笑ってくれないけれども、俺にだけは気を許してくれているんだという確信をくれた。何をしても本気で怒るということをしないものね。流石に浮気とかなら怒るんだろうけど、俺は晴矢しか眼中に無いから晴矢を怒らせることなんて滅多にない。同性ということを除けば俺たちはどこにでもいるカップルで、今日も平穏な一日を終える筈だった。幸せな、毎日だった。
「俺欲しいものあるから駅前に行きたい」
唐突な晴矢の希望。時計を見ると午後五時。もう日はほとんど沈んでいた。まあ俺たちは男だし心配することはないだろう。快く承諾すると早く行くぞ、と立ち上がった。全く、気が早いんだから。俺はそんな我が儘も大好きだから笑顔しか作れない。
「何へらへらしてんだよ、置いてくぞ!」
とか言いながら何分でも玄関で待っててくれる、そんな君が好き。
雪が、ちらついていた。
駅前は微妙な時間帯だというのに矢張り混んでいて、雑踏に圧し潰されそうだった。晴矢はというと買ったものが落としたらまずいものらしく、抱えた袋しか見ていない。ちょっと、迷子になるよそんなんじゃ…。よたよたとしながら歩く危なっかしい恋人を見守りながら人波を掻き分ける。次の瞬間、自分たちの歩いている場所から程近いところで空を裂くような悲鳴が聞こえた。
「え、何……?晴矢、離れないでね、え?」
さっきまで後ろに居たはずの晴矢がいない。そんな、まさか。一気に血の気が引く。何処に行ったんだ!さっきと同じ場所から泣き声が聞こえてきた。その泣き声に焦りが募る。晴矢、どこに行ったの、戻ってきて晴矢!がむしゃらに野次馬やら通行人の間を突き進む。
「っ晴矢!」
いた!よたよたしながら明らかに下を向いているあの後ろ姿。どうやら周りの声は全く彼に届いていないらしい。何回名前を呼んでも振り向かない。走って走って、やっと晴矢の肩を掴んだ。晴矢が振り返る。
「……ヒロト?」
「勝手に離れないでよ!今この辺りで悲鳴が…」
「あ、ひ、ヒロト…!」
「え?」
晴矢が俺をすり抜けて後ろに視線を向けている。そして怯えた表情。晴矢、何を見て―――。
後ろを見ると、黒いパーカーを来てフードをかぶった男が銀色のナイフを今まさに俺に突き刺そうとしているところだった。あ、刺される。そうとわかると頭が働かなくなって、いやに冷静になった。そうか、さっきの悲鳴この通り魔の。
「っヒロト!!!」
づぶん。腹に、刺さる。痛い。痛い。ナイフを抜かれた。地面に体を投げ出すと、急に意識が遠くなってきた。あ、もうだめ、かも。晴矢のいた位置から何かの割れる音が聞こえた。
俺の意識はフェードアウト。
気が付くとベッドの上だった。何だろう、この感じ。腹の感覚がない。内臓が空っぽな感じ。麻酔されてるのかな。
ベッドの横の椅子に腰掛けていたのは晴矢ではなく、同い年の風介だった。俺がこんな状態なのに寝ているというところが彼らしい。
そういえば、刺されたんだっけ俺。すごく痛かった。もうあんな思いは嫌だなあ。あの通り魔は捕まったのかな。あの調子だと犠牲者は俺以外にもいるんだろうなあ。痛わしい。俺が言うことでもないけどね。カーテンの隙間から覗く空は憎たらしい程真っ青だった。もう朝だったの。そういえば晴矢はどうしたんだろう。買ったもの壊してないかな。大丈夫かな。
「…起きたのか」
「あれ風介も起きたの。昨日から此処にいてくれたの?」
「今朝からに決まってるだろう」
「…だよね」
やっぱり風介だね。飾らない。晴矢と風介と俺はずっと一緒だった。それこそ幼稚園に入ったすぐ後から。いつからだったかな。これでも初恋は風介だったんだけど。まあ幼稚園児だった頃だからすぐに忘れたけどね。中学生のとき晴矢が俺のこと好きって知って。告白されて知ったわけじゃなくて、ただ単純に晴矢が分かりやすくて。文化祭で俺がスーツを着た時の、晴矢の反応に思わずどきっときちゃったんだ。顔真っ赤にして俺だけを見つめてる晴矢。俺の視線に気付いてすぐに横向いちゃったけど、あの時俺は晴矢が好きになったんだと思う。人間って人に好意を持たれると好意を返したくなるものらしいし。でもその頃は晴矢の反応が楽しくて苛めてるだけだった。不必要に顔を近付けたり、過剰にボディタッチをしたり。今ならそれも愛情表現だったんだなあって分かる。
高校生になって、やっぱり三人とも同じ高校で。俺と風介は一般入試だったけれども晴矢は学力でアウトだったのでスポーツ推薦。流石、スポーツ何でも出来るからなあ。とあの時は風介と感心したものだ。
風介は早々と彼女つくってすぐ別れてを繰り返していた。一部からは体目当てと囁かれていたがとんでもない、風介はほとんど抱くという行為をしないまま別れることが多かったのだ。一ヶ月もっても、三ヶ月もっても。
俺と晴矢は相変わらず彼女を作らなかった。俺は晴矢はまだ俺のことが好きなんだと知っていた。意外と一途。俺は無意識に晴矢から自分に迫ってくるのを期待していたのかもしれない。結果きてくれたのだけども。
高二の夏かな、じわじわと暑い学校。放課後、教室に残ってるのは俺と晴矢だけだった。明るい教室は窓の外の樹の深緑まで映し出していた。太陽の色と樹の色が絶妙に俺たちを照らす。晴矢が唸る。
「あっぢいよおー」
「我慢して、俺だって暑いよ」
「帰りてえ…風介まだ?」
