大人
アパートの合鍵で鍵を開けて部屋に踏み込むと異様なにおいが立ちこめた。鼻につくと言うより纏わりつくようなにおい。またか、と思う。あの人はメンタルが極端に弱くていつ死んでもおかしくないような状態に陥る。そんなとき誰かが傍にいてあげなければ。あの人は孤高を愛した。だからこそ孤独で、だからこそ俺はあの人が好きなのだと思う。
「……何で来たの」
ヒロトはテーブルに頬をつけて気だるげに言った。テーブルの上には精神安定剤、安眠剤、胃腸薬など様々な薬が散乱していた。俺はその薬を一まとめにして救急箱に入れる。今回はそれほど精神的に参っていないと思われる。前来たときの第一声は「マジックマッシュルームって、美味しいのかなあ」だったからだ。
「別に。料理でもしようかと思って」
「無理だよ、胃が受け付けない。そんなことよりセックスしようよお」
「それこそ吐くんじゃねえの。粥作ってやっから寝てろ」
ヒロトは何を言うでもなくテーブルに突っ伏したまま動かなくなった。寝てるのではない。どうやって死のうか考えているのだ。こんなんでよく仕事がつとまるものだと思う。きっと仕事場ではいい顔をしているんだろう。
まず散らかり放題のキッチンを片付けてから作らなければ。ごちゃごちゃと物が乗り過ぎて下に酒の瓶やら缶やらが転がっている。シンクは汚れ過ぎて何かがこびり付いている。自然とため息が洩れた。
「最近いつ、此処片付けた」
「んー、いつだろうね。一ヵ月前、くらい?」
「それ俺が来た時じゃねえか……」
「だってキッチンなんて片付けてないもん。」
「あんたなぁ………!」
「そうしたら、晴矢が来てくれるでしょ?」
―――否定、出来ない。そして俺はヒロトに必要とされていると感じて嬉しく思ってしまう。どうせ、また来ることになる。缶だらけのゴミ袋を眺めて、俺がヒロトの酒や薬の代わりになれたらいいのにと思った。
「最近どれだけ飲んでも酔えなくなってきてね」
「元々強いくせに、飲み過ぎて慣れちまうからだろ」
「正直苦しいよ。何も俺を救ってくれないんだ」
だから、俺が、此処にいるんだろう。ヒロトには俺が見えていない。仕方ないのかもしれない。大切な時期を、敵ばかりで過ごしたのだから。禁忌に頼る事に、慣れてしまったのだ。
綺麗になったキッチンで粥を煮る。水を多めにしよう、柔らかくないと吐いてしまうかもしれないから。きっと飯もろくに食わずに薬を次々に放り込むから、胃を痛めているのだ。病院に連れていってあげれれば一番良いのだが、本人には全くその気は無いようだった。
煮詰めている間、俺はヒロトをベッドに持っていきテーブルをさっさと拭いた。本当にこの一室はキッチンとベッドとテーブル以外汚れない。いかにその三ヶ所しか使っていないかが解る。ヒロトはベッドで何か呟いている。よく聞いてみると数字の羅列だった。
「何だよそれ」
「円周率」
まだ続くまだ続く。頭を使う方向を間違えたな、と考えつつ冷蔵庫の中にあったおつまみであろうザーサイを取り出し、包丁で細く切る。梅干しが無かったので苦肉の策だ。
ちょうど粥がいい感じに出来たので火を止めて、茶碗に少量入れる。ザーサイを上にのせて、簡単中華粥の出来上がり。
「………食べたくない」
「薬飲みたかったら食え」
「うー」
うだうだ言いながらベッドから起きてきて少し口に運ぶと、ぽつりと美味しいと言った。たかだか粥だけどな。夢中で頬張るヒロトを見て、来てよかったと思う。一人ではヒロトは生きていけない。一人で生きている人間なんてほとんどいないのだから当たり前だけれど。俺たちは宇宙人じゃない、人間なのだから。
「おかわり」
「へいへい」
食欲も出て元気を取り戻しつつあるようだ。ヒロトが思い出したように声をあげる。
「そう言えばね、玲名、結婚したんだって」
「ほんとかよ…信じられねえな何か」
「ねえ。玲名だからきっといい旦那さん見つけたんだよ。」
「良いんじゃねえの、幸せそうで」
そういえば風介も婚約したとかなんとか言っていたような気がする。がつがつと粥に手を付ける様子を見てそんなに急いで大丈夫なのかと不安にもなるが、今は手を付けてくれたことに安心する。錠剤に頼り過ぎて飯をろくに摂ってなかったようだ。
「ご馳走様でした」
「御粗末様でしたー」
ヒロトは嬉しそうにベッドに座っている。久々にテンションがハイになったのだろうか。薬を飲み終わったのかヒロトはねえ、と俺に話し掛けてくる。何だと返すとゆったりと話しだした。
「此処は、砂で出来てるみたいだよね」
「………は?」
「波打ち際の砂浜に、よく子供が山作ったりするじゃない。あれみたいな」
「………ああ、そういう」
「俺は波に負けて崩れちゃうんだよね。波にさらわれて戻れなくなる。でも、晴矢がその度に作り直してくれるから。」
「…………」
「俺は俺でいられる、というか。はは、くさいね何か。」
「…そんなことねえよ」
