大人と言うのは自由に見えて子供よりも縛られていて。何も出来ない、恋愛さえ上手く。元々恋沙汰には不器用で、一生懸命にならないとついて行けなかった。その不器用さが祟って、あんなに恋をしていた南雲と別れた。あっさり。もう終わりにしようと。こんな不毛な恋愛は、やめてしまおうと。
彼のその提案に、私は反論しなかった。彼は何も言わない私を傷ついた表情で、長い時間見ていた。彼の去り際私が何かしていたなら、引き止めたり声を掛けていたりしたなら、違う未来を描けただろう。だって私には引き止める資格がなかった。南雲へのキスの仕方も忘れてしまった私に、何が出来るというのだろう。仕事が忙しいからと理由につけて会わないで、そのまま半年。そりゃあふられもする。結局は終幕は既に用意されていたのだった。
縋る事はしない。けれども彼に謝罪と礼を言いたかった。有難う、すまなかったと。
「あんた誰だ?」
私はその一言で目の前の焦点を合わせた。目の前にいるのはよく見知った顔。…だけれどだいぶ幼い顔。そうだろうね。遠い昔の、共に戦い共に争った記憶の。
あの頃の、南雲が目の前にいた。否バーンと言ったほうがいいのか。カオスのユニフォームを着ているので雷門と戦う前なんだろうか。顔の黒いラインが人としての異様さを引き立てる。私たちは宇宙人だったから、異様でなくてはならなかったんだ。これは夢なんだろうと理解して、私は口を開いた。何ともリアリティーのある夢だが、不思議と懐かしみのある夢だった。
「…そうだね、Sとでも名乗っておこうか」
「けっ、カッコつけてんじゃねーよ」
こいつ…今思うと糞餓鬼だ。実力がある分更に腹が立つ。まあ何も言わないが。こんな奴でも私の愛した人の過去の姿なのだから。
「それよりもねえ、南雲…じゃなくて、バーン」
「なんだよ、俺の名前知ってんのか。…あんたさあ」
「何?」
「俺のチームメイトに何か似てるかも」
「………ふうん。」
チームメイト。ちゃんと思われていたのか。いつも仏頂面だったからよく分からなかった。チームメイトになっても尚、喧嘩してばかりで敵だと思われていたのだと考えていた。私が話、聞いてもらっていいかな。と言うとすぐに彼は承諾した。時間があるみたいなので彼の部屋にお邪魔することにする。ふと昔の自分に会ったらどうしようと考えたのだが、無駄な仮定だったのでやめた。
「あんた知らない人だし何か怪しいけど、他人な感じしないしいいや」
子供の勘というのは恐ろしいものだ。あの頃はだいぶ大人びて見えた彼が、小さく稚拙に見える。後ろを向いた彼の背中のなんと小さいことか。十番を背負った彼は、私の隣に立っていた彼は、遠い過去の存在なのだった。
広かったように感じた彼の部屋は、大人の私にとっては普通の一人部屋だった。
「…あんた何思い詰めた顔してんの?自殺?自殺でもしようとしてるわけ?」
「…はあ?」
「出来るぜ自殺。そこの窓から飛び降りれば山の谷間にまっ逆さま。出来るぜ、ほら」
「私はそんなつもりはないよ。決めつけが早すぎるんじゃない?」
「だって俺のかあちゃん、あんたみたいな顔した次の日に自殺したし」
「え」
「だから、あんたも死ぬのかなって」
不謹慎な事を真顔で吐き続ける子供。ぞっとした。こんな子がこの施設には沢山いる。私もその一人。何という地獄だ、此処は。私が険しい表情をしているのを見てか、彼はでも、と言い足した。
「寂しくないぜ、俺。仲間と父さんがいるから。」
「…幸せかい?」
「え?」
「君は今幸せかい、と聞いたんだよ」
彼は少し考えるような素振りを見せる。うぅん、と唸ってからうん、そうかも、と呟いた。こんな簡単そうな難題を考える、という行為から彼は昔から頭の良い少年だったのだとうかがえる。
「頑張ったら父さんが認めてくれるんだ。頑張った分だけ、父さんはこっちを見てくれる。嬉しい。」
「君は…“父さん”が大好きなんだね」
「うん、大好き。」
私は目を細めて彼を見た。素直な彼が、とても珍しい。愛しい。
彼は、あ、あと、と言った。
「チーム結成して、前敵だった奴が入ってきたんだよ」
「…そう」
「俺さ………そいつの事、嫌いで堪らなかったんだけど」
「……………」
嫌いときたか。
「同じチームになって、そいつのいいところも見えてきて。…今は、その、」
「好きなの?」
「ばっ……好きじゃねえよあんな奴!」
顔を真っ赤にして否定する南雲。分かり易過ぎて駄目だ。可愛いね、本当に。今の彼は分かりにく過ぎていけない。大人になるとはそういうことなのだ。
「…でも、サッカーの実力は認めてやってもいいかもな。俺には劣るけど?」
「……君の好きな人は」
「あ?」
「きっと、君の事が好きだよ」
「はあ!?…何でそんなこと分かるんだよ。」
「分かるよ」
私が微笑むとばつが悪そうな顔をした。流石に私が君の好きな人だからね、とは言えない。
「っ…ほら、あんたにはいないわけ」
「何が?」
「す、好きな人とか…さ」
「ああ………、別れてしまったんだ」
「え?…じゃあもう好きじゃねえの?」
「…今も好きだよ。とてもね。」
「じゃあ、ふられたのか?」
「私からふったようなものだ」
私の言葉に、南雲は首を傾げる。難儀なことだ。お互い同じ人間のことを話しているのに、こんなにも境遇が違って。
「は?じゃあ何で別れたわけ?」
「私には、引き止める力がなかったんだよ。…恋人をね、放っておいた私が悪いんだ、だから」
「それはあんたのせいだろ。」
「だからこそね、私には駄目だった。声を掛けたら余計遠退いてしまうような気がして」
「…そんなの、自分勝手だろ」
「え?」
南雲が眉間に皺を寄せて叱り付ける。自分のチームメイトに説教をするときよく見せていた表情だ。
「あんた、あんたの恋人の気持ち考えたことあんのかよ。放っておかれて、ふられて、恋人可哀相だろ。恋人はふられるまであんたの事待ってたんだろ。…何で引き止めてやんねえんだよ」
私に説教を垂れる彼の目には涙が光っていて、色々と考えてくれていたのだと切なくなった。また、別れてしまった南雲の事を考えて私は目頭が熱くなった。うん、私は今でも彼が好きだ。
「…聞いても、いいかな」
「あー?」
「君は“涼野風介”を好きになってよかった?」
「!?…あんた、」
「“涼野風介”の、どこに惹かれた?」
唖然としたままの幼い南雲を目の前に、私は今にも泣きだしそうだった。もうだめだ、南雲の顔を見ることが出来ない。
そして、南雲の凛とした声が響く。
「あいつを好きになって、俺は後悔してない。…どこに惹かれた?って…何だろうな。こいつとなら、どこまでもいけるって思ったんだよ。」
「………………」
「…俺は、涼野を好きになって、希望を貰ったんだ」
南雲の優しい笑顔に、私は泣くのを抑えることが出来なかった。大の大人がぽろぽろ涙を流しながら嗚咽を堪えている。南雲は小さい手で、頭を撫でてくれた。そうだ、大人になっても君はそうやって私を励ましてくれたね。こんなにくだらない壁によくぶち当たって、そのまま立ち上がれなくなる私に優しく話し掛けてくれた。その声が、好きだった。
私も心から思ったのだ。
君を好きになってよかった、と。そして君に好きになってもらえてよかった、と。
「…未来を変えに、いってくるよ」
「おお、わかったんだな!恋人幸せにしてやれよ」
私だけじゃない。君の未来も。
私は彼の部屋を出た。幼い彼にさよならも言わず。向こうもさよならとは言わなかった。何処かで察していたのだろうか。また会うかもしれないと。部屋を出て少し歩くと、私の横をぱたぱたと通り過ぎてゆく少年。…あの髪の色は。少年が南雲の部屋のドアを力任せに開けた。中から南雲の怒鳴り声が聞こえる。
「っ勝手にドア開けんなって言ってるだろ馬鹿ガゼル!!!」
「鍵をかけない君が悪い」
私は現実世界に戻ってきたようだ。体が痛い。どうやら私は床で寝ていたようだった。みしみしと嫌な音を立てる骨を無理矢理動かし、床から起き上がる。
…あの夢は、情けない私への戒めだったのだろうか。それならば私はきちんと償わなければ。
休日を潰す準備をしよう。朝早いのにもかかわらず携帯を開く。発信履歴の一番上の通話ボタンを押す。…きっと出てくれるだろう、彼のことだから。
「………ふぁい、」
「もしもし」
「……………」
ぴたりと止んだ声。その無音に私は一瞬怯んだが、臆せず話した。
「私は君とよりを戻したい。だから、今日私と会ってくれないか」
「…………」
「私は自分勝手だ。酷い奴だと君は思っただろう。…自分勝手でもいい、君が好きだ」
いつの間にか泣き声になっている。ああ、本当に私は情けない男だ。こんな醜態ばかり曝して何をしているんだか。いいんだ、君と会えるのならどんな羞恥を請け負っても構わない。だからもう一度だけ、振り向いてほしい。
「…ばーか」
「うん」
「ほんと、今更なんだよ。何であの時言わねえんだよ」
「言うべきじゃないと思って…」
「…どんだけ寂しかったと思ってんだよ」
「ごめん…」
向こうから大きなため息が聞こえた。呆れたのだろうなと思う。私が押し黙っていると、南雲が話を切り出した。
「わかった。行く。お前んちに出来るだけ早く。」
「……え?いや、駅でも別に」
「うっせえそこで待ってろ。一発殴らねえと気が済まねえ」
殴られ決定。
「じゃーな、逃げんなよ」
いきなり切られた電話に、私は何をするでもなく座っていた。何だかんだ、離れられないんだね私達は。こんなにすれ違っても嫌いになれないのは最早苦痛でしかないのに。それでも。
だってあんなに一緒に戦って、一緒に勝って一緒に負けて、辛い毎日を共に変えてきた大切な好敵手と、今更縁を切るなんて出来ない。そこに愛があれば尚更。
「私も一生、南雲を好きになって後悔することはないよ」
南雲が泣きながら私の頬を殴りに家に入ってくるまで、あと三十分。
その愛しい最愛の人にキスをするまで、あと一時間。
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一生にたった一つの恋を、決して捨てたりはしない
(君も同じ気持ちだと言うことを、二度と忘れない)