「あと三十分くらいじゃない?」
「げええぇー…」
晴矢が日に当たっていない机に突っ伏す。風介は今、…何だっけ、何かの検定を受けている。二人でその帰りを待っているのだ。もっとも一人はもう帰りたそうだが。
「あ、今よりもあついことをすれば涼しくなるんじゃない?」
「は?何それ。暑いままじゃん」
「心地好い暑さだよ」
「わけわかんね、え」
無防備な晴矢にキスをした。みーん、みんみんみん。蝉の音しか聞こえない。静寂そのものだった。しばらくの時が流れた。
口を離すとさっきよりも顔を赤くした晴矢が口を押さえてこっちを見ていた。俺が好きなの、丸分かり。そんな彼に追い討ちをかけてやる。
「好きだよ、晴矢」
間があいてから、顔をくしゃ、と歪めてぽろぽろと涙を流す晴矢。下を向いて顔を隠しながら小さく俺も、と呟いた彼を見て初めて愛しいという気持ちになった。
そこから、俺たちはやっとお互いの気持ちを繋いで現在まで至っているわけだ。
また、すぐに風介に俺たちの関係はばれた。晴矢があまりにも挙動不審だから風介に監視されてしまったのだ。そして結果ばれたと。まあ晴矢が分かりやすいから俺と晴矢は今付き合っているんだけれど。
風介は何も言わないで今までどおり付き合ってくれている。偏見のない人でよかったと心底思う。
分かりやすくて、意地っ張りで、でも素直で、俺のことちゃんと考えてくれてる。付き合う前より晴矢にのめり込んだ。この愛しさは触れてみないとわからないね。
何だかんだ言って俺は晴矢にべた惚れなんだ。
「…おい、本当に起きてるのか?」
「え、あ、起きてるよ。何か言った?」
いつの間にか考え事に走っていたようだ。風介はため息をついて口を開く。
「君の所為で晴矢の意識が戻らないんだよ」
「…………ええ?」
それはまた、にわかに信じがたい出来事だ。俺の顔にはきっと冗談だろう、と書いてあったのだろう。風介は本当のことだよと俺を睨んだ。
「君が刺された後倒れたんだ。…衝撃が大きかったんだろう。今は多分晴矢の家だと思う。」
「起きてるの?」
「だから、意識が戻らないんだと言っている。さっき晴矢の家を訪ねたんだが晴矢の母さんが出たんだ。ずっと眠ってると聞いた」
「…………そう。じゃあまだ電話とかしない方がいいね」
「………そうだね」
少しの沈黙。最近はめっきり風介と二人きりになることも減った。こういう時何を話せばいいのか分からなくなる。
「…もう、雪が降る季節になっちゃったね。」
「何をしんみりしているんだ。君ははやく退院することを考えろ。」
………………怒られた。
何週間かして、俺は無事退院することが出来た。退院するまでに腹を何針か縫ったとか、警察が毎日来たとか、マスコミが来たとか色々あったけど俺はそんなことが気にならないくらい晴矢に会いたかった。風介が来たあの日から全く会ってない。
病院を出てしばらくしてから携帯を開く。
「もしもし」
「……はい、もしもし」
「晴矢。久しぶり。…あのね、今近所の公園にいるんだけど」
「えっ、ほんと?いくいく!」
電話を切ってから、俺は今の晴矢の言葉に違和感を感じた。…何だか全体的に丸くないか?気のせい?
程なくして晴矢がたどり着く。そして違和感は確かなものになった。
「久しぶりヒロト!会いたかった!」
満面の笑みでこっちを見る晴矢に、俺は無意識のうちに後退っていた。晴矢が首を傾げる。違う、晴矢は、こんなことしない。もっと仏頂面で何通り魔に襲われてんだよとか言ってから、恥ずかしそうにおかえりって言うんだよ。分からない。誰だ、これ。
「…ちょ、ちょっと待って」
「?」
「き、君は、誰だ」
「えっ、南雲晴矢だけど。どうしたヒロト、記憶喪失か?」
タチの悪い冗談だ。晴矢は演技が出来る方ではない。目も本気だ。辛うじて俺はううん、どうにかしてたとだけ言葉を絞りだした。何これ。何これ。何これ。俺の大好きな晴矢がいない。目の前にいるはずの晴矢が。
「そういえばさー聞いてくれよヒロト」
「な、何?」
「…なんかさ、ここ最近のことが思い出せなくて…大学に入学したこととか、ばあちゃんが死んじゃったこととかは思い出せるんだけど…」
「え?何それ…やばいでしょ」
「うん…でもさ、日常生活に全く支障ないからいいかなって。」
「……大丈夫?」
晴矢に対して顔を近付ける事がくせになっていた俺は、何気なく顔を近付けた。すると晴矢は顔を真っ赤にして俺を突き飛ばした。痛い、腹に響く………!あまりの激痛に顔をしかめていると、晴矢が目の前で荒い息をしてこっちを見ていた。あれ、こんな光景前も見たことある。
「あ、俺、その、……」
これって、俺たちが付き合う前の。
「違う、……あの……」
まさか。
「…………ごめんっ!」
ばたばたと公園を出ていく晴矢を見つめながら、俺は動くことが出来ない。追うことが出来ない。
何故なら、今俺が見ている晴矢は俺の付き合っている晴矢ではないからだ。
なんだ、何が起こっているんだ。俺はただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
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タイトルは天野月子「ウタカタ」より