楽しそうに笑うヒロトを見て、どうでもよくなった。ヒロトが明るい表情をしているのは久しぶりだった。こんなポジティブな話を切り出すのも。
「…俺はやっぱり、明るいあんたが好きなんだよ」
「普段会えないから、尚更でしょ」
「そうかもしれない」
ベッドまで歩いていって、ヒロトにキスをした。少しザーサイの味がしたが気にしない。
「ふ、」
ヒロトが舌を差し込んでくる。ちゅく、とベッドの周りに音が響いた。実際そんなに大きな音はしていないんだろうけど、鼓膜が犯されてゆく。しばらく舌が上へ舌へ歯を撫でたり頬の内の肉を舐めたりしていたが俺の息が続かなくて、肩を叩いたらやめた。
「………ぷあっ、は」
「相変わらず下手だね。息してればいいのに」
「し、かたが分かんねえんだよ……ふあ!」
ベッドに押し倒された。まあそんな展開だとは分かっていたが。一応抵抗はしてみよう。
「飯のあとに急な運動はやめた方がいいんじゃねーの?」
「晴矢こそ最近してなかったからしんどいんじゃない?慣れておかないと」
「やっ…いいから…んんっ!」
さっきよりも激しいキスだ。まずい、本気モードに入ったらしい。やめてくれ、と肩を押してみるがやんわりと指を絡めとられてしまった。
「……ぷはっ、やっ、マジで、着替えとか持ってきてねえから」
「俺の使えばいいじゃない」
「下着とかっ……」
「使ってないのあげるよ」
駄目だ、全くかわせない。するり、と服の中に手を入れられてしまえばそれまでだった。まあ、つまりいただかれる前触れだったと。
非常に優しい、ゆっくりとした愛撫だったのを覚えている。決して急かさず、大半キスで流された。ついばむようなキスや、舌でつつくキス。あまりにも甘く時が過ぎてゆくので時間を全く気にしていなかった。綺麗な、淡い緑の瞳が自分を見るたび熱が上がっていくのが分かった。愛されているのだ、と初めて信じることが出来た。
すっかり日が落ちた頃に俺は目を覚ました。目の前を見ると俺に腕枕をしたまま全裸で寝ているヒロトの顔があった。綺麗な、顔付きだな。今更だが。
ヒロトの唇にキスを落とす。ヒロトはんん、と身を捩って俺を布団に引き込んだ。
「ちょっ、俺帰んねえと…」
「ん……泊まっていけばいいじゃん…」
寝呆けているのか若干言葉が雑だ。まあ別に泊まっていってもいいのだが、悪戯がしたくなる。布団から出るとばかりに身を起こすと、腰に腕を回されてがっちり掴まれてしまった。
「…………………。」
そのまますやすやと後ろから寝息が聞こえてくる。抜け出そうとしても腕が全く放す気配がない。何でだ。何で寝てるのにそんなに力が強いんだ。まず落ち着かないのでパンツが履きたい。が、動けない。
「ヒーロートー」
「…………」
「出ていかないから放せ、服が着たい」
「…………」
「ヒィーロートォー!!」
あんまりにも動かないので足を蹴る。力を入れて蹴っているので痛いはずなのだが、全く反応がない。
と思ったら起きだした。
「………うるさいよ晴矢」
「んぐっやっ……!」
またキスされた。今度は向かい合ったまま腰を掴まれてキスされているので逃げられない仰け反れない。こんなに寝起き悪かったっけ、この人。のそのそと布団から這い出してタンスに向かった。
「ボクサーでいい?…あー、もう。久々に気持ち良く寝てたのに。台無し」
「だってあんた俺の自由を奪ったまま寝るだろ。俺だって動きたい。」
「いいの。此処は俺の城なんだから」
「ちんけな城……」
「犯すよ」
「大豪邸ですよねー」
最後にヒロトがぼそりと言った言葉を、俺は聞き逃さなかった。
(脆い城だけどね)
まだ袋から開けてもいない新品のボクサーパンツを貰い、ヒロトは再び布団に潜り込んだ。俺はそれを履いてキッチンに水を飲みに行く。ベッドに戻ってくるとヒロトが目を開いた。暗闇に慣れた目がヒロトの穏やかな顔をとらえる。
緩やかな弧を描く唇に屈んでキスをして、俺は無性に自分の思いを伝えたくなった。ヒロトが俺の頬を撫でる。手に触ると、絶望するほどにその手は冷えきっていた。
「脆くて、いい。俺が直すから。ヒロトはそのままでいいから。」
「…………晴矢」
「だから、俺を好きでいて。死なないで、ほしい」
何故俺は泣いているんだろう。引き留めたいから?好きだから?思いを伝えて安心しているから?
ヒロトは顔を傾けて笑うと首に腕を回し引き寄せた。
…折角新しいパンツを履いたのに、また汚れそうだ。
「大丈夫、俺は一番晴矢が好きだよ。俺には晴矢しかいないから、だから」
強く抱き締めていて。決して、放さないでね。
手の冷たさに反比例した熱いキスを交わしながら、俺はまたヒロトに溺れていった。
(その二週間後、あの人は自分の城で自殺をする。
死因は、薬品中毒によるものだった。)
砂の城
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メンタルの差カップル